鏡面幽体験
田んぼや草原などといった景色が森林に代わり始めた頃、人が四人以外に乗っていない路線バスの車内の窓際に座る園崎リカは愛用のスマホを開いた。
「あ〜……圏外だったわ」
隣に座る桐谷サエがリカのスマホを覗き込みながら言った。
「えぇ〜それじゃLAINもKwitterも出来ないじゃん」
「まぁまぁボヤくなって……」
後ろの座席の松嶋トウヤがサエをなだめる。
「パズログも出来ないじゃん!! 終わった……連続ログイン歴三年がここに終止符を……」
後ろの座席トウヤの隣に座る田口ススムが頭を抱えた。
馬鹿話も盛り上がっていた頃、バスが止まった。
「ありがとうございます」
リカが四人を代表にお礼を告げた。
バスを降り、四人はちょっとした小道――草木が生えておらず、茶色い道――を歩く。
「なぁ。旅行だぞ? なんでお前らそんなに身軽なんだよ」
歩きながら言葉を発したススムは、リカや他のメンバーを見た。
「なんで? って宿泊セットは先に送ったからだよ」
答えたサエはどこか得意そうな調子だ。
「旅行で荷物配送とか常識だしね」
サエは自慢ぶり、手軽なバッグを振り回す。
着いたのは、しばらく空き家でしたよと言わんばかりの大きな和風式の建物だった。所々の塗装も剥げ、木は腐っていたり、窓ガラスにヒビが入っていたり。
「……ここ?」
先ほどまで元気ハツラツだったサエは肩を落とし、呟いた。
サエに続いたのはトウヤ。
「俺も、老舗旅館みたいなのを想像してた……」
肩を落とす二人の背中をリカがドンッと叩いた。
「まぁ、いいじゃない。早く入ろ!」
二人がリカに急かされ歩き、その後ろを(スマホの画面を落胆した調子で見続けながら)ススムが続いた。
「いらっしゃいませ、ご予約の方ですね?」
狭い入り口。入ってすぐに女将と思しき高年の女性が挨拶に出てきた。
「はい……」
リカが応える。
女将は続けた。
「ゆっくりとなさっていってくださいね」
靴を脱ぎ、床に足をつけようとしたところで足が止まる。
木製の床は黒ずんでいて、気に入っている靴下が汚れることが明白であった。
それを見て取った女将が両手をパチンと合わせ、言った。
「私としたことが、お客様にスリッパをお出しするのを忘れていました。申し訳ありませんねぇ」
女将はすぐにちょっとした小部屋に入る。ここで女将を待たずにあがると失礼な気もするので少し待つ。
「(印象悪いよね……)」
耳元でサエが囁くが、左手で払った。
「(そういうこと言わないの)」
すぐに四人分のスリッパが並べられた。リカ、サエ、トウヤ、ススムの順にあがり、案内されるまま部屋へと進んだ。
「つかマジヤバくね? スマホ使えないし、宿はボロいし」
部屋で自分の荷物を置いたサエが早速ボヤく。
「でも、温泉あるってよ?」
落ち込んでいたススムが普段の調子を取り戻し、サエに情報を伝える。
「なんで分かるの?」
確かにリカも疑問に思った。女将はそんなこと一言も言ってなかった。
「だってパンフに書いてあるし……」
折りたたまれたパンフレットをひらひらと振るススム。
「お前、いつの間に…………」
呆れた様子のトウヤ。
色々な話をしたりしているうちに若干暗くなり始めた頃だ。
突然トウヤが立った。
「温泉入りに行こうぜ!!」
リカはそんなトウヤを見上げ、自身も立った。
「そろそろ行こうかなって思ってたし。サエ、行こ」
「リカが言うなら、行く〜」
サエも立ち上がった。
二人はお風呂道具を取り出し、扉に向かう。
「ウチら先に行ってるから〜」
準備を始めた男性陣に向けてサエが言った。了解、ほ〜い、などの返事を聞き、リカは扉を閉めた。
「どんな温泉だろ?」
サエは宿に着いてから一番の笑顔を作り、先に行ってしまう。
妙に綺麗な――本館に比べて――ヒノキの湯船に身を沈め、リカは目を瞑る。
「ふぃ〜気持ちぃ〜よぉ〜」
横で変な声を出す親友がいるが、気にせず湯船に浸った。
先にあがったサエを追いかけるように、脱衣所へと向かった。
ガララ、と音を立てて引き戸を閉め、脱衣所を見回す。しかしそこにサエの姿は無かった。
(先に帰っちゃったのかな?)
どこにも親友の姿が見えない。
髪を乾かしながら、ぼんやりと考えた。
(なんだろう? 鏡だけは綺麗に磨かれて傷一つ無いのに、この一枚だけヒビが入ってる………)
それは不自然な光景だった。
五枚ある鏡の内、右端の一枚だけにヒビが入っていた。他の四枚は綺麗なままなのに……
(変だなぁ……)
深く考えずに、脱衣所を出た。
戻ると、先に戻っていた男性陣が夕食を食べていたところだった。
「あれ? サエは?」
聞いても、和食に箸をのばすトウヤとススムは首を振った。
「ま、すぐに来るでしょ」
ススムに言われて、納得してしまった。
「来ないね……」
食べ終わってもサエが戻ってくる気配を見せなかった。
「俺、ちょっとトイレ行ってくるわ」
ススムが立ち上がり、扉へ向かった。
「この宿、部屋にトイレも無いからね」
「眠くなってきたな……」
昼間の観光で疲れはピークに達していたようだ。トウヤは用意されてある布団で、猫のように転がった。
「あたしちょっと見てくるわ」
寝息を立て始めようとしているトウヤに向けて告げ、扉を開けた。。
(サエが戻ってこない……ススムのことも気になるし…………)
暗い廊下。他の誰かの気配を感じるような……そんな暗闇で一人、リカはトイレへの道を歩いていた。
ミシミシと音を立てる木の床に顔をしかめながら歩を進めるリカ。
トイレの電気が点いていた。男子トイレだ。
リカは近づき、声を大きくした。
「あの〜誰かいますかぁ? 高校生くらいの人とかいません?」
……………………………………………………………………………………………………
返事は無かった。
「は、入りますよぉ」
ゆっくりとした動作で扉を開ける。
女子トイレ同様に鼻腔を殴る匂いがするが、中の様子を見ていく。
(本当に誰も居ない……深夜だから電気点いてるのはおかしいし……)
古い手洗いから、水がチョロチョロと流れている音が耳に入った。見ると、
(鏡が、割れてる!?)
蛇口の上――顔の位置にある鏡は上下に大きなヒビが走っている。
もう一つ蛇口があったが、そこから水が垂れていることはなく、鏡も汚れ一つ無いほど綺麗だった。
「…気味悪い…………」
リカは急いで部屋に戻った。
「ねぇ!! 探しに行こうよ!! 一人じゃ怖いからさ……」
半分消え入りそうな声でトウヤに告げた。
「確かに、心配だよな……」
トウヤは携帯ゲーム機から手を離し、立ち上がった。
「それじゃ……行くよ…………」
トウヤの腕につかまりながら、ゆっくりと歩を進めるリカ。それにあわせてか、トウヤも歩く速度を遅めている。
二人に会話は無かった。ほとんど真っ暗な中、響くのは四つのミシミシという音だけ。
リカのこめかみから、嫌な汗が走る。全身の毛が逆立つかのような感覚を覚え、必死にトウヤの腕にしがみつく。
視線の先で捉えたのは先ほどのトイレ。
「ここが、言ってた“妙な場所”か……」
コクコクと頭を上下に振るリカ。心臓は今にも弾けそうな程だった。誰かに見られているような気がしないでもない。
「俺、ちょっと入ってみるわ」
驚きで、顔をあげたリカ。
「待っててな」
頭にポンと手を置き、トウヤはトイレの中へ消えていった。
何分くらい待っただろうか。数分とも数十分とも思えた時間だった。押しつぶされそうな暗闇の中、耐えるようにトウヤの帰還を待っていた。
しかし一向にトイレから出てくる素振りが見えなかったので、リカは我慢出来ずにトイレの扉を開けて、押し入った。
「トウヤ!!」
そこにトウヤの姿は無かった。
割れている鏡の左横。綺麗な筈の鏡は………………
――割れていた――
目眩がした。倒れそうだった。
底なしの不安と恐怖がリカの中で渦巻いた。
「女将さん、に、相談して、探して、もらった方、がいいよね………………」
喉がヒクついて上手く言葉が出ない。
とりあえず、トイレを出た。
やや急ぎ足で女将の部屋へと向かうリカ。壁に手を添え、かろうじて倒れないように支えていた。
通路が分かれている十字路。
左側に水道があった。ちらりと目をやると、とある鏡に意識が向いた。
左から二番目の鏡だった。
近づいてみると、なんの変哲もない平凡な鏡だが、魔性の妖気を帯びているかのように惹きこまれた。
ぼんやりと見ていると、鏡の中のリカが、こちらへ手を伸ばしてきた。
「ヒッ!!」
舌が萎縮して、喉がヒクついて声が出なかった。
体全体が硬直する中、鏡のリカは、にやりと笑った。
その直後、鏡が割れる音が廊下に響いた――――