第一話『深夜の海は異世界へ誘う』
水の、音がする。
夜中の二時、ふと目が覚めた僕はのそのそと起き出し、部屋を後にした。
暫く廊下を歩き、階段を上がって、デッキに出る。
強い風が吹き、思わず顔を手で覆ってしまう。
風が収まって、再び前を見据える。
眼下に広がる海は、夜の闇と同化する程に、黒かった。
僕は今、広大な海のど真ん中にいるのだ、と改めて感じた。
先週、ふとした事で手に入れた、豪華客船クルーズ招待券。
何の気なしに参加したくじ引き大会の、目玉商品だった。
周囲は羨ましそうにしていたが、正直、そんなに嬉しくなかった事を覚えている。
勿論、そんなことを口に出す事も出来ず、表面上では喜んでおき、帰宅した。
あの場で、四等の音楽プレイヤーが欲しい等と言ったら、袋叩きにあっていただろう。
何とも現実味の無い、ふんわりした気持ちで帰り、ベッドに倒れ込む。
友達に誘われて参加した、ちょっとした規模のパーティイベント。
僕の様な一大学生には似つかわしくないのではと思ったが、友人の誘いを無碍には出来なかった。
まぁ持つべきものは友達というべきか、料理は凄く美味しかったのだが。
そしてパーティも佳境に入り、例のくじ引き大会が始まって。
結果は、僕の手の中にあるチケットって訳だ。
一つため息をつき、身体を起こす。
パーティの後、友人に譲ろうとしたが断られてしまった。
曰く、折角の幸運を使わずにどうする、との事。
まったく、良く出来た友人を持ったなと思う。
……どうするか。
日本国内を巡るので、日数は長くないだろう。
旅費も、チケットのおかげで大きく削減される。
でも、なんとなく、なんとなく行きたいと感じられなかった。
友人との別れ際、言われた事を思い出す。
こんな経験、二度とないぜ、と。
その通りだと思う。
豪華客船、日本旅行……。
ふと、時計を見る。
深夜一時。
……親はまだ、起きているだろうか。
結局、僕は行くことにした。
親からは、意外にもあっさり了承を貰えた。
お土産代にという事で、気持ち多めのお小遣いも貰った。
本当に、優しく、暖かい両親だと思った。
僕の欲求、言ってしまえば我儘を聞いてくれる。
大学生の息子を、文句ひとつ言わずに日本旅行に出してくれる親が、どれほどいるだろう。
友人には、気まずい気持ちで、気が変わった、とだけ連絡した。
友人は嬉しそうに、気を付けろよ、とだけ言っていた。
そんな経緯で、僕は今、海の上に居る。
豪華客船の名に恥じない、上質なサービスを満喫しながら、旅行をしている。
船が出港して、四日目。
何処かに行くよりも、海上での船旅が主な目的なこの旅は、思ったより暇だった。
プールや、映画館等、様々な娯楽施設を、優雅に楽しむ事でそれを潰したが。
現代日本の生活から離れた、どこか非現実的な船旅。
なんやかんや来てよかった、と思った。
夜風にあたり、少し目が覚めてしまった。
深夜営業しているバーに行って、一杯飲もうか。
そう思い、踵を返す。
その瞬間。
船が、ガクリと揺れた。
まったく突然で、凄まじく大きな揺れ。
何かにぶつかっただとか、そんなレベルじゃない。
まるで、何かに突然引っ張られたかのような、そんな感じだった。
あっ、と思った。
手すりから手を放していて、身体を支える事の出来ない僕は、足を取られてふらつく。
背中が手すりに当たり、ガクッと上体が反れる。
そして、不運な事に、足が滑って。
僕は、漆黒の海に投げ出された。
身体が、海面に叩き付けられる。
全身に、鈍い痛み。
そして、直ぐに息苦しさを感じた。
「ぶはぁっ!! げほっ!」
もがき、水面に顔を出す。
暗い。
月明かりの無い夜の闇は、海に溶け込み、僕から視界を奪った。
すぐ近くにいるはずの船体が、まるで見えない。
「助けて!! 助け……! ガボォッ!?」
必死で声をあげ、助けを求める。
しかし、服を着ている状態ではまともに泳げず、沈んでしまう。
口に水が入り、僕はたちまち混乱する。
視界不明瞭かつ、命の危機。
パニックを起こすなという方が無茶な話だった。
手足を無茶苦茶に動かし、暴れる。
怖い、死にたくない、助けて。
上下の感覚も失い、徐々に身体から酸素が不足していく。
薄れていく意識。
失われていく力。
身体が強く引っ張られるような感覚を、僅かに残った意識で感じた後、
僕は気を失った。
……今思うと、とんでもない不幸体験だったと思う。
でも、確かに言える事がある。
人生、良い事もあれば悪いこともある。
どうやら僕は、最悪の運命を引いた後、最高の運命に味方された様だった。
この事件は、僕の人生を変えるきっかけになった。
僕の、僕にとっての世界を変える、大きなきっかけに。