第百九十一話 輪を描き、転じて生を受ける世界
アッテンドリア帝国の一件から、すでに数日が過ぎた。
そして今日という特別な朝がやってくる。
今を思えば長いようで短かった。
あの朝から、怒濤の日々が過ぎていった。
スープを飲んだ僕が死にかけ、白の賢者様に会った朝。
大切なお嬢様に魔族にはないはずの味覚があることを知ってから、はや半年。
侯爵家はようやくこの日を迎えることができた。
今日はお嬢様三歳の誕生日。
そして離乳食を卒業される日であり、誕生日と離乳食卒業を祝ってパーティーが行われる日であった。
お嬢様の誕生日と離乳食卒業を祝うため、このミストファング侯爵領に魔王をはじめ、魔王国各地からファントニー侯爵やアルティコ伯爵など多くの貴族が一同に集まってくる。
魔王の側近である王室管理局局長のオフェリアさんとオクセン宰相も参加予定で、大神殿からはフェニ大神官も参加する。
国外からの賓客も多い。
妖精の国からは異世界商人であるヨヨさんが。
エルフの国からは巫女であるメリッサさんと戦乙女ヴァリーを連れたクセニアさんが。
ドワーフの国からは巫女のオリゼさんとハジャ一族族長、それに命の水で世話になったギルムさんの兄ガルムさんの参加が決まっている。
龍の国からはメリジーナさんが代表として参加する。
残念ながら長時間、陸に上がっていられない海洋族の参加はない。
その代わりお嬢様の誕生日プレゼントに大粒の真珠と新鮮な魚介類をこれでもかと贈ってくれた。
また人族からは巫女であり、魔王国の名誉男爵でもあるアリシアさんが。
スミール王国からはマリアさんとエリック隊長が参加する。
そしてアッテンドリア帝国からジェミノスさんが参加することになった。
いろいろごたついているタイゲン王国と獣族の村エデンからの参加はない。一応、声をかけていたが、国内のゴタゴタが片付かず、さすがに無理だったようだ。
ただし、参加できないセドリック王からお嬢様宛てに大量の花が、エデンの長老セッソさんからはエデン産の食材が、お祝いの言葉と一緒に贈られている。
特に今回、誕生日プレゼントとして贈られてきたエデンの村でとれたハチミツはクセもなく高品質で、妖精の花蜜と甲乙つけがたい逸品だった。
王立生体研究所関係では元局長のギョウブさんとキキョウさんが参加する。三十一種類の新種生物発見に尽力したプレスコットさんに色々と聞きたいのが本音らしいが。
お嬢様と仲のいい水の精霊ディーナさんとドリアードのリアルルさんも参加してくれる。
ほかにも侯爵領やお嬢様のために食材を育ててきた人たちが招待された。
港町リバシールの代官セルムさん、ライオットさんをはじめ、『リヴァイアサンのヒレ』のオーナー兼シェフのオニキスさんが料理人として来てくれた。店を臨時休業しての参加である。
『八百屋オイシー』の仲間ニーナさんやグレイたちコボルト族。
シュリーカー族からはジュロウさん。
侯爵領からもミノスさん夫婦、ソーサさん一家とミケーネさん、ギルムさんたち酒造りのドワーフたちが参加している。
人魔一族からはマイモンさん、ミーアさん、ソフィアさんが参加することになった。ダンジョンから助け出した人魔一族は、すでにスミールの拠点からウスイの街の西にある村の建築予定地に移動している。今はゴブリン族たちと一緒に日夜、村づくりに頑張っている最中だ。
そのゴブさんたちは今日も街の警備とパーティー会場周辺の警備。
お嬢様のペットであるウサギンの『ヒース』と『ラピーヌ』、ブタモンちゃんの『ぷうちゃん』も参加する気満々のようだ。
それとお嬢様にべったりな元スノーンのユキを始め、侯爵家に住み着いているクレベリやリリイたちも自動的に参加となる。
そして今回、ヨーコさんが参加する。
彼女とは、なんだかんだと長い付き合いだ。ただ、これまでお嬢様に紹介したことがなかった。お嬢様に会えば、その美しさ、聡明さ、そして可愛らしさに涙するに違いない。ついでに尻尾の一本や二本、置いていってくれないだろうか。
一応、忍者姿で来ないように言ったけど、どんな格好で来るつもりなのか、それだけが不安である。
あー、そうそう。
悪魔のベルゼブブ、サルガタナスも招待していたのを忘れていた。
ほかにも大勢いるのだが、きりがない。
パーティーの会場は侯爵家の庭で行われる。
始まるのは昼からだが、朝早くから準備が進められていた。そのせいか、いつもの朝より少し騒がしい。
陣頭指揮をとるセイバスさんの声が耳に届く。
今、僕は柔らかい絨毯が敷かれた廊下を歩いていた。
パーティーの準備を進めるメイドさんとすれ違うたびに朝の挨拶を交わす。僕を含め、皆、歩く速さがいつのも二割増しだ。
今日という日を誇らしげに感じているのがよくわかる。
廊下の窓から斜めに差し込む太陽の光に目を細めながら、ふと空を見上げる。そこには雲ひとつない清々(すがすが)しい青空が広がっていた。
まるで今日という日を空が祝福しているかのような快晴だ。
廊下に視線を戻し、先を急ぐ。
しばらくすると花模様の細工が彫られた扉が見えてきた。
この向こうには僕が仕える主、ティリアお嬢様がお見えになる部屋だ。
いつもと同じ、いつもの時間。
扉の前に立ってすぐ、ゆっくりと扉が開いていく。
「おはよう、アルクくん。お嬢様の着替えは終わっているわ」
開いた扉のそばには優しい笑みを浮かべたイーラさんが立っていた。
今日も時間、タイミングともにぴったりだ。
そんな彼女の顔もどこか誇らしげである。
さすがは完璧を誇る専属侍女のイーラさんだ。
「おはようございます」
僕は挨拶をしながら、部屋と足を踏み入れた。
お嬢様の部屋は白とピンクを基調している。大きく開かれた窓からは、まばゆいほどの陽の光が部屋に射しこんでいた。頬を撫でる風は新鮮な空気とともに花の香りを運んでくる。
淡い黄色のカーテンが風になびくなか、陽の光を一身に受けながら、窓のそばに立つのは一人の天使。
パーティー前のお召し物は可愛らしいフリル付きのコスモスピンクのワンピース。美しい赤い髪を白いリボンでまとめておられる。
天使は僕の気配に気がつくと光の中、その顔に笑みを浮かべ、ゆっくりと振り返る。
ぱっちりと開かれたバラのように美しい赤の瞳が僕をとらえた。
僕は彼女の前に歩を進めると、執事として頭を下げた。
「おはようございます、お嬢様。今日という特別な日にふさわしい良い天気にございますね」
同時に、「今日のお召し物はいつも以上にお似合いです」と正直な感想を付け加えた。「会心の仕事でしょ」と自画自賛するイーラさんの鼻息が聞こえてきそうだ。
「おはよう、アルクん。とてもいい天気なのー!」
半年前より、しっかりとした口調で返事をされたお嬢様はもう僕に登ることはない。それが寂しくもあり、お嬢様の成長を感じさせる喜びでもあった。
寂しさ半分、喜び半分である。
いや、寂しさ八割かもしれない。
「それでは参りましょうか、お嬢様」
「はーい。参るのー」
これまでは毎朝、侯爵様御夫妻が迎えに来られていた。
だが、今日からは僕たち使用人と食堂に向かうことになる。
これも三歳を迎えられ、離乳食を卒業されるからこその変化だ。
笑顔のお嬢様と手を繋ぎながら、僕とイーラさんは一緒に食堂へと向かった。
今日の朝食は特別なものとなる。
離乳食を卒業される今日。
家族と食卓を囲むこの日の朝食をもって、お嬢様最後の離乳食となるのだ。
特別といってもメニュー自体は特別ではない。
昼から始まるパーティーのために軽めの朝食が用意されている。
パンをミルクで柔らかく似たパン粥に、じっくり煮込まれた野菜入りのスープ。それにカットされたフルーツとヨーグルト。
お嬢様は最後の離乳食も、「おいしいのー」と笑顔で食べておられる。
以前からほとんど大人と同じものが食べられるようになったお嬢様だが、これ以降、離乳食はテーブルに並ばない。
するとお嬢様が奥様の飲んでいるスープに目を向けられた。
離乳食用のスープは大人用よりも少し味が薄めに作ってある。そのため奥様たちが飲まれているスープはお嬢様のスープよりも色味と味が濃い。
お嬢様の視線に気づかれた奥様は自分のスープをすくい、ソッと差し出された。
「ティリアちゃん、一口飲んでみる?」
「うん! 飲むのー!」
「はい、あーん」
「あぁぁぁん」
目を輝かせたお嬢様が差し出されたスプーンからスープを飲まれた。
少しばかり不安げな様子の侯爵様と奥様。
思えば、半年前の朝、奥様から差し出されたこの一口から僕の食材探しが始まったのだ。
「すごくおいしいのっ!」
あの日と違い、お嬢様は自分に用意された大人用のスープを飲んで目を輝かせた。
濃厚かつ、しっかりと味のついた大人用のスープはお嬢様の口にもあったようだ。今日の昼からはこの味がお嬢様の食事の基本となる。
明らかにホッとした笑みを見せた侯爵様御夫妻。
侯爵様が自分のスープを差し出そうとしたが、奥様に止められている。
侯爵様の寂しそうな顔がなんともいえない。
あ、あの、こ、侯爵様?
朝からたくさん差し上げられると、お昼のパーティーに響きますから。
いや、そのような恨めしそうな目で僕を見られても困るのですけど。
「ごちそうさまでしたなのー!」
すべての料理を食べ終えたお嬢様の元気な声が食堂に響く。
朝食は一日の指標だ。
食べる量、速さなどを見て、お嬢様の健康状態もわかる。
今日もお嬢様は元気いっぱいだ。
さて、今日はパーティーの準備があるため、お嬢様のお仕事はお休みである。
すでに衣装合わせ等は終わっているが、着替えやら何やらで、お嬢様も忙しいのだ。
その代わりユキやクレベリたち精霊が代わりに水をまいてくれることになっている。
お嬢様を部屋にお連れする際、ちょうど窓から水やりに四苦八苦するユキたちの姿が見えた。そんな彼女たちにお嬢様は手を振ると、ユキたちもまた手を振り返す。
あと水が出ないのはユキがジョウロを持っているからじゃないかな。キミは雪の精霊なんだから、中の水が凍って――ぶほっ! ユキ! いきなり雪玉を飛ばしてくるんじゃない!
……お嬢様、なぜそんなに笑っておられるのでしょう。
◆
すでに太陽は真上にさしかかりつつあった。
侯爵家の庭園に用意されたパーティー会場には多くの来賓の方々が集まり始めている。
庭は庭師のウルナさんが数日にわたって手をかけたおかげで完璧な仕上がりとなっていた。
貴族の奥様方の評判も上々だ。
季節に関係なく様々な花が咲き乱れてる。季節外れの花をどうやって咲かせたのだろうか。何やらすごくいい肥料が手に入ったと耳にしたけど聞くのが怖い。
厨房ではレイゴストさんを筆頭にオニキスさんたち料理人が死にものぐるいでパーティー用の料理を仕上げているはずだ。
僕も早朝から手伝っていたが、今はパーティー会場の最終確認と来賓の案内に追われている。
「アルクさん。お忙しそうですね」
そこに声をかけてきたのはヒミカさんだった。
アルティコ御一家が到着したようだ。
今日のヒミカさんはいつもの神官服ではなく、薄緑のパーティー用ドレスだ。少し肩を出した大胆なデザインだったが、とてもよく似合っている。
艶やかな黒髪を後ろでまとめ、花を模した赤い髪飾りも彼女の魅力を引き立てていた。
少し化粧をしているのか、いつもよりも大人びて見える。
その姿にぼうっとしていると彼女が首をかしげた。
「アルクさん?」
「――あっ、すいません。少し見惚れていました。よくお似合いですね」
「ふぇぇ!?」
素直な感想を告げると彼女の顔が瞬く間に赤くなった。
執事たるもの、女性のドレスを褒めることくらいできなくてどうしますか、というセイバスさんの教えは今日も正しい。
ふと嫌な気配がしたのでそちらに目を向けると、ヒミカさんのはるか後ろで奥様に羽交い締めされたアルティコ伯爵が僕を睨んでいた。逆にアルティコ夫人の顔はとても優しい。ただ、狩人のような目をしているのが気になる。
まあ、多分気のせいだろう。
「あらあら、アルクん。ヒミカちゃんを口説いているの?」
「正直に思ったことを口にしただけですよ」
頭上から聞こえてきたのはこれまた馴染みのある声だ。
ヒミカさんの肩にふわりと降り立ったのは妖精のヨヨさん。
この世界、賓客を口説く使用人がどこにいるというのか。
いたら侯爵家の恥にしかならないだろうに。
今日のヨヨさんはずいぶんとおめかしをしてした。いつもの緑白色のローブではなく、白を基調としたドレスに身を包んでいる。金糸で細かな刺繍がくまなく施されたドレスはとても美しく、丁寧な作りだ。妖精の縫製技術の高さを感じさせる。
背中から出た淡緑色をした半透明の羽がいつもより綺麗に見えた。
編み込んだ黄金の髪に乗せられた銀色に輝くティアラも良く似合っている。
どこかのお姫様に見えなくもない。
だが、この妖精が世界中の甘い物を食べ漁る恐怖の甘党信者であることを僕は知っている。まさにイナゴ的本性を持っているのが妖精だ。
「これはヨヨさん。馬子にも衣装ですね」
僕はこれ以上ないほどの笑顔を浮かべて彼女を称える。
心からの賛美の念を込めて。
「……それ、どんな意味かわからないけど、絶対、小馬鹿にしているわよね?」
ちっ。
相変わらず鋭い。
勘違いすらしやがらない。
上辺の賛美と表情だけでは誤魔化せなかったか。
どうしてこの妖精はこんなにも鋭いのだろう。
超能力でも持っているじゃないか?
じつに解せぬ。
「お姉ちゃんなのーー!」
そこへ可愛らしくて元気のいい声が響き渡った。
声の持ち主など見なくてもわかる。
あの透き通る天使のような声。
間違いない。間違えようがない。
僕たちが顔を向けると、そこにはトテテテッと小走りで近づいてくるお嬢様の姿があった。
パーティーの主役であるお嬢様はすでにパーティー用のドレスに着替えておられた。
大きなリボンのついた薄ピンクのドレス。
ふわりと広がったスカートがお嬢様の可愛らしさを強調している。
肩には刺繍が施された白のショール。風になびくとまるで羽のようだ。
靴はお嬢様の髪にもよく似合う赤。
胸元にはお気に入りの貝殻ペンダントをつけておられた。これはシュリーとおそろいのペンダントだ。
頭にあるリボンもお嬢様の動きに合わせて、ふわふわと揺れる。
そのお姿はまさに花の妖精。可愛らしさの女神。美の化身。
異論は絶対に認めない。
「お嬢様。走ってはなりません。お嬢様」
その後ろから小走りのイーラさんがあわてた様子で追いかけてくる。
だが、お嬢様の足は止まらない。
こう言ってはなんだが、お嬢様の足はイーラさんより速い。
お嬢様は真っ直ぐヒミカさんの元まで駆け寄ると、彼女にポフッと抱きついた。ヒミカさんのスカートに顔を埋めたお嬢様は、「むふぅ」と声をもらす。
今日のヒミカさんはベルガモットのような清々しい香りの香水をつけていた。
お嬢様はその香りを堪能しているらしい。
ヒミカさんは抱きついてきたお嬢様に慈しみの目を向け、髪を優しく撫でている。こうしてみると本当に仲の良い姉妹に見えるのだから不思議なものだ。
ようやく追いついてきたイーラさんから、「アルクくんも諫めなさいよ」という目で睨まれた。
うっ、申し訳ない。
早足のお嬢様の姿が可愛かったので、何も言えませんでした。
「ティリアちゃん。誕生日と離乳食卒業おめでとう」
ヒミカさんが祝いの言葉を伝えると、お嬢様は抱きついたまま顔だけを上げ、キラキラした目を彼女に向ける。
「おねえちゃん、ありがとなの」
少し頬を染め、照れた様子のお嬢様は笑顔でお礼を言うと、すぐに彼女のスカートに顔をうずめてしまった。なんとも可愛らしい姿に周りからも、ほぅという声が漏れる。
イーラさんはクネクネしているし、ヒミカさんも頬を染めながらその場にしゃがみ、お嬢様に抱きついていた。
さすがはお嬢様。
一瞬のうちに周りの賓客を虜にしてしまったようだ。
ちょうどそのとき、魔王一向が到着するとの一報が入った。
もう少しお嬢様の可愛らしさを堪能したいというのに、なんて間の悪い魔王だろうか。
お嬢様は迎えに来られた侯爵様御夫妻とともに、魔王を出迎えるべく正門へと向かった。
正門に立派な馬車が止まり、そこから魔王とオフェリアさん、それにオクセン宰相が降りてくる。
魔王を迎えるため、来賓及び使用人たちも皆、跪いた。もちろん僕も跪いている。
パーティーの準備が滞るので、魔王にはさっさとパーティーに混ざって欲しいと思うのは不敬だろうか。
そんな心の声が聞こえたのか、すぐさま楽にするよう命じる魔王。
おぉ、さすがは魔王様。
空気が読めるいい魔王。
そんなことを考えていたら、こちらを見て苦笑を浮かべている魔王と一瞬、目が合った。
魔王は侯爵様御夫妻と今日の主役であるティリアお嬢様としばし歓談したあと、パーティー会場に足を踏み入れた。
魔王が到着したことで、来賓の皆が一旦、用意されたテーブルにつく。
ヒミカさんもお嬢様と一緒に席についた。
そのテーブルにはお嬢様とヒミカさん以外に妖精のヨヨさん、シュリーカー族のシュリー、王樹の精霊イルミン、そして新しい友人であるアッテンドリア帝国ビアンカ皇女とジェミノスさんが同席している。
ジェミノスさんはビアンカ皇女の付き添いだが、彼女たちはお嬢様のご友人枠での参加だ。
テーブルの下を見れば、ウサギンの『ヒース』と『ラピーヌ』、ブタモンちゃんの『ぷうちゃん』がすでに控えている。
ユキたち精霊もお嬢様の周りで楽しげに宙を舞っている。
皆、お嬢様の誕生日を心から祝っていた。
それとベルゼブブとサルガタナスもこのテーブルにいる。
彼らは魔力温存のため、十センチくらいの人形として参加していた。
なぜこんな姿なのかというと、使役されていない野良悪魔の参加は排除の対象になるからだ。ベルゼブブはもちろんのこと、すでに使い魔契約(仮)のないサルガタナスも排除対象である。
そのため彼らはこっそりと参加しているのだ。
二人はお嬢様に挨拶したあと、誕生日と離乳食卒業のプレゼントとして、この世界の最北端と最南端にだけ咲くという、花、葉、茎すべてが真っ白な『アルテックローズ』とすべてが真っ赤な『アンタークローズ』というバラの花を持ってきた。どちらも枯れないよう特殊なガラスケースに収められている。
「悪魔の世界の花はアルクくんに怒られると思った」というベルゼブブの判断は正しい。そんな呪われそうな花を持ってきたら、その場でベルゼブブごと封印である。
そんな彼らが選んだのが、この世界にある特殊なバラである。
しかもこのバラを選んだのはサルガタナスだそうだ。アスタロトを探していたとき、拠点としていたダンジョンでこの花のことを耳にしたらしい。
なかなか素晴らしい選択だ。
彼はいい執事になれるだろう。
お嬢様も珍しい花のプレゼントに心から喜んでおられた。
ところが彼らの悲劇は突然始まる。
なんとここ数日、意識不明だったアスタロトが目を覚ましたらしい。
いつ目が覚めるかわからないと言っていたが、何も今日でなくてもいいだろうに。
「ちょっと、サルガタナスくん! まだ何もごちそうになっていないよ! 始まってもいないじゃないか!」
「ベルゼブブ様、早く戻らないとアスタロト様がまた皆にご迷惑をかけますよ!」
「ええ、そんなー」
「申し訳ございません。ティリア様、アルク様」
お嬢様に改めてお祝いの言葉とパーティーが始まる前に退出する無礼を謝罪したサルガタナスは頭を下げたあと、ベルゼブブの首根っこをつかんで帰っていった。
「出荷されるウシドンみたいね」とはヨヨさんの言葉である。
「……セルヴァ」
「はっ」
「ベルゼブブのところに五人分の料理を届けてくれるかい?」
「五人分ですか?」
「ああ、ベルゼブブ、サルガタナス、アスタロト、それにリリスさんとグレモリーさん用にね。お嬢様からだと伝えておくれ。参加はできなかったけど、少しでも彼らにお嬢様のパーティーを楽しんでもらおう」
「かしこまりました」
そういうとセルヴァは姿を消した。
……彼らも運がないなぁ。
日頃の行いが悪いんじゃないだろうか。
そういや連中、悪魔だった。
うん、しょうがない。自業自得だ。
そのとき、大空にいくつもの火球が放たれた。
出席者は揃った。
パーティーの開催の合図であるっ!
侯爵様の挨拶のあとに続き、お嬢様の挨拶が始まる。
声を増幅する魔道具がお嬢様のそばに用意される。
少しばかり緊張した様子のお嬢様は自分に集中する目に臆することなく、堂々と話し始めた。
「本日は私の誕生日と離乳食卒業のためにお集まりいただき、まことにありがとうございます。愛する父様と母様、それに屋敷にいるみんなのおかげで、私はこんなにも元気に育つことができました。両親やお屋敷の皆だけでなく、大切な友人や多くの仲間たちに支えられたおかげでもあります。私の執事と侯爵領のみんながいっしょうけんめいに集め、育てた食材を使った料理をティリアと一緒に楽しんでください」
最後に一礼したお嬢様は静かに席に戻る。
一瞬の沈黙。
しばしのざわめき。
思い出したような拍手。
そしてそれは次第に大きなうねりとなって、会場を包む。
胸が熱くなる立派な挨拶だった。
この挨拶はお嬢様が一人で考えられたと聞いている。
感謝のこもった挨拶に侯爵様御夫妻は目に涙を浮かべていた。
僕もほかの使用人もまた同じ気持ちだ。
特に、「私の執事」という言葉には泣きそうだった。
だが、ここは我慢。
お嬢様の言葉通り、ここに集まってくれた人たちに少しでも楽しんでもらうのが僕たち使用人の役目である。感涙にむせんでいる場合じゃない。
最後に、魔王の挨拶と乾杯の音頭を皮切りに料理が次々と運ばれる。
軽食やお酒やおつまみなど一部の料理は各テーブルに用意されるが、基本は立食パーティー形式だ。中央に用意された大きなテーブルに並べられている様々な料理の中から、好きな料理を取ってもらい、食べてもらう。
参加される人数が多いし、気軽に楽しんでもらおうという趣旨だ。
お嬢様がおっしゃられたように大いに楽しんでもらいたい。
今日の料理だが、一部の方には特別なメニューが容易されている。
甘党種族のヨヨさんには妖精族用フルコースが、激辛党のエルフたちが座るテーブルには激辛ウルスソースが個別に用意されている。
激辛臭は各エルフの呼び出した風の精霊に頑張ってもらうよう事前に伝えているので、被害は出ないはずだ。
給仕は侯爵家の使用人だけでは足りなかったため、アルティコ家などほかの貴族家から応援に来てもらっている。よく見ればアルティコ家の家令ヒトニスさんやメイドのイシェリーさんの姿もあった。
そんななか僕とイーラさん、ラミさんはお嬢様のテーブルを担当する栄誉を与えられている。
「――アルクさん」
「はい、なんでしょうか。ヒミカさん」
お嬢様のテーブルに料理やジュースを運んでいる途中、ヒミカさんから声をかけられた。何事かと彼女の隣に寄り、耳を寄せる。
するとヒミカさんはお嬢様に聞こえないよう、小声で耳打ちしてきた。
アルティコ伯爵が睨んでいるので手短にお願いします。
「先ほどのティリアちゃんの挨拶ですけど、誰が考えられたのですか?」
「お嬢様がご自分で考えたと聞いてますけど。何か問題が?」
「……三歳の子にしては少し大人びていませんか?」
「何をおっしゃるのです。お嬢様ですから当然ではありませんか」
「……どうやら聞く方を間違えたようです」
そう言ってヒミカさんは僕からぷいっと顔をそらした。
あっれぇぇ?
僕、怒られるようなことしましたか?
立派な挨拶だったじゃないですか。
うーん。
おっと、それよりも料理を運ばないと。
運ばれてくる料理はどれもレイゴストさんたち料理人による渾身の作だ。彩りは美しく、見るからに食欲をそそる料理たちが賓客たちの目を楽しませる。
もちろん見た目だけではない。
賓客の胃を刺激するような食欲を誘う香りが瞬く間に庭中に広がっていった。
年代もののワインやドワーフの国から仕入れたお酒が惜しみなく開けられ、場を盛り上げる。
水の精霊ディーナさんと一緒に作った純米大吟醸『川霧の都』も人気のようで、気をよくしたディーナさんが酒瓶片手にあちこちのテーブルにお酌しに回っていた。そのあとをフェニ大神官が空のコップを片手に追いかけているのだが、すでに何杯飲んだのだろうか。
見た目が幼女の大酒飲みというレアなものを見た気がする。
今日の料理は僕たちが集めた食材のほか、様々な種族から贈られた食材もふんだんに使われている。
厳選されたメニューだが、お嬢様お気に入りの料理が中心だ。
ロールキャベツ、ウコッケの唐揚げ、カレーライス、ハンバーグ、ポテトフライ、ウシドンのローストビーフにステーキ、オムレツやオムライス、ピザ、チャーハン、各種お寿司などなど。
ほかにも具だくさんの野菜スープやフカヒレスープなど数種類のスープに、各種サラダ、サンドイッチやスパゲッティ、チーズの盛り合わせも用意してある。
デザートにはプリン・ア・ラ・モードのほか、チョコレートパフェやアイスクリーム、イチゴと生クリームをたっぷり使ったミルフィーユ『ナポレオン』などの各種ケーキに加え、一口ほどの大きさにカットされたミニケーキなどが並んでいる。
ほかにも綿菓子やパンケーキ、クレープを用意した。
どれも前世ではお子様セットに乗っていそうな料理だが、レイゴストさんたち魔族の料理人の手にかかると、すべてが宮廷料理に変わるから不思議なものだ。
また今日のパーティーで提供する料理の中には、これまで食卓に並ばなかったものも多い。
例えば、試作に試作を重ねてようやく完成したベーコンやソーセージだ。
ソーセージは一度、完成してしまえばアレンジもたやすかった。
すでに完成しているチーズを入れたものや、バジルなどのハーブを入れたもの。唐辛子の粉を混ぜ込んでピリ辛にしたおつまみ用のソーセージなど、一気にバリエーションが増えた。
完成に漕ぎ着けてくれたミノタウロス族には感謝の言葉しかない。
そんなミノタウロス族たちはミノスさんを中心に盛り上がっている。ソーセージやウシドンのローストビーフをつまみにさっそく一杯やっていた。
今回はたくさんの料理を味わってもらえるよう、どれも通常より小さめのサイズで出している。
料理によっては一口で食べられるようワンスプーン料理として提供していた。
これは貴族たちにも好評だった。
特に量が食べられない女性やお子様連れの貴族は大喜びだ。
彼らは全員がエリクサーを飲んでおり、すでに味覚を取り戻している。
魔王国の中でも最先端の毒のない料理と様々な食材にあふれる侯爵領に注がれる彼らの視線は熱い。誼を通じようと近づいてくる者も多かった。
中にはパーティーに出された料理を持ち帰ろうとしている貴族もいた。ただこれらの者は侯爵様の意向により、放置されることが決まっている。
味を盗むと言うと人聞きが悪いが、レイゴストさんの味をリスペクトしていると考えれば気にするほどのことではない。
これは料理文化の発展に欠かせない味の研究である。
こうして様々な味が広がり、工夫されていくことで料理文化が広がるのだ。
独占して変な嫉妬を向けられずに済むという面もある。
それに味覚を取り戻したばかりの連中に、味の再現をするなど不可能に近い。
料理を持って帰っても、どんな材料で、どれほどの量が使われているのか、把握、判断できていなければ再現できないのだ。
見た目第一主義のせいで、食材の名前すら危ういのが魔族である。
エリクサーを飲む時期が早かったミストファング侯爵家、それにファントニー侯爵家とヒミカさんに味見してもらうことのできるアルティコ伯爵家は問題ないが、ほかの貴族はしばらく苦労するだろう。
そんな見た目第一主義の魔族料理だが、人族の国から来た来賓からは高い評価を得ていた。芸術とも呼べる料理の数々に感動の声が上がる。
これまで味ではなく見た目だけを追究してきた魔族だけあって、見た目も食べさせる技術はほかの種族の追随を許さなかった。
お嬢様と同じテーブルに座るアッテンドリア帝国ビアンカ皇女も料理の美しさに手を付けることを躊躇していたほどだ。
彼女の隣に座るジェミノスさんこと転生者の魔道具士が、勧めなかったらずっと見ていたかもしれない。「この芸術は味わってこそ」などとわかったような口を聞いていたが、彼の言い分は間違っていない。
料理は食べるものでる。
パーティーも中盤にさしかかった。
まだヨーコさんの姿はない。
ふと、テーブルに目を向けるとジェミノスさんの前に、にぎり寿司、手まり寿司、ちらし寿司、いなり寿司、巻き寿司が山盛りになっていた。
その隣には味噌汁が置かれている。
よく見ればカレーライスまであるじゃないか。
その量、食べきれるのだろうか。
お残しは許しまへんで?
「うめぇ。……アルクと友達になってよかったぜ」
その震える声に顔を向けると、ジェミノスさんは泣いていた。
寿司を片手に味噌汁を飲みながら、いい年齢の大人が子供たちを前にしてマジ泣きである。
友達になった覚えはないが、何をそんなに感動しているのだろうか。
もしかして寿司か?
「帝国にも米や酢はあったじゃないですか。それに新鮮な魚介類も獲れますよね。寿司くらい作れたでしょう?」
「ばっか! 味噌汁と食べる寿司がうまいんだろうが! 醤油をつけて食べる寿司がうまいんだろうが! 寿司とコンソメスープって何だよ。寿司とコーンポタージュって何だよ。そうじゃねぇだろ! それに魚醤じゃダメなんだ。どこか違うんだよ。ありがとう大豆。サンキュー大豆!」
「あー、確かに魚醤って別物ですよね」
「それにワサビだ。これがない寿司など魚介乗せミニおにぎりと変わらない」
暴論だなぁ、おい。
前世には、さび抜きってものがあるんだぞ。
「あれ? 帝国ってエルフいますよね。ワサビは精霊やエルフ族の方から譲ってもらいましたけどなかったんですか?」
「確かにエルフ族はいる。だがな、帝国のエルフが持っていたのはセイヨウワサビだ。あれは俺が求めるワサビじゃない。そういうわけで帝国に輸出プリーズ。あとカレー用の香辛料も頼む」
同じエルフでも、場所によって食材が違うのか。
確かに帝国にはなかった食材も多い。
逆に帝国にしかなかった食材もある。
帝国での食材探しはほとんど進んでいないが、今後が楽しみだ。
「何がそういうわけですか。そもそもジェミノスさんは継承権を放棄してトリバス殿下に次期皇帝の座を譲ったでしょうが」
「いいじゃねぇ。元皇子ってことで頼むわ」
「いや、継承権を放棄しただけで、あんたまだ皇子だから」
「あんた呼ばわりしている時点で、すでに俺のこと皇子だと思ってねぇだろ?」
そうなのだ。
今回、ジェミノスさんは継承権を放棄した。
それ以来、彼のことはさん付けで呼んでいる。
継承権を放棄しても彼が皇子であることに変わりはないし、一応年上なのでそうしている。
こうしてアッテンドリア帝国の後継者が正式にトリバス皇子に決まった。
また皇帝陛下の命を狙い、外交官である僕を貶めようとした件で、ウリナムスはこっそりと廃嫡され、幽閉されることになった。
死刑にならなかったのは、トリバス皇子たちによる助命嘆願だ。
城に残してきたインプによると、皇子の死刑は醜聞にしかならないので飼い殺しにするつもりで助命嘆願したらしい。これは皇帝とトリバス皇子による茶番だそうだ。思っていた以上にトリバス皇子は腹黒かった。
またウリナムスと一緒にいたザルクリフは、皇帝の『許可』を得た僕がすでに処分している。
皇帝からもらった『許可』とはザルクリフの捕縛と引き渡しだ。
僕と城の廊下ですれ違ったとき、ザルクリフは僕がただ者じゃないと気づいたらしく、ちゃっかり城から逃げ出していた。証拠の品を見つけるべく部屋を調べさせたとき、どうりで姿がなかったはずだ。
とはいえ、そこはセルヴァ。
ちゃんと見張りを付けていたので、ザルクリフはすぐに捕まった。
フィスタンを滅ぼしたことと大神殿地下のダンジョンが崩壊したことを明かすと襲いかかってきたため、返り討ちにしている。
侯爵家に侵入してきた勇者たち六人と違い、ザルクリフに用はない。
死んだ彼の胸に埋まっていた魔核はベルゼブブに頼んで回収済みだ。
ベルゼブブの使い方としては、少しもったいない使い方だったが、これで彼の無料奉仕は終了。あまり無茶な要求をして逆恨みされても面倒くさいし、いい機会だったと思う。
あ、そうそう。
刺客としてお屋敷に侵入し、心臓から魔核を抜かれた自称勇者たち六人だが、今は侯爵家の臨時使用人として生活している。
ちなみに彼らが暴れる心配は一切ない。
すでにフィスタンへの忠誠や侯爵家を襲ったことを覚えていないからだ。ベルゼブブに命令されたサルガタナスが彼らの記憶をいじったせいである。
ウルナさんたちがつけた名前もあっさり受け入れていた。
彼らはある程度、教育してから人族の国に戻す予定。
実力は消えていないので、冒険者として活躍できるはずだ。
もちろん魔王国のスパイとしても。
今、彼らは全員、厨房でこき使っている。主な仕事は皿洗いだ。
本当は足りない給仕の手伝いをさせるつもりだった。
そのために生かしておいたと言っても過言ではない。
ところがだ。
試しに給仕の練習をさせてみたところ、不器用すぎて使えなかった。
運ぶ回数より割る食器のほうが多いのだ。
それに接客させるのは無理だと判断した。
得に聖女と賢者と戦士は客商売にむいていない。この三人は性格と口に難がある。
暗殺者はほとんど喋らないから論外だった。
勇者は臆病で人前が苦手だったし、魔物使いも仲間と動物、それにウルナさん以外、話すのが苦手ときたもんだ。
結局、かろうじて任せられたのが皿洗いだった。
――閑話休題
「そもそも帝国に輸出しても、しばらく帝国には戻らないでしょ」
「そりゃそうだけどよ。親父やトリバスに食わせてやりたいんだよ」
照れたように顔をそむけるジェミノスさんだが、ここ数日のうちに親父さんとは和解したらしい。自分やウリナムス皇子の首を差し出そうとしてまで国を守ろうとした皇帝陛下の覚悟を感じたそうだ。
それに亡くなった王妃の絵姿を今も自分の部屋に飾っていたことが、ジェミノスさんの頑なな心を溶かしたらしい。
しばらく帝国に戻らないジェミノスさんだが、ずっと戻らないというわけではない。
彼は三年の間、魔王国の王都に留学することが決定している。
その三年の間に魔道具の研究に協力してもらうのだ。
以前、ビアンカ皇女に用意したドライヤーなどの魔道具をぜひ広めてもらいたい。すでにお嬢様の分を含めて数台分、無理矢理作らせたものを持っているが、僕では作れそうもないほど複雑だった。魔道具を本格的に作ろうと思ったら、もっと勉強が必要のようだ。
とはいえ。
三年もの間、留学しっぱなしだとビアンカ皇女が悲しむ。
そのため年に何回かは僕がアッテンドリア帝国への里帰りを『外交官』として手伝うことになっている。それにビアンカ皇女もお嬢様に会うため、遊びに来たいと言っていた。
その場合も僕が迎えにいくことになっている。
そのための連絡手段も用意した。
ベルゼブブからもらった通信用魔道具を見せたら、この皇子、あっさりと作りやがったのだ。ただベルゼブブのものよりも性能が悪く、ドラゴンフォール山脈に中継アンテナを設置することになった。それでも帝国に届くのだから、彼の魔道具作りの腕は本物だ。
魔王様もこれには驚いていた。
その魔王だが、皇子が留学しているこれから最低三年、僕を『外交官』としてこき使うつもりらしい。
侯爵様が賛成してしまった以上、断れないのがつらい。
「輸出の件はわかりました。それで三年後はどうするんですか」
僕が尋ねるとジェミノスさんは少し考えるような素振りを見せたあと、はっきり言った。
「三年後か。まあ、帝国に帰って国民に役立つ魔道具を作りながら、トリバスの手伝いでもするさ」
その言葉にビアンカ皇女が嬉しそうに笑顔を見せる。
ビアンカ皇女はこの兄が大好きなのだ。
騙されているんじゃないかと心配になる。
「ああ、そういえば聞きたいことがあったんです」
「なんだ?」
「ジェミノスさんもそうですが、ビアンカ皇女やトリバス殿下たちって、なぜ魔族を怖がらないんです?」
考えてみれば最初からだった。
ビアンカ皇女には妙になつかれていたし、トリバス皇子たちも僕が魔族だと知っていたにも関わらず、表向きは態度を変えなかったのだ。
するとビアンカ皇女は不安げな顔をした。
表情はどこか寂しげで、戸惑っているようにも見える。
その目の端にはいつの間にか、涙が浮かんでいた。
「……よし、アルク。ちょっと裏こいや。妹を悲しませた罪の重さを教えてやろう」
「胸倉つかむのやめてくれませんかね。国際問題にしてやろうか、シスコン元皇子」
「は?」
「お?」
幸いなことにほかの賓客は気づいていない。
お嬢様の目をこれ以上汚さないためにも、早々にこのアホを処分しなければ。
「おにいさま だめなの」
「アルクん だーめなの」
僕たちを諫めるビアンカ皇女とお嬢様の声が耳に入った。
「おまえのせいで可愛い妹に怒られたじゃねえか!」」
「あなたのせいで可愛いお嬢様に怒られたじゃないですか!」」
僕とジェミノスさんの声がそろう。
もうこいつに、さん付けはいらないんじゃないかな。
よし、こいつは呼び捨てで十分だ。
一応、皇子なので心の中だけで。
「……似たもの同士」
ちょっと、シュリーちゃん。
こんなのと一緒にしないでください。
ヨヨさんとヒミカさんも頷かないで!
「……わたし ひとのこころ よめる」
そのとき、ビアンカ皇女がポツリと囁いた。
人の心が読める?
思わぬ発言に思わずビアンカ皇女を見る。
彼女の囁きを聞いたジェミノスは、「あー」と声を出した。
「そういやトリバスが言っていたな。ビアンカは人の心や感情がわかるんだっけか」
「そう。 だから アルク の こと わかった。アルク は まぞく。でも いい まぞく」
ビアンカ皇女によると、心を読んだことで僕が魔族だと知ったそうだ。
ただ魔族というのが何かわからなかった彼女はトリバス皇子たちに相談した。同時にビアンカ皇女やトリバス皇子たちに害を与える存在でないことも説明したらしい。
魔族と聞いたトリバス皇子たちは最大限の警戒をしたそうだが、ビアンカ皇女の能力について、彼らほど理解している者はおらず、安全だと言った彼女の言葉を信じた。
こうして下手に刺激をするより見張っておこうという結論になり、しばらく監視することになったというわけだ。
初めて会ったはずのジェミノスのことを兄だとわかったのも、この能力のおかげだという。
「ジェミノスにいさま と アルク。 おなじ ふんいき が した」
「「こいつと??」」
「ふしぎなばしょ から きた、 ふしぎな ひと」
不思議な場所というのは、前世?
不思議な人というのは転生者のことか?
ビアンカ皇女はテーブルに座る皆を見てから、こう言った。
「みんな。 ビアンカ きもちわるい?」
そう言ったビアンカ皇女の目からは今にも涙があふれそうになっていた。
思わずジェミノスと目を合わせる。
ウリナムスはビアンカ皇女のことを気持ちの悪い妹と蔑んでいたが、彼も彼女の能力を知っていたということか。こんな幼い妹を悲しませるとは、幽閉じゃなくて、さくっとやっちゃったほうがいいんじゃないかな、アレ。
「ぜんぜんそんなことないのー!」
なんて声をかけようか皆が迷っていたとき、最初にビアンカ皇女に声をかけたのはお嬢様だった。
お嬢様はビアンカ皇女の側に駆け寄り、彼女のことをぎゅっと抱きしめる。
「すごい力なの! うらやましいの!」
「……うらやましい?」
「そうなの! かっこいいの!」
「……かくれんぼでは最強」
「ん? わたし できるよ」
お嬢様はビアンカ皇女の頭を撫でながら褒め称える。
シュリーはよくわからない例えを言っていた。たぶん、鬼の動向を読めると言いたいのだろう。
イルミン、キミが心を読める相手は木だけだよね。いや、それもすごいけどさ。あと、よく喋れるようになったね、おめでとう。
「ええ。私も一部の人だけですが、考えていることがわかります」
「あー、私もだわー」
ヒミカさんとヨヨさんがこちらを見ながらそう言った。
……二人とも、なぜ僕を見るんです?
ここにいる誰もが、ビアンカ皇女を忌避する様子はない。
もちろん僕もだ。
「僕はビアンカ皇女のおかげで帝国の皆さんと知り合うことができました。気持ち悪いだなんて、とんでもない。感謝しているくらいです」
それにどこかの巫女や妖精に心を読まれ慣れている。
不本意ではあるが。
ジェミノスはビアンカ皇女の涙をハンカチでぬぐいながら、ポンポンと頭を撫でた。
「そうだぞ。ビアンカがどんな力を持っていても俺の大切な妹だ。むしろその力はトリバスを守ることにもなる。俺たちでトリバスを守ってやろうぜ」
ジェミノスの励ましの言葉にビアンカ皇女は何度もうなずいた。
彼女の瞳には涙が浮かんでいたが、口元には笑みが浮かんでいる。
「それにしても、『不思議な人』ですか。ジェミノスさんは不思議というより、『変な人』って感じですけど」
「よーし。そのケンカ買った。ちょっと裏こいや」
「おや、いいんですか? 『あの絵』をビアンカ皇女に見せますよ」
「おまえ! まだ持ってんのかよ!」
「優秀な弟さんに譲ってもらいました。いやぁ、しばらく使えそうですねぇ」
「あの野郎っ! ――よぉし、そっちがそう来るなら俺にも考えがある」
「ほう、どのような?」
「ティリアお嬢様にアルクはああいう絵が大好きで、大事に持っているとバラしていいんだな? 本当は好きなんだろ、ああいう絵が。お?」
「なん……だと」
くっ。僕が『あの絵』をビアンカ皇女に見せたら、絵を持っている僕も巻き添えにして貶めるつもりか!
死なば諸共と言わんばかりだ。
そんな僕たちの姿を見て、ここにいる皆が笑い出す。
『あの絵』のことはわかっていないようなのが唯一の救いか。
ヒミカさんだけが、『あの絵』のことを知りたがっている目をしていたが、絶対に見せられない。
ジェミノスの切り返しによって、使えそうで使えない切り札になってしまった。
「やっぱり ふたりとも おなじ ふんいき が する」
「ビアンカ皇女、それはあり得ません」
「ビアンカ、それは違うと思うぞ?」
「でも もうひとり いるよ?」
「「はい?」」
ビアンカ皇女が何気なくつぶやいた言葉。
その意味をビアンカ皇女に尋ねようとしたときだった。
突然、厨房から連絡が入った。
すでにパーティーは終盤を迎えようとしている。
そろそろ最後の特別メニューを運ぶ時間だ。
ビアンカ皇女がつぶやいた言葉の意味はあとで聞くとして、僕は急ぎ、厨房へと向かった。
特別メニューを持って、給仕たちが庭を進む。
その手に持つ皿の上には、胴部分だけで大きさ約二十センチ、太さ六センチはある巨大なエビフライ。
素揚げした頭を入れれば三十センチ以上はある。
使ったのは、イセエビ。
それが何皿も何皿も運ばれてくる。
ほかにもセミエビ、ヒゴロモエビ、クロザコエビを使ったエビ料理が次々とテーブルに並べられていった。
普通サイズのエビフライを始め、エビを使ったお寿司、天ぷら、塩焼き、お造り、マヨネーズ炒め、エビのビスクなどなど。
風変わりなエビせんべいなども用意してある。
「こちらの料理に使ったエビは本日ご来賓であるアッテンドリア帝国より贈られたものにございます」
ジェミノスとビアンカ皇女に惜しみない拍手が起こる。
さっそうと立ち上がり、一礼するジェミノスは本当にそつがない。
ビアンカ皇女もそんな彼の真似をしている。
だが、その目は運ばれてくる大きなエビフライに釘付けだ。
お嬢様たちのテーブルにもイセエビのエビフライを運ぶ。
間近にそれを見たお嬢様とビアンカ皇女は思わず椅子の上に立ち上がっておられた。二人ともすぐに気づいて下りられたけど、二人の興奮が伝わってくる。
「すごいのー!」
「こんな えびふらい はじめて みた」
「あー、このために親父に用意させたのか」
お嬢様とビアンカ皇女が感嘆の声を上げるなか、ジェミノスは苦笑していた。
僕が皇帝や第一皇子の首を断り、帝国の責任を示すものとして、皇帝にお願いしたもの。
それこそが皇室のみが食すことが許されたアッテンドリア帝国産のイセエビを含む、各種エビの取引である。
皇帝や皇子の首を取ったところで、食べられるわけがない。
首よりエビだ。
「首なんかよりエビをくれ(意訳)」と言ったときのポカンとした帝国人たちの呆けた顔が今も鮮明に浮かんでくる。
さっそくお嬢様たちに切り分けたエビフライを配る。
一人一匹でもいいのだが、さすがに大きすぎる。
食べやすい大きさに切り分けるのも執事の仕事だ。
もちろんタルタルソースを添えるのも忘れない。
待ちきれない様子のお嬢様とビアンカ皇女はタルタルソースをホクホクのエビフライにたっぷりつけられた。
そして大きなお口をあけて、がぶり。
「んんー♪」」
口に入れた瞬間、二人はきゅっと目をつむり、無言のまま、両手を上下に動かす。
そのまま飛んでいってしまいそうな勢いだ。
やがて、ごくんと飲み込んだ二人はこう叫ばれた。
「「しゅごくおいしいのー!」」
声を揃え、輝かんばかりの笑顔を振りまくお嬢様たち。
その満面の笑顔から幸せが伝わってくる。
お嬢様たちの声に続き、ほかのテーブルからも歓喜と賞賛の声が聞こえてきた。
大きさが大きさだけに的確な火加減が必要となってくるのだが、さすがはレイゴストさんだ。外の衣はさくっと、中身はジューシーに仕上がっている。
シェリーもイルミンも夢中でイセエビフライを食べ始めた。
彼女たちは追加で持ってきた普通のエビフライもお気に入りのようだ。
「いかがですか、ヒミカさん」
「ええ。本当においしいですわ」
上品に口へと運ぶヒミカさんもうっとりした顔でエビフライを堪能していた。偏食だった彼女だが、今は好き嫌いなく色々食べられるようになっている。
「ヒミカさんに気に入っていただけたようで何よりです」
「これはやみつきになりそうですわ」
彼女と話していると、ヒミカさんが何かに気づかれた。
振り返ってみると、小さな四人の瞳がヒミカさんに注がれている。
「ヒミカお姉ちゃんもエビフライ好きなのー?」
「……姉様も好物?」
「ん? エビフライはいいものだよね?」
「えびふらい すきー?」
こちらをじっと見るお嬢様、シェリー、イルミン、ビアンカ皇女。
ヒミカさんはくすっと笑みをこぼすと、優しげな顔で四人に答えた。
「ええ、私も大好きですよ」
「「「「わーーい!」」」」
お嬢様、シュリー、イルミン、ビアンカ皇女の声が重なる。
ヒミカさんを加えたエビフライ同盟が今、ここに結ばれた。
「俺もエビフライ好きだぞ」
はいはい。
ジェミノスはずっと鎖国していてください。
「ぼっちのジェミノスさんには、これでもどうぞ」
「なんだ! ぼっちって! ――ん? おぉ! 寿司として邪道というやつもいるが、これもうまいよな!」
ジェミノスに差し出したのは、エビ天のにぎり寿司とエビフライを乗せたにぎり寿司。
回るお寿司屋さんでよく見るメニューだ。
どうやら気に入ってくれたらしい。
そこへいつの間にか近づいてきたのか、にっこりと笑うオフェリアさんから声がかかった。すこぶる嫌な予感がする。
「ティリアちゃん。楽しそうなところ申し訳ないのだけど、アルクくんを借りていってもいいかしら」
「わかったのー」
「あっ、ちょっとオフェリアさん。今は――」
「魔王様がお呼びよ」
また、あいつか!
今はエビフライ同盟の時間でしょうが!
本当に間が悪いな。
これだから間王は。
ん、魔王だったか?
「貴族の使用人が外交官ってのもおかしい話だが、国王にも呼ばれるって……おまえ思った以上にすごいんだな」
ジェミノスが軽く目を見開いた。
こんなときに感心したようなことを言わないでいただきたい。
「アルクんはすごいのです」
えへんとお嬢様が胸を張った。
「お任せください。お嬢様。ご期待に添えるよう、このアルク。しっかりとお勤めを果たして参ります。さぁ、オフェリア殿、我らが魔王様のもとに行きましょう。さぁ、早く」
「……え、ええ」
なぜそんな訝しげなものを見たような顔をするんでしょうか。
目を閉じてるので見えないはずなのに。
それはそうと、さっさと雑用を済ませてお嬢様の元に戻らなければ。
どうせたいしたことない用事で呼んだに違いない。
魔王が待つというテーブルに向かうと、そこには魔王様が一人で座っていた。
こっちもぼっちとは。
……可哀想に。
「人払いをさせているわ」
あっ、そうですか。
周りを見れば護衛の騎士たちがいたが、少し離れた距離にいる。
オフェリアさんもついてくる気はないらしい。
なるほど、一人で行けということか。
「お待たせ致しました。お呼びと聞き、参上いたしました」
「やあ、アルク。待っていたよ」
オフェリアさんや警備の騎士たちからは十メートルほど離れているが、どこに耳と目があるかわからない。
一応、魔王に対する礼を失しない態度で臨む。
望んでいなくても、臨むしかない。
「今日のパーティーに用意された料理はすばらしいものばかりだ。よくここまで食材を集めてきたものだ」
「もちろんお嬢様のためですから」
「そ、そうだな。ところで今日使っている食材は今後、ほかの者でも取引できるのだろう?」
ふむ。
ほかの者ということは、僕やミストファング侯爵領以外という意味か。
それに、「できるのか」ではなく、「できるのだろう」ね。
独占させるつもりはない、もしくは独占するなよという警告だな。
確かに各国の商店経由で得た食材に関しては問題ない。もともとエルフや龍族とは懇意にしているし、ドワーフの国も断わらないだろう。
人族の国でも店に行けば売っているし、商売である以上、向こうも売ってくれるはずだ。
ただし、侯爵領で育てている食材は別。
あれはお嬢様や領内の民のものであって、交渉はミストファング侯爵様が相手になる。判断は侯爵様に任せるとして、どれだけの貴族が侯爵家に頼むことができるのかは疑問だ。
やり手の侯爵様のこと。ときには対等な取引を持ちかけ、ときには貸しとして取引するだろう。これは侯爵家とほかの貴族たちとの関係も複雑に絡んでくる。その場合、侯爵家に敵対するような貴族への貸しは高くつくものになるはずだ。
ただ僕が個人的に友誼を結んだ各国の重鎮や海エルフの村や各獣族の村、タイゲン王国領の獣族の村エデンなどとの取引は別である。
教えるつもりがないというのもあるが、欲しければ『八百屋オイシー』で買えばいい。わざわざ王都に支店を作ったのはそのためだ。
「取引を望む側が誠実な対応をすれば取引は可能かと思います」
「誠実な対応ね」
魔王は思案顔だ。
取引をするなら当然のことだが、誠実さは不可欠である。
魔族特有の弱肉強食を振りかざしたり、不誠実な対応をしたりすれば取引はままならない。特に多くの食材を得ることができた人族から、魔族は恐れられている。それにゴブリン族のように魔物と間違われてしまう種族だっているのだ。
それにほかの連中がそれぞれの商店と取引する場合、侯爵様やお嬢様の命令がない限り、僕が仲介するつもりはまったくない。
勝手に商談して、勝手に仕入れてこいということだ。
「先に言っておきますが、外交官としての仕事に各貴族たちが行う輸出入の仲介は含まれておりませんので」
先んじて断わったことで、魔王様は苦笑いを浮かべた。
「まあ、その辺りはいい聞かせておくよ。ところで――」
やれやれ、ようやく本題か。
「アルク。外交官であるキミを牢に入れたアッテンドリア帝国には賠償を要求することもできたはずだ。戦争は論外だが、交渉も有利に運べただろう。それなのになぜ――エビなんだ?」
魔王の目はエビ料理に群がる貴族たちに向けられていた。
賠償と聞いて、廃嫡され、ないないされた某皇子のことが頭をよぎる。
「賠償などと事を大きくすることは魔王国に弱みを握られたと相手に思われてしまいます。それは得策ではありません。交渉よりも今後の交流に影響があると考えました」
「ふむ。それは確かに正論だ。だが、今日のパーティーに様々なエビ料理が並んでいるのはなぜだろうね」
「え? 以前、レシピと一緒に献上したイセエビおいしくありませんでしたか? もしかして、まだお召し上がりではない?」
お嬢様の離乳食卒業パーティーに先んじて、僕は魔王にイセエビを数匹献上している。ちゃんとレシピも合わせて。
「いや、食べたよ。確かに美味しかった。とてもすばらしい食材だと思う。しかし話によると、これはアッテンドリア帝国の皇族しか食べられない食材だそうだね。キミはなぜ、これを要求したのかね?」
「おいしいから?」
「……いや、私が言いたいのはそうじゃなくてだな」
「なんでしょう?」
「アルク。キミは外交官の立場を利用してティリア嬢のパーティーのためにエビを手に入れてきたんじゃ――」
「あー、魔王様!」
僕は魔王が余計なことを言い出す前に、遮るようにして声をかけた。
言葉をさえぎられた魔王は一瞬、眉をしかめたがすぐに話の続きを促す。
「イセエビはアッテンドリア帝国では祝い事に使われるおめでたい食材でございます」
「ふむ。そうだろう。ティリア嬢の誕生日と離乳食卒業パーティーにふさわしいな」
しつこいぞ、魔王。
「何をおっしゃっておられるのですか、魔王様。お祝い事といったら結婚式ですよ、結婚式」
「は? 結婚式?」
何を言っているんだという顔の魔王様に僕は、にやぁと笑いながら、つつっと近寄る。護衛の騎士たちが一瞬反応したが、すぐさま元の姿勢に戻った。
僕に殺気がないことくらい、すぐに悟って欲しいものだ。
悪気はあるけど。
「満天の星空のもと、全高六十メートルもあるリモワール・ノイシュ城の最も高い塔の中。窓から王都を見下ろしながら二人手を取り合い、『どうか、この私と一緒にこれからの魔王国を――」
「! ちょーーっと待ちたまえ!」
「なんですか? これからいいところなのに」
「どこで聞いた? なぜ知っている!?」
「なにがです?」
「……」
黙り込む魔王。
あっ、続きを言えってことですか?
言えってことですよね。
はい、言います。
「潤んだ瞳で男を見上げるその瞳は魔性の色。だが、彼にはその魔眼に込められた石化の力は効果を現わさない。『キミの瞳の色を知っているのは、この私だけだ。そしてキミの瞳に映る男も私だけだ』と男は彼女の――」
「わかった。もういい!」
「むふふ。そろそろですよね。そろそろですよね。結婚式にイセエビを使った料理を出せば、夫婦円満、大願成就、子孫繁栄、厄除け、健康長寿は約束されたも同然。ついでに国家繁栄もつけておきましょう」
「国家繁栄がついでなのか……」
ちらちらとオフェリアさんに目を向けながら魔王に囁く。
「美味しかったですよね? オフェリアさんと一緒に食べたイ・セ・エ・ビ」
「……ぐぬぬ。さてはファントニー侯爵か」
自領に港を持つファントニー侯爵。
そんな侯爵にイセエビが手に入らないか、魔王が確認させていることはすでに把握している。
というより、聞かなくてもファントニー侯爵が教えてくれた。
何しろファントニー侯爵は国の重鎮だ。
それにも何人かの貴族にはすでに連絡が行っているのだろう。ミストファング侯爵様にも伝えられているかもしれないが、喜び勇んで教えてくれたのはファントニー侯爵である。
あと、二人の会話などを詳しく教えてくれたのは通りすがりの大神官様だ。
なんで塔のてっぺんにいたのかは聞かなかったけど。
あっ、僕はたまたま城の近くを飛んでいたインプ経由で知ったんですけどね。
いやぁ、さすがは魔王城。
結界がきついのなんの。
「それで魔王様。この僕がいくらお嬢様のためとはいえ、外交官の立場を利用して職権濫用なんてするわけがないじゃないですか。上司の結婚式に花を添えようとか、喜んでもらえるかなぁとか、子供心に『純粋な気持ち』を抱いたことは否定しませんが、己の立場を悪用するなんて、とんでもございません」
僕はにっこりと天使のような笑みを魔王に向けた。
「悪魔みたいな笑みを浮かべてどうした? あと、その純粋な気持ちとやらの色は漆黒じゃないかね?」
「まさか、ピュアな子供をいぢめないでください」
「……今後、魔王国では十歳を基準に成人扱いしようかなと今、本気で思っている」
それだけ言うと魔王は大きなため息をついた。
「まあいい。またエビを使った美味しいレシピでも紹介してくれ」
「はい! もちろんですとも。結婚式にふさわしい素晴らしい料理のレシピを中心に献上いたします」
「それ、オフェリアには言うなよ。できれば秘密にして喜ばせたい」
「かしこまりました」
まあ、そのオフェリアさんの顔は真っ赤になっているけどね。
視覚を封じている分、ほかの感覚が鋭くなるって聞くし。
きっと彼女もそうだと思いますよ、魔王様。
というか石化が効かないとか、どんな身体してんだ、この魔王。
「さて、そろそろパーティーも終わりだろう。我々はこれで失礼する」
「では侯爵様にお伝えして参ります。今日はお嬢様のため、本当にありがとうございました」
会場から魔王一向が去り、パーティーも終わりを迎えようとしていた。ほかの貴族たちもお嬢様と侯爵様御夫妻に挨拶をしてから、一人、また一人と会場をあとにする。
今日のパーティーに登場した料理たち。
その料理に使われていた食材の問い合わせは今後、爆発的に増えるだろう。侯爵様御夫妻も『八百屋オイシー』も忙しい日が続きそうだ。
パーティー会場では、後片付けが始まっている。
先ほどまで賑やかだった会場はずいぶんと静かになった。
賓客の姿はほとんどない。
侯爵様御夫妻は門まで出ており、今日のパーティーに参加したお客様たちの見送りに忙しい。サイロス隊長やプレスコットさんたちは侯爵様御夫妻に同行しており、会場にはいない。
僕は他国から来てくれた賓客たちを『執事ゲート』でそれぞれの国に繋ぎ、送り出した。スミール王国からの賓客マリアさんたちを送ったのを最後に僕はお嬢様の姿を探す。
現在、会場に残っているのはお酒の飲み過ぎでテーブルに突っ伏している大神官様とディーナさん。そんな二人を介抱するヒミカさんの姿があった。
別のテーブルではヨヨさんとリリアルさんが一緒になって話し込んでいる。ユキやクレベリ、リリィたち精霊も会話に加わっていた。
ウサギンとブタモンちゃんはめずらしくお嬢様から離れ、ひなたぼっこをしながらお昼寝中だ。
あと残っているのはジェミノスくらいか。
彼は少し離れたテーブルで、まだ寿司を食べている。
しかも寿司を片手に何やらスケッチブックの上で手を動かしていた。
また妹に見せられない絵を描いているのかと思いつつ、のぞき込んでみると、『卓上用魔力シャリにぎり機』というセンスのない名前と設計図らしきものを書いていた。
……だめだ、この寿司皇子、何ともしようがない。
ジェミノスとビアンカ皇女はもうしばらく侯爵家に滞在する予定となっている。アッテンドリア帝国は第一皇子の廃嫡などでゴタゴタしており、トリバス皇子も忙しい。そのため妹大好きな兄のもと、ビアンカ皇女をしばらく預かることになった。
魔道具好きの侯爵様はジェミノスの留学中、彼の滞在先として、王都にあるお屋敷の一室を提供している。これでいつでも魔道具談義ができると、嬉しそうにしておられた。その発言はしっかり奥様に聞かれていたが、ご本人は気がつかれていないようだ。
魔道具に夢中になりすぎて奥様に怒られないことを祈っておこう。
そこへ聞こえてくる賑やかな声。
目を向ければ、お嬢様はシュリー、イルミン、ビアンカ皇女と一緒に散歩しておられた。今から庭の奥に向かうらしい。
ところがイーラさんの姿がない。
日傘でも取りに行ったのだろうか。
空を見上げれば、朝同様、雲ひとつない天気が続いている。
敷地内だし、問題はないと思うが念のため、お嬢様の元へと足を向けた。
「それにしてもヨーコさんはどうしたんだろう」
彼女からはパーティーに参加するとの返事をもらっていた。
だが結局、姿を見ていない。
そんなことを考えているときだ。
庭の奥が騒がしいことに気づく。
お嬢様たちが向かった方角だ。
考えごとをしていたせいか、すでにお嬢様の姿は視界になかった。
まさかという思いがよぎったが、お嬢様たちが向かった先にあるのは覚えのある魔力。その魔力にホッと息をつく。
とはいえ、お嬢様たちはご存知ないはずだ。
僕は急ぎ、騒ぎのあったほうへと走り出した。
お嬢様のもとにたどり着くと、そこには想像通りの人がいた。
お嬢様は皆をかばうように先頭に立ち、正面で困った顔をしている人物から目を離さない。
さすがはお嬢様だ。
怪しい人物から皆を守ろうとしているその姿。
大変、ご立派にございます。
「あー、やっぱりヨーコさんでしたか」
「はぁーい♪」
僕の姿を見つけるとヨーコさんは、どこかホッとしたような顔で手を振った。
……って忍者姿で来るなと言いましたよね。
頭巾こそ外しているが、濃紺の忍者服はどこからどう見ても怪しさ満点だ。
そりゃ、お嬢様たちも怪しむというもの。
どう見ても不審者である。
忍者姿で来ないよう伝えていたのに忘れてたな、こりゃ。
ため息混じりに首を振るとヨーコさんは慌てたように弁明する。
「いやいや、忘れてないから! ちょっとお土産を用意するのに時間がかかって、着替える時間がなかったんだ」
「パーティーはもう終わってしまったんですけど」
「あちゃー、やっぱり間に合わなかったか」
ヨーコさんは額に手を当て、大げさな反応をした。
だが、安心して欲しい。彼女の分の料理は残してある。
いなり寿司とか、ロールキャベツとか、もちろんエビ料理もとってある。
お嬢様たちは僕の知り合いだとわかると安心されたようだ。
そして初めて会うヨーコさんを興味深そうに伺っている。
ただ四人の視線は主にヨーコさんの耳と尻尾に向けられているのは気のせいではない。お嬢様たちの視線に気づいたヨーコさんは思わずといった様子でクスッと笑みをこぼした。
ヨーコさんの尻尾に動きに合わせて首を上下させる四人の姿は確かに可愛らしい。
まるでねこじゃらしを見つけた猫の姉妹である。
それはそうとまずは彼女を紹介するとしよう。
「お嬢様。ご紹介します」
僕はお嬢様の横に立った。
「こちらにはヨーコ殿です。人族の国では食材集めなど、色々と協力してくださいました。見た目はおかしいですが、言動だけはかろうじてまともです」
「辛辣っ!?」
お嬢様にヨーコさんを紹介したあと、ヨーコさんにお嬢様を紹介する。
「ヨーコさん。こちらにいらっしゃいますお方こそ、ミストファング侯爵がご令嬢ティリア=ミストファング様です」
「へぇ。アルクくんからお嬢様のことは耳にクラーケンができるほど聞かされていたけど、確かに可愛らしいお嬢さんだ」
「可愛いのは当然です。お嬢様なのですよ?」
僕を見て苦笑いを浮かべたヨーコさんは、お嬢様に視線を向け、にっこりと笑った。その笑みを見たお嬢様は僕とヨーコさんの顔を見比べている。
お嬢様がすぐに挨拶をしないのは珍しい。
やはり怪しい忍者姿が原因か。
「初めまして。ティリアちゃん。私の名前はヨーコ。ヨーコ=タマモ」
「――ヨーコ。ヨーコ=タマモ?」
お嬢様はジッとヨーコさんの顔を見つめたまま、彼女の名前をつぶやいた。
このとき初めて彼女のフルネームを知った。
「ヨーコさん、家名あったんですね」
「うん。もともとなかったんだけどね。アカリが付けてくれた大事な家名さ」
「その家名、タマモの由来って聞きました?」
「んー、アカリに聞いたら、なんとなく、だって」
タマモというと玉藻前が頭をよぎる。
今のヨーコさんにぴったりの家名だ。
ただアカリさんがタマモの名を知っていたのか、知らなかったのかはわからない。でも彼女がヨーコさんに教えていないのなら、僕が教えることでもないだろう。
アカリさんと出会った当時のヨーコさんは普通の人族だし、ただの偶然に違いない。もしかすると、当時のヨーコさんがキツネっぽかったのかもしれないし。
「それに彼女、照れたように笑っていたんだよね。結局、はぐらかされたままで聞けなかったよ」
ヨーコさんは当時のことを思い出すように、クスッと笑った。
どことなく悲しげだったのは、アカリさんがすでにこの世にいないからか。
「――彼女の転生前の名字がタマモだったから」
「え?」
少し大人びた声は僕のすぐ近くで聞こえた。
独り言のようにつぶやかれた声は僕にしか聞こえていなかったようだ。
「……お嬢様?」
視線を落とした先にはお嬢様が凜とした表情でヨーコさんを見つめていた。お嬢様は微動だにせず、何かを探るように目を離さない。
それに今、転生という言葉を確かに聞いた。
アカリさんの転生前の名字がタマモ?
なぜそれをお嬢様が。
いや、なぜ転生なんて言葉を?
シェリー、イルミン、ビアンカ皇女も普段とはどこか様子の異なるお嬢様の雰囲気に心配げな顔つきをしている。
「あっ、そうだ。ティリアちゃんにお祝いを持ってきたんだ」
僕の戸惑いに気づいていないのか、ヨーコさんが差し出したのは大きな風呂敷。風呂敷を開くと、そこには綺麗な葉に包まれた塊がいくつも入っていた。
ヨーコさんは包んでいる葉を開き、中身が見えるようにお嬢様に手渡す。そこには、ほんのり赤く染まったおにぎりがあった。
お嬢様は渡されたおにぎりを両手で包み、黙ったまま見つめている。
「へぇ。お赤飯のおにぎりですか。よくご存知でしたね」
「まあね。お祝いの席にはお赤飯がいいって、アカリに聞いたことがあったんだ。一度作ったことがあるんだけど、何せずっと前の話でさ」
「もしかして、それが原因で遅れたんですか」
「もち米はすぐに手に入ったんだけど、ササゲをどこで手に入れたのか、思い出すのに苦労したよ」
ヨーコさんはそう言って苦笑した。
赤飯を最初から作ろうとすると、それなりに時間がかかる。
ササゲのゆで汁にもち米を一晩浸して色をつけ、蒸すのだ。
しかも食材集めから行うとなればなおさらである。
ちなみに、赤飯に使ったササゲは人族の国ナントゥの森深くに住む小さな獣族の集落で育てているそうだ。
「確かにお祝いにはぴったりの料理ですね。ヨーコさんにしては気の利いた贈り物です」
「私にしては、は余分だよ! ティリアちゃん。もし良かったらお腹がすいたときにでも食べてね」
「良かったですね、お嬢様。――お嬢様?」
お嬢様は、じっと手の中の赤飯に視線を落としたまま動かない。
いつものお嬢様なら、すぐにお礼を言うはずなのに。
僕は何事かとお嬢様の顔をそっとのぞき込む。
するとお嬢様の赤く美しい瞳は潤んでおり、目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「お、お嬢様!?」
「ティリアちゃん!?」
「ヨーコさん――お嬢様ヲ泣かせタナ」
「違うから! 絶対に違うからその突き刺さるような魔力を抑えよう! ね? ね?」
「じゃあ、いったい何をしたんですか! 尻尾おいてけ~」
「何もしていないよっ! あと尻尾おいてけってどういうことっ!?」」
「二本おいてけ~」
「妖怪『尻尾おいてけ』がいる!?」
慌てた様子のヨーコさんはお嬢様に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。その際、彼女の尻尾がふわりと揺れる。
「ほ、ほら。ティリアちゃん。泣かないで」
ヨーコさんが少し固い笑顔を見せたときだった。
お嬢様の整った顔が、くしゃりと崩れる。
大きな瞳から、あとからあとから大粒の涙があふれ出す。
突然の出来事に僕もヨーコさんもうろたえていた。
「ヨーコっ!」
お嬢様は彼女の名前を叫んだ。
親しみを感じさせる優しい声だ。
そして勢いよく彼女に抱きついた。
「ティリアちゃん!?」
「お嬢様っ!?」
お嬢様の思わぬ行動に、顔を見合わせる僕とヨーコさん。
かろうじてヨーコさんがお嬢様をやさしく抱きしめたのは良しとしよう。
だが、お嬢様が涙を流された理由がわからない。
ナニヲシタと目で訴えても、ヨーコさんは首を振るばかりだ。
「お嬢様、いかがなされたのですか?」
僕が声をかけてもお嬢様はヨーコさんに抱きついたままだった。
シュリーたちも何が起きているのかわからない様子だ。
「ティリアちゃん、どうしたの?」
少し落ち着いたのかヨーコさんが優しく声をかける。
するとお嬢様はゆっくりと顔を上げた。
瞳は涙で濡れていたが、顔には笑みが浮かんでいる。
そして小さな手をヨーコさんの頬に当て、慈しむようにそっと撫でた。
「ヨーコ。あなたが無事でよかったわ。魔族になってどう? 後悔はしていない?」
「――え?」
「お嬢……様?」
「ティリアちゃん? キミは何を……」
ヨーコさんはお嬢様の問いかけに、ごくりとのどを鳴らした。
お嬢様の様子がおかしい。
もともと聡明なお方ではあったが、口調も違う。
何より雰囲気も違って見えた。
「ふふっ。忍者姿も似合っているわね」
お嬢様はそう言って、くすりと笑った。
その微笑は大人びており、お嬢様の笑みではない。
「誰ですか、あなたはっ! お嬢様じゃありませんね!」
「正解よ。ティリアちゃんの専属執事さん」
他人行儀に自分の名前を口にしたあと、目の前の少女は僕にウインクをした。
「ま、まさかアカリ? アカリなのかい?」
「ええ、そう。私はアカリ」
「本当に!?」
「ええ。ヨーコはあのころと全然変わってな ……いえ、きつねっぽい耳とふさふさの尻尾がたくさんあるわね。だいぶ違うわ」
そう言うとお嬢様は、また大人びた笑みでクスクスと笑った。
「アカリさんだって!? そんなまさか! ――いや、あなたが誰だなんて関係ない! それよりもお嬢様はっ! お嬢様は無事なんでしょうねっ!」
「ええ。もちろん。私はアカリであり、ティリアでもある。今はティリアちゃんにお願いして少しだけ身体を借りているだけ」
アカリと名乗った彼女は少し申し訳ない顔をしながらつぶやいた。
お嬢様であり、アカリさんでもある?
それはいったい……。
「本来、この私は出てこない人格であり、遙か過去の記憶にすぎない。今の私はティリアちゃんであり、アカリでもあった」
あった?
言葉の違和感にビアンカ皇女が言っていた言葉が頭をよぎる。
『ふしぎなばしょ から きた ふしぎな ひと』
『やっぱり ふたりとも おなじ ふんいき が する』
『でも もうひとり いるよ?』
僕とジェミノス以外に、もう一人いる。
肩越しに後ろを振り返れば、ビアンカ皇女は一瞬身を固くし、小さくコクンとうなずいた。
「――転生者」
「そう。私はアルクさんと同じ転生者。ティリアちゃんに味覚があるのもそのおかげ。いえ、そのせいというべきかしら」
お嬢様が転生者!?
しかも転生したのはアカリさんだと本人は言う。
千年以上前のフォメット族であり、ヨーコさんの友人であり、フィスタン=ザールクリフに命を奪われた魔族。
「そ、そんなまさか。ではお嬢様はいったい誰なんですか……」
「アルクさん。勘違いしないで。ティリアちゃんはティリアちゃんよ。幸せな家庭に生まれて、ちょっと頑張りすぎる執事見習いさんが大事にしている小さな小さな女の子。それがティリアちゃんであることに変わりはないわ。あなただって同じ。あなたは前世の人間でもあり、アルクでもある。でも今はティリアちゃんの専属執事のアルクでしょ」
アカリさんの言葉になぜかお嬢様の姿が重なって見えた。
確かに……彼女の言うとおりだ。
僕が仕えているのはお嬢様ただ一人。
それが転生者であってもお嬢様はお嬢様だ。
「それに私の記憶もすぐに消えるわ。もともと転生ってそういうものだしね。今回はティリアちゃんと神様のおかげ」
「そ、そんな! 待ってくれアカリっ!」
ヨーコさんは震える手でお嬢様の小さな手を握った。
彼女の目に涙がにじむ。
「ヨーコ。悲しまないで。これは必然。でも少しなら時間はあるわ。――アルクさん」
「……はい、なんでしょうか」
「少しヨーコと二人だけで話をする時間をもらえるかしら」
「……かしこまりました」
なぜか僕はアカリさんのお願いを拒否できなかった。
だがこれがアカリさんのためにも、ヨーコさんのためにも、そしてお嬢様のためにも必要だと感じたのだ。
僕たちは少し離れた場所で二人を見守った。
二人が何を話しているのか、何も聞こえない。
不安げな様子のシュリーたちはお嬢様のことが気になるのか、ちらちらとお嬢様に目を向けている。
だが、僕たちは少し離れたテーブルに座る彼女たちの様子を遠巻きに見つめるだけだ。
彼女たちは互いに笑い、時には涙を見せた。
そのとき、どこからともなく色鮮やかな鳥たちが集まってきた。
一羽や二羽どころではない。何十もの鳥の群れだ。
何羽かの鳥のくちばしには三センチほどのオレンジ色の実がくわえられており、お嬢様とヨーコさんが座るテーブルの上にひとつ、またひとつと置いていっては、飛び去っていく。
まるでお嬢様をお祝いしているかのような、どこか幻想的で不思議な光景だった。
いつしか、その実は小さな山となった。
お嬢様とヨーコさんは一言二言、言葉を交わすと、その実をひとつ手に取り、皮を剥いて中の実を口に入れた。
途端に顔をしかめる二人。
その様子から、かなり酸っぱいことがわかる。
二人は互いの顔を見合わせてから、涙を浮かべて笑い合った。
そしてどちらからともなく席を立ち、軽く抱擁を交わしたあと、僕たちに向かって歩き出した。
二人の顔はどこか清々しく、すっきりとした表情だ。
「おまたせ」
「……よろしいのですか?」
「ええ。もう時間がないし」
お嬢様は微笑を浮かべた。
そして、お屋敷のほうへと目を向ける。
そこへ侯爵様御夫妻が皆を連れて現れた。
御夫妻だけでなくヒミカさん、ヨヨさん、それにセイバスさんにお嬢様大好き四天王のイーラさん、ラミさん、プレスさん、寝ているはずのウルナさんまで一緒だ。
ほかにも大神官様やディーナさん、リリアルさん、ユキやクレベリたち精霊も集まっている。
妹を心配したジェミノスも駆けつけていた。
皆、どこか心配そうな顔をしている。
先ほどの鳥の群れを見て駆けつけてきたのだろう。
だが、お嬢様の姿を確認すると、皆、その場で立ち止まった。
どこかいつもと違うお嬢様の雰囲気に気がつかれたのだろう。
お嬢様は皆を見回したあと、僕の前に立つ。
「アカリの記憶はこれで消える。でもティリアはアカリで、アカリはティリアよ」
アカリさんは侯爵様御夫妻たちに目を向けながら、幸せそうに微笑んだ。
「お父様、お母様ありがとう……みんな、みんな本当にありがとう。最後にアルクくん。これからもよろしくね」
「はい。もちろんですとも」
「ええ。ありがとう。――ヨーコ」
「うん」
「またいつか」
「ああ、またいつか」
「「次に転生するときに」」
その瞬間、力が抜けたようにお嬢様が倒れそうになった。
僕は慌ててお嬢様を支える。
だが、お嬢様はすぐに目を覚まされ、何度もまばたきを繰り返された。
自分の足で立たれたお嬢様は不思議そうに周りを見回しておられる。
その様子から何も覚えていないことがわかる。
お嬢様はヨーコさんに気づくと、満面の笑顔を浮かべて彼女に駆け寄った。
そして初めて会ったかのように、ちょこんと礼をした。
「はじめまして、ティリア=ミストファングです。あなたは、もふもふさん?」
可憐なお辞儀で自己紹介したお嬢様は、ヨーコさんをもふもふさんと呼んだ。その目は彼女の尻尾をチラチラと見ている。
ヨーコさんは一瞬目をつむったあと、笑顔でお嬢様に語りかけた。
「こんにちは。ティリアちゃん。私はヨーコ。良かったら尻尾、触ってみる?」
「いいのっ!」
「ええ、もちろんよ」
「わーい!」
ヨーコさんのお誘いに喜ぶお嬢様。
大きな尻尾を両手に抱えるようにして全身で抱きついている。
「アルクん! すごいの! もふもふなの! もっふもふなの!」
いつものお嬢様らしいお姿に思わず笑みがこぼれる。
口調も雰囲気もいつものお嬢様で、そこにアカリさんの面影はない。
「ヨーコさん。シュリーも、イルミンも、ビアンカちゃんもいい?」
「ええ、もちろんよ」
だが、名を呼ばれた三人は少し戸惑った様子だ。
お嬢様の変化に戸惑っているのか、ヨーコさんに遠慮しているのかわからない。だが、苦笑したヨーコさんが手招きすると、三人はお嬢様と同じように尻尾に駆け寄り、抱きついた。
「……ティリア姉様はティリア姉様なの。……これは見事なもふもふ」
「ん! ティリアちゃんだし。んー! もふもふ」
「ティリアちゃんも にいさま や アルク と 一緒。もふもふ すごい」
三人はお嬢様が転生者であることをまったく気にしていなかった。
これまでと同じようにお嬢様に接している。
「アルク。これはどういうことだ。何が起きている!」
「侯爵様。申し訳ございません。この件はのちほど報告させていただきます。ですが、お嬢様に何ら問題があるわけではございません」
お嬢様たちの楽しげな顔と少し寂しげなヨーコさんの目を見ていると、いますぐこの状況を報告する気にはなれなかった。
使用人としては失格かもしれないが、今だけは少しの猶予をいただきたかった。
「しかしだなっ!」
「あなた。アルクちゃんを信じましょう。彼はティリアちゃんの――執事なのだから」
「……わかった」
厳しい顔をしていた侯爵様だったが、奥様の言葉にフッと力を抜いた。
すると侯爵様とセイバスさんが僕の正面に立つ。
何事かとセイバスさんの顔を見上げると、どこか嬉しそうな顔をされていた。
侯爵様が僕の目を見ておっしゃった。
「執事見習いアルク」
「はい」
「ティリアの承認を持って見習いを卒業。本日付をもってティリアの専属執事に任ずる」
「え? 見習いは卒業ですか」
「ああ、そうだ。すでにティリアとも話をしている。――ティリア」
「はいなのー!」
侯爵が声をかけると、お嬢様はヨーコさんの尻尾の間から顔を出した。
ほかの皆も完全にヨーコさんの尻尾の中に埋まっている。
お嬢様は尻尾をかき分けると、僕の側までやってこられた。
「アルクんは今日からティリアの専属執事なのです!」
お嬢様は自分のことのように嬉しそうな顔でそうおっしゃった。
僕はその場に跪き、お嬢様に視線を合わせる。
「魔種族の特性として百年と持たない短い命でございますが、お嬢様のためであれば、このアルク、命尽きるまで執事として誠心誠意仕えさせていただきます」
「これからもよろしくなのー!」
するとお嬢様は両腕を広げて僕に抱きついてこられた。
そして頬に感じる柔らかくも温かい感触。
慌てて顔を上げると、そこに少し頬を染めたお嬢様が立っておられた。
「これでヒミカ姉様と一緒なのー!」
「ティリアちゃん!?」
「お嬢様!?」
僕とヒミカさんの驚いた声が重なる。
なぜお嬢様があのときのことを知っておられるのか。
僕がバッと振り返ると、イーラさん、ラミさん、プレスコットさん、ウルナさん、ヨヨさんが顔を背けた。ヒミカさんは真っ赤な顔でうつむいている。
そこへ僕の肩に大きな手がポンと置かれた。
わずかに震えるその腕をたどっていくと、にっこりとした笑みを浮かべつつ、まったく目が笑っていない侯爵様の顔があった。その隣では奥様が、「まぁ~♪ まぁ~♪」と楽しげな顔をされている。
「アルク。これも執事として報告してくれるんだよな?」
「え? えぇぇ!」
「な?」
「……はい」
不可抗力という言い訳は通じそうもない。
空は快晴なのに、なぜか霧が立ちこめ始めている。
だが、これだけでは終わらなかった。
「うおぉぉぉ。私の可愛いヒミカと何があったぁぁぁ!」
あの声はアルティコ伯爵である。
「あなた! 待ちなさい!」
その後ろからはセセリ伯爵夫人がアルティコ伯爵を追いかけていた。
アルティコ夫妻はまだいらっしゃったようだ。
よく見れば、アルティコ伯爵はイスを手に持ち、それを振り回している。
……こういう場合、逃げたほうがいいのだろうか。
そのとき、お嬢様の楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「みんな元気なの! これもアルクんが美味しい料理を考えてくれたからなの!」
「確かにそうね。デザートのレシピもたくさん教えてもらったし」
「ヨヨちゃんの言うとおりなの! あ、そうなの! ヨーコちゃんも一緒にご飯食べるの! ねえ、アルクん、ヨーコちゃんのご飯はあるかなー?」
「はい。ちゃんとご用意してございます。いなり寿司やロールキャベツもございますよ」
「ありがとなの! 皆、一緒にお赤飯を食べるの!」
「ティ、ティリアちゃん、まだ食べるの?」
皆の視線が一斉にお嬢様へと注がれる。
僕が見ていた限り、かなりの量を召し上がっておられた気がするのですけど。
「大丈夫なの! なんだかお腹が減ったのー!」
ヨヨさんの心配する声をあっさりと否定したお嬢様は、戸惑うヨーコさんの手を取り、パーティー会場へと歩き出した。
お嬢様の無邪気な言葉に皆、思い思いの笑顔を浮かべ、あとに続く。
公式なパーティーはすでに終わっている。
だがヨーコさんを交えた侯爵家とその使用人たちのパーティーはその日、遅くまで続いた。