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第百八十六話 媚道を極める蠱惑な乙女(メイド)

「この屋敷どうなってんだ。ったくよう」


 侯爵家の庭に似つかわしくない粗野な声が響いた。

 荒くれ者たちが集まる場末の酒場で耳にするような乱暴な口調だ。

 しかも、その声はまだ若い女性の声だった。


 庭園にかけられていた迷いの結界から神の奇跡(神聖魔法)によって抜け出した彼女は一人歩く。


 名前を聖女。

 神官服に身を包んだ清楚な見た目からは考えられない口調が次々と飛び出してくる。


「ちっ。ざけんなよ」


 聖女は勇者のいない場所では猫をかぶっていた。

 一人となった今、暑苦しい猫など脱ぎ去っている。


「どこだよ、入り口はよぉ」


 聖女は結界から抜け出したあと、屋敷に入る方法を探していた。

 だが、いまだに入り口らしきものが見つからない。

 正面玄関から堂々と入るわけにもいかず、せめて裏口からと思い、こうして屋敷周辺を探っているのだ。


「まさか屋根に入り口があるのか。邪悪な魔族なら羽があって飛んでもおかしくねぇしな」


 最悪、窓から入るしかない。

 そう思いながら自分の姿を見る。

 聖女が着ているのは純白のローブ。

 ところどころに金糸で豪華な模様が刺繍された仕立てのいい神官服だ。

 窓を越えるとなると汚れるのは間違いない。


 信仰の証でもある神官服を汚したくないと考える聖女は窓からそっと屋敷内を覗いてみる。だが部屋は暗く、中の様子はまったくわからない。どの部屋の窓からも明かりは漏れず、暗くひっそりとしている。


「しかし誰もいねぇな。魔族って獣みたいに寝るのが早いのか? 汚らわしい魔族には似合っているけどよぉ」


 魔族が聞いていたら呆れ、苦笑するような独り言を聖女は繰り返す。

 ここまで魔族の姿はなかったが、仲間たちともはぐれたままだ。

 本来であれば不安を抱いても仕方のない状況ではあるが、聖女は嬉しそうな笑みを浮かべた。


「これも神が与えてくださった試練だ。邪悪には絶対に屈しねぇぜ」


 聖女は力強く宣言したあと、試練を与えてくれた神に祈る。

 神に祈ることで聖女の身体に不思議と勇気と力が沸いてくるのを感じていた。

 もしここに某執事見習いがいたら、「自己暗示ってすごいですね」と感心した(笑った)に違いない。


 聖女は入り口を探して歩き続ける。

 そしてある場所までやってきた。

 そこは本邸から少し離れた場所にあった別棟だ。本邸と通路で繋がっているのが見て取れる。屋根には立派な煙突が見え、正面には木製の扉があった。

 扉を発見した聖女は、これで神官服を汚さずにすむと息を吐く。


 中を覗いてみると、窓がいくつもあるおかげか室内は思っていたより明るかった。あちこちから月明かりが差し込んでおり、中の様子が見て取れる。


 そこには月明かりに反射して包丁や鍋などの調理器具が所狭しと置かれていた。ほかにもかまどやテーブルが聖女の目に入る。かまどには中身の入った鍋が複数かけられており、残り火によって温められているのがわかった。またテーブルには食材らしきものが見える。

 中は静まりかえっており、魔族の姿はない。


「厨房? ……みてぇだな。しっかし生きたまま生肉をむさぼり、血をすする魔族が料理なんてすんのか? それともさらってきた奴隷たち用か?」


 ちなみに魔王国で生肉をむさぼったり、血をすすったりするのは一部の下位魔族だけだ。それに奴隷の所持は違法である。

 だが、魔族のことなど聖女が知るよしもなかった。


 聖女は正面にあった木製の扉に近づく。

 そして音を立てないよう、ゆっくりと開け、滑るように中へと入っていった。



 そのころ――。


「では、確かにお伝えしました」

「わかったわ。――あら? ちょうど来たみたいよ。神官服を着た女の子みたいね。厨房のようだわ。じゃあ、あの子の相手は私がすることにしましょう」

「では、私めはほかの方に主からの言葉を伝えてまいります」

「ええ。よろしくね」


 そう言うと小さな影は姿を消し、残った影はスカートをひるがえしたあと、すべるように厨房へと向かった。



 聖女が中に入るとそこは間違いなく厨房だった。

 かまどにかけられた鍋からは美味しそうな香りがただよっており、聖女の鼻孔をくすぐる。その香りに刺激されたのか、聖女のお腹が小さく鳴った。

 静けさのなか、意外と響いたその音に聖女は厨房内を慌てた様子で見回した。そして自分以外に聞かれていないことを確認してから、ほっと息を吐く。


「ライト」


 誰もいないことを確認した聖女は初歩の神聖魔法である明かりの魔法を唱えた。

 それも極力明かりを絞ったものだ。

 淡く光る魔法の明かりは薄暗い厨房を優しく照らし、聖女の銀色の瞳に厨房の様子をはっきりと映し出した。


 最初に目に入ったのはテーブルの上に置かれた食材だ。

 置かれているのは葉物野菜や芋類、それにキノコ。これまで見たことがあるものが多い。だが、ほかにも聖女が知らない食材がたくさん置かれていた。


 そんな食材の山に場違いなものがあることに気づき、目を向ける。

 それは手のひらに乗る長方形の小さな入れ物だ。

 俗に言う虫かごである。

 そのとき、カゴの中で何かが動いた。


 聖女が魔法の明かりを近づけ、覗いてみると、そこには全身を虹色に光らせるクワガタのような虫がいた。全長は十センチくらいだ。湾曲した大きなアゴが虫の力強さを感じさせる。

 虹色の外骨格は聖女の作りだした魔法の明かりを反射し、本物の虹以上の輝きを放つ。それはすべての宝石を溶かし、混ぜ合わせたような美しさだった。


「なんて美しい……」


 あまりの美しさに聖女は思わず、釘付けとなった。

 荒い口調も鳴りを潜め、少女らしい言葉遣いに変わっている。

 自然と聖女のか細い指がカゴに向かって伸びた。


 聖女の指がカゴに触れようとした、そのとき――いきなり虹色に輝く虫が跳ねた。アゴの下に隠していた牙を剥き出しにし、「ギシャァ」と聞いたこともないようなおぞましい鳴き声をあげながら、聖女の指に襲いかかる。


「ひっ」


 小さく悲鳴を上げながら聖女はすばやく手を引いた。

 勢いあまった虫はカゴの格子にぶつかってひっくり返る。

 聖女の指は無事だ。

 アゴの力で起き上がった虫は聖女を威嚇した。

 大きなアゴをめいっぱい広げ、振り回す。

 そして獲物を逃がした悔しさをぶつけるように何度も牙を打ち鳴らした。


 ガチガチガチガチガチッ。

 虫が鳴らしているとは思えないほど硬質な音が厨房に響く。


「おいおい、何だ、この恐ろしい虫は!」


 聖女が知らないのも無理はない。

 この虫は魔王国にだけ生息しており、たびたび侯爵家の厨房に運ばれてくる。

 元は美しい料理を作るための食材だったが、毒があるため、今は食材として使われなくなった。本来なら二度と厨房で目にすることはなかったはずだ。


 しかし、この屋敷に住む麗しき侯爵令嬢ティリアが、「きれいな虫さんなのー」と気に入ってしまった。その結果、彼女を喜ばせようとした使用人たちが非番の日に捕まえてくるのだ。

 ――毎日のように。

 そして前日に捕まっていた虫はティリアの手によって彼女お気に入りの花壇や畑に放たれる。というのもこの虫は、花のつぼみや畑の農作物を食い荒らす害虫を意気揚々と興味本位(・・・・)で殺しまくる益虫でもあった。

 ちなみに侯爵令嬢が威嚇されたことは一度もない。むしろ擦り寄ってくる。彼女の手によって『逃がされ、命を救われた』と思っている虫たちは多い。


 閑話休題。


 驚いた聖女が自分の手をさすりながら、虫をにらみつける。

 その視線に気づいたのか虹色の虫は複眼を聖女に向け、さらに彼女を威嚇し始めた。虫にとっては、にらまれたから、にらみ返しただけのこと。がんの付け合い、飛ばし合いである。ただし、双方にその意識があったかどうかは別の話。


 そんな虫の挑発的な態度に聖女は顔をひきつらせ、目をそらす。

 虫は聖女をあざ笑うように牙をカッカッカッと鳴らした。

 その反応はもはや虫というより意志を持った魔物である。


「ふふっ。虫を見て驚くなんて可愛いわねぇ」


 突然、聖女の背後から声がかけられた。

 艶やかさを感じるうるおいのある女性の声だ。

 同時に、厨房に明かりがともる。


「誰だっ!?」


 聖女は慌てて振り向いた。

 その先には美しい女性が立っている。

 肩でそろえられた明るいブラウンの髪をなびかせ、魔族の特徴でもある赤い瞳をした女性だ。

 ただし、ロングドレスタイプのメイド服姿であった。


「魔族! ……ってメイド?」

「はい。私はラミーシャ。魔族で、メイドでございます」


 ラミーシャと名乗った魔族は切れ長で優しげな目を細め、にこりと笑う。

 その笑みは自然、かつとても美しかった。

 少女から大人へと一歩踏み出したばかりと思われる年齢のようだが、すでに大人の魅力にあふれていた。


「ようこそいらっしゃいました、お客様」


 さらに彼女はスカートの裾を軽くつまみ、洗練されたお辞儀を見せる。

 その姿は美しく、まるで神話の一幕を切り取ったよう。

 スカートをつまんだ際、彼女の足首がちらりと見えた。

 透き通るような白い肌、きゅっと締まった足首は異性でなくとも思わず見とれてしまう。足首とはいえ、まるでこの世には存在しない芸術とも呼べる造形美がそこにあった。


 聖女はラミーシャの魅力に目を奪われた。

 だが、それもわずかなこと。

 聖女は頭を左右に揺らし、気の緩みを振り払う。


「お客様ぁ?」

「左様にございます、お客様」

「私たちはここにいる侯爵級魔族を倒しにやってきたんだ。それをお客様などと――」

「無理でございます」

「っ!?」


 ラミーシャは聖女の言葉を途中でさえぎった。

 そして主人を殺すと言い放った聖女の言葉を否定する。


「無理? それはどうだろうな。神の力の前では邪悪な魔族など無力なもんだぜ」


 ラミーシャは少女の口の悪さに一瞬、眉をひそめた。

 だが、それを指摘することはない。


「お客様は神ではございません。神の名を口にするだけで、侯爵様を倒そうなど二百年早うございます」

「二百年とはまた大きくでたもんだな」


 聖女はゆっくりと目を細め、小馬鹿にするような口調で言い返した。

 だがラミーシャは気にした様子もなく淡々と話を続ける。


「魔族は実力主義を尊ぶ種族にございます。その中において侯爵様は二百年以上あらゆる勝利を収めておられます。政局であろうと、戦いであろうと」


 ラミーシャは誇らしげに語った。

 そして心の中で付け加える。

 奥様に勝ったことはございませんが、と。


「じゃあ、二百年ぶりの敗北をその侯爵にぶちかましてやるよ。あとその娘にもな」


 そのときラミーシャの笑みが崩れたのを聖女は見逃さなかった。

 これまで余裕の表情だった魔族が、一瞬とはいえ、鋭い視線をぶつけてきたのだ。 なぜそんな顔をしたのか、聖女は理解できない。

 だが、言い負かしてやったと聖女は自分の勝利を確信する。


 なぜか勝ち誇った笑みを見せる聖女に対し、ラミーシャは憂いを帯びたため息をついた。なぜそんな顔をするのか、意味がわからない。

 だが、大好きなお嬢様に危害を加えようとしているのは間違いない。

 そのような愚者はさっさと処分するに限るとラミーシャは決めた。


 セルヴァから伝えられた執事見習いの彼からの伝言。

 それは、「使い道があるので、侵入者は出来る限り生かしておいて欲しい」という内容だった。

 彼女たちをどうするのかは聞かされていない。

 だが、生かしておくのはあくまで、「出来る限り」である。

 絶対に、とは言われていない。


「侯爵様がお相手するまでもありません」

「じゃあ、あんたが相手をしてくれるのか。魔族は一匹でも滅ぼす必要があるからな。ちょうどいいぜ」

「それでは心よりおもてなしさせていただきます。招かざるお客様」


 そう言ってラミーシャは軽く頭を下げた。

 そして再び顔を上げた彼女の瞳を見た聖女はビクリと身体を震わせる。


 先ほどまで優しげだったラミーシャの目が、なんともおぞましい爬虫類のような目に変わっていたのだ。そしていやらしい笑みを浮かべながら、聖女にゆっくりと目をわせる。さらにラミーシャは聖女を見ながら、べにを引いた艶やかな唇を舌でなめた。

 その仕草は大人の色気を感じさせたが、聖女はラミーシャの変貌に目を大きく見開いていた。


 だが、驚いた理由はそれだけではない。

 唇をなめたラミーシャの舌の長さが二十センチ以上もあったからだ。

 しかもその先端は細く二つに割れている。


 見た瞬間、聖女は身の毛がよだつような寒気に襲われた。

 今のラミーシャはまるで獲物を狙うへびそのもの。

 もちろん獲物は聖女自身だ。


「『ホーリーフォース』っ!」


 手を突き出したのと同時に神聖魔法を放つ。

 彼女もまた賢者と同じく無詠唱で魔法が使えるのだ。


 彼女が素早く行動できたのは、神に対する絶対的な信仰心のおかげだ。

 神がいつもそばにいてくれると信じているからこそ、彼女は恐怖に飲まれることなく動くことができた。


 先手必勝。

 すでに見つかっている以上、遠慮することはない。


 相手は神の敵であり、悪しき魔族。

 一匹でも多く滅ぼすことは聖女の使命であり、喜びでもあった。

 とはいえ彼女は自分一人で魔族を倒せるとは思っていない。


 そんな聖女が魔法を使ったのはある考えがあったからだ。

 大きな音を立てることで、ほかの魔族たちが応援に駆けつける可能性は非常に高い。

 だが、それは仲間たちに自分の居場所を知らせることにもなる。


 先に魔族が来るか、仲間が駆けつけてくれるか。

 それはある意味、賭けでもあった。

 だが、聖女には時間を稼ぐ手段があり、賭けの勝算は高いと踏んでいた。特に勇者は仲間の危機に対してすばやい反応を見せる。そんな信頼が彼女にはあった。


 突きだした手のひらから発生した聖なる衝撃波は見えない力となり、ラミーシャ目がけて突き進む。

 『ホーリーフォース』の魔法はアンデッドを砂に変え、邪悪な生物を聖なる力で焼く神聖魔法だ。アンデッドや邪悪な生物でなくても直撃を食らえば、数メートルは吹き飛び、当たり所が悪ければ骨をも砕く威力がある。

 一撃で倒すことは難しいが時間を稼ぐには、うってつけの魔法だった。


 衝撃波は進路上にあった調理器具を吹き飛ばし、派手な金属音を立てながら、ラミーシャに襲いかかる。


 ――ドンッ


「え?」


 衝撃波は間違いなくラミーシャを呑み込んだ。

 だが、彼女は何事もなかったかのように立っている。


 聖女が放った魔法は彼女の髪を揺らし、ロングスカートをひざ近くまで持ち上げただけ。スカートがめくれたせいでラミーシャのふくらはぎが露わになった。すらりと引き締まったふくらはぎは細すぎず、太すぎず、陶器のように白い。見ただけでわかる肌の滑らかさは思わず手で触れたくなるほどの魅力があった。


「あら、お戯れを。お客様」

「効いていない!?」


 ラミーシャは翻るスカートを押えることなく、妖艶な笑みを見せた。

 重力に引かれ、スカートが元の位置に戻り、彼女の足を隠す。


 聖女は自分の神聖魔法がまったく効かなかったことに驚き、心の中で神に祈りを捧げた。


 呆然とする聖女を前にラミーシャは何もしない。

 ただ彼女をじっと見ているだけだ。


「な、なぜ神のしもべたる私の魔法が……」


 独り言のようにつぶやく聖女。

 そんな彼女にラミーシャはこてんと首をかしげ、艶やかな唇に人差し指を当てながら答えた。


「なぜとおっしゃられましても。――お客様の信仰心が足りないのではないでしょうか」


 ラミーシャはそう言いながらニヤリとした笑みを聖女に向けた。


 信仰心が足りない。

 それは神を信仰する聖職者に対する最大の侮蔑だ。

 その一言は聖女を怒らせるのに十分だった。

 十分すぎた。

 なにせ彼女は敬虔な神の『狂』信者である。


「ハァ? なんだと、てめぇ! 汚らしい魔族の分際でっ! 私の信仰が足りねぇだとっ! その口に汚物詰め込んで縫い合わせてやろうか! おぉ? なにか言えよ、あぁ?」


 自分の信仰を疑われた聖女は眉間に何重にもしわを寄せ、怒りに赤く染まった顔を歪ませた。こめかみには青筋を浮かべ、ラミーシャをにらみつける。


 だが、ラミーシャは罵声をぶつけてくる聖女にも涼しい顔だ。

 それどころかあおるように目を細めた。


「あらあら、ずいぶんとご立腹の様子。何か失礼がございましたでしょうか、お客様」


 そう言うと口元に手を当てながら、ラミーシャは華やいだ声でころころと笑う。


「あぁん? 失礼がございましたでしょうかだと? てめえっ、いい気になるなよっ! クソがっ!」

「とんでもございません、お客様。いい気になるなど、たかが人族ごときに何を誇れましょうか」

「た、たかが人族だとっ。教皇様に選ばれた私らをただの人族だと思うなよ!」

「選ばれた? それは口の悪い順? それともくじ引きか何かで?」


 ラミーシャは小馬鹿にするように声を上げて笑った。

 その余裕ある姿に、聖女はさらに不愉快そうな顔を見せる。


「っざけやがって!」


 駆けだした聖女は手に持ったメイスをラミーシャの頭めがけて叩きつけた。

 だが、ラミーシャは振り下ろされるメイスを軽々と細い手で受け止め、笑みをこぼす。

 逆に聖女は顔をしかめていた。

 メイスを持つ聖女の手がしびれ、思わずメイスを落としそうになる。

 柔らかそうなラミーシャの手はその見た目とは違い、鉄のような硬さがあった。


「ちっ。なんて硬さだ」


 聖女は急いで距離を取る。


 ――パキッ。


「――ん?」


 聖女が後ろに下がったそのとき、何かを踏んだ感触があった。

 何かが潰れる音も聞こえた。

 聖女は目を落とし、その感触と音の正体を確かめようと足をどける。


 そこには聖女に踏みつぶされ、動かなくなった虫がいた。

 すでに死んでおり、ピクリとも動かない。

 その虫は鮮やかなレモン色に近い黄緑色の外骨格に覆われ、大きなハサミを持っていた。だが、最も特徴的だったのは一部だけ黒く染まった長い尾と先端にある鋭い針だ。踏みつぶされたせいで、針の先端から何やら液体が漏れている。

 それはさそりと呼ばれる昆虫であった。

 

「……毒持ちか」

「ご名答」

「……なんで厨房にいやがんだ? 晩飯のおかずかよ」


 聖女が皮肉交じりに言い放つと、ラミーシャは軽くうなずいた。


「そのさそりは美しい見た目だけでなく、食感も楽しめた食材でございました(・・・)

「うぇ、本当に食うのかよ。さっきの虹色の虫といい、魔族は虫なんか食ってんのか」

「それも今や昔の話。もはや食卓に並ぶことはございません」

「じゃあ、なんで……」


 じゃあ、なんで厨房なんかにいるのか。

 そう言いかけて、聖女は息を飲む。

 自分の足下から、かさかさという音がいくつも聞こえてきたからだ。

 視線を落とすと、そこには聖女が踏みつぶしたのと同じ毒蠍どくさそり、いや毒蠍どくさそりたち(・・)の姿があった。

 しかも一匹や二匹どころではない。

 その数は厨房に黄緑色の絨毯を敷いたように見えるほど。

 数匹が聖女の足によじ登ろうとしていたが、彼女は手に持っていたメイスで慌ててそれらをはたき落とす。


 そのとき聖女は気づいた。

 床にいるのがさそりだけではないことに。

 いつの間にか厨房の床には、黒と赤と黄の縞模様を持つへびやオレンジ色に焦げ茶が混ざったような斑模様まだらもよう蜥蜴とかげたちがい回っていたのだ。それらはどうみても毒を持っているとしか思えない色合いである。


 さそりを合わせたその数、数百匹以上。

 そのすべてが聖女を囲うように動いている。

 入ってきた扉の周りにも、彼らがひしめき合っていた。


「彼らは皆、お客様のおもてなしをするために集まったものたちにございます」


 その言葉の内容に聖女の顔が思わず引きつった。

 別にへび蜥蜴とかげさそりが苦手というわけではない。

 問題は毒とその数の多さだ。


「彼らはその美しさから食材として集められたものの、不用とされたモノたちでした」


 そう言うとラミーシャが悲しげな表情をする。

 だが、それも一瞬。

 すぐに晴れやかな笑顔を見せる。


「ですが、彼らは食材となる運命を打ち破り、生き残る道を勝ち得ました。まさに運命の女神に選ばれたと言えるでしょう! ――お客様と同じように」

「っ! 私をこいつらと一緒にするんじゃねぇ!」


 だが聖女の声は、突然、騒ぎ出したへび蜥蜴とかげ、そしてさそりたちによってかき消された。

 へびは興奮したように身体をくねらせ、床の上でのたうち回る。蜥蜴とかげたちは威嚇するようにジィィーと声をあげた。さそりはその毒針を床やテーブルに叩きつけた。

 皆が皆、己の存在を主張し始めた。

 それはまるで歓喜する姿だ。

 ラミーシャの言葉に賛同するように、感動するように、その興奮の渦は次第に大きくなっていく。


 異様な光景だった。

 へび蜥蜴とかげさそりが自分の意志を伝えようとしている。感情があるかどうかも怪しい存在である彼らが。

 しかもラミーシャの言葉を理解しているかのような反応だ。


 主張する彼らを見回したラミーシャは言葉を続ける。


「その運命に光を与えた女神こそ、皆がお慕いするお嬢様。生き残ることができたのは、すべてお嬢様のおかげなのです」


 その一言にへび蜥蜴とかげさそりたちの主張が激しくなった。

 その通りだと言わんばかりに。

 ついでに一匹しかいない虹色の虫もその牙を打ち鳴らしていた。


 お嬢様のおかげという言葉の意味が聖女には理解できない。

 だが、それは無理もない。

 聖女は知らないのだ。

 侯爵令嬢のティリアが母親から大人用のスープを飲ませてもらわなかったら、毒のある食材を口にすることができていたなら、味覚を持っていなかったら、執事見習いが半年ほどで溢れるばかりの食材を見つけ、育てていなかったら。

 見た目が美しい蛇や蜥蜴、蠍たちは料理を彩る食材として、きっと今、ここにはいなかった。


 彼らの反応を見たラミーシャは満足げにうなずく。


「はいはい。お嬢様が起きてしまうわ。それくらいにしましょう」


 そして軽く手を打ち鳴らし、静かにするよう優しくさとした。

 すると、これまでの喧噪が嘘のように静まり返る。


 間違いない。

 聖女は確信する。

 ここにいるへび蜥蜴とかげさそりはラミーシャの言葉を理解している。

 そんな能力に聖女は覚えがあった。


「てめぇ、魔物や動物を操るのか」


 聖女は自分の仲間である魔物使いと同じ能力だと考えた。

 だが、ラミーシャは不思議そうな顔をする。

 そして返ってきた言葉は意外な言葉だ。


「操るなんてとんでもございません、お客様」


 それ以上、彼女は何も口にしない。

 あなたには関係ないことでしょうと言わんばかりに微笑むだけ。


「ちっ。薄気味悪い魔族だぜ」


 舌打ちした聖女は周りにいる蛇たちを排除しようと動く。

 そして神聖魔法を使おうとしているのか、聖女の手に魔力が集まりだした。

 だが、そうはさせまいとラミーシャが動く。


「お願い! あの子の動きを止めて!」


 ラミーシャのお願いに聖女の正面にいた一匹の蛇が反応した。

 赤黒の縞模様をした蛇の中でも一回り大きな個体だ。

 蛇は口を大きく開き、鋭く細い牙を聖女に向けながら飛びかかった。

 もはや聖女が避けられる間合いではない。


 反応が遅れた聖女と飛びかかろうとする蛇の視線が交差する。

 蛇はその牙を聖女の腕に突き立てた。

 そして素早く彼女の腕に毒を流し込む。あふれた毒がローブのそでを濡らしていく。その毒はほとんどの魔族に効かないが、人族であれば身体が麻痺する神経毒だ。


 聖女は立ったまま、動かなくなっていた。

 力なく腕を下におろし、顔を伏せたまま、ピクリともしない。


 それを見たラミーシャはつまらなそうにため息をついた。


「もう終わり? まだお茶も出していないのに。仕方ないわ。皆、早いけどこれで解散しましょう」


 ラミーシャは厨房の床をうモノたちに優しく声をかけた。すると彼らは窓から、壁の穴から、排水溝から、扉から、思い思いに厨房から出て行った。へびはスルスルと、蜥蜴とかげはノシノシと、さそりはセカセカと。

 虹色の虫は……カゴから出られない。


 そのとき、ラミーシャは違和感を覚える。

 その原因がわかった彼女は戸惑いの声をあげた。


「――え?」


 感じた違和感の正体は、聖女に噛みついた蛇だ。

 解散するよう言ったはずなのに、帰ろうとしない。

 それどころか聖女の腕に身体を優しく巻き付けながら、じっと彼女の顔をのぞき込んでいる。その目はまるで、「大丈夫?」と心配するような優しさを含んでいた。


「くくっ、さすがにやばかった」


 すると聖女が笑いながら、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は薄明かりの中、銀色に輝いている。


「あなた、その瞳……」

「まさか蛇にも効くとは思わなかった。さすがは神のお力は偉大だ。まあ、本当に噛まれていたとしても解毒魔法でなんとかなっただろうけどな」


 聖女はローブの袖を見ながらほくそ笑んだ。

 袖は蛇の毒で濡れている。

 だが、そこには穴一つあいていなかった。


「さあ、私の目を見ろ! おまえも神の力にひれ伏すがいい」


 銀の瞳を怪しく光らせながら、聖女はいやらしい笑みを浮かべた。

 聖女の瞳に魔力が集まっていく。


 ◆


「大丈夫かっ!」


 勇者は扉を乱暴に開け、中に飛び込んだ。

 突然響いた音を聞きつけ、彼はここまで走ってきた。

 たまたま近くにいたこともあって、それほど時間はかかっていない。

 あの音は誰かが魔族と戦っているに違いない。

 そう判断した勇者の選択は正しかった。


 月明かりが差し込む厨房には聖女の後ろ姿があった。

 彼女に駆け寄り、震える彼女を振り向かせ、優しく声をかける。


「大丈夫だったかい。聖女」

「……怖かった。怖かったの! 勇者ぁ!」


 潤んだ銀色の瞳で勇者を見上げながら、振り返った聖女は震える声で訴える。なんとか声を振り絞った聖女は飛び込むように勇者へと抱きついた。


 勇者の前だ。

 当然のように猫をかぶっている。


 (ヘファーーー!?)


 聖女らしからぬ大胆な行動に勇者は焦った。

 むしろ動揺に近い。

 そしてどうしたらいいか散々悩んだ挙げ句、恐る恐る彼女の背中に手を回し、優しく叩いて彼女を慰めることにした。


「も、もう大丈夫だからね」

「――うん」


 聖女から花のような甘い香りがただよってくる。

 なんともいえないその香りに勇者の鼓動は加速を続けた。

 そのとき聖女が勇者を抱きしめる腕に力を込めた。二人の密着度が増し、聖女の体温が伝わってくる。

 勇者の鼓動はさらに早くなり、「ファイアーッ!」のかけ声ともに始まったファイアーダンス祭りは最高潮。酸素を運ぶ赤血球の社畜化が止まらない。


 勇者の顔はこれ以上ないほど赤く染まっている。

 いつもこういったスキンシップをとってくるのは魔物使いだった。

 何度も抱きつかれている勇者だが、こういったこと(女性との接触)に対し、今もまったく免疫がない。女性の手すら握れない初心うぶな少年なのだ。総称してヘタレとも言うが、異性を意識したこの年代の男の子は得てしてそういう者である。勇者の場合はそれが少しばかり、振り切っているだけだ。

 むしろヘタレのくせに聖女の背中に手を回した彼の勇気を誉めてやってほしい。


 そんなヘタレな彼だが、聖女たちの好意には気づいている。

 聖女たちは皆、勇者のことが好きなのだ。

 そう言葉にして告白されれば、いくらにぶい彼でもさすがにわかる。告白されていなければ一生わからなかっただろと正論を突き付けるのはやめろさしあげて(勇者のHPはゼロよ)ください。


 だが、彼は自分が勇者であることを言い訳にして返事もせず逃げてきた。誰か一人に決められないという優柔不断の影響も大きい。


 このままではまずい。

 魔族と戦う前に倒れてしまう。

 意識が飛びそうになっていた勇者はこの危機を脱する手段を見つけた。


「せ、せ、せ、聖女さん! そ、そ、そのメイドっぽい魔族は誰かな? 何かな?」


 緊張のあまり聖女を『さん』付けした勇者は視線の先にいる魔族を発見し、自分に抱きつく聖女に向かって問いかけた。


 顔が見えないことをいいことに、なんともだらしない顔をしていた聖女(猫かぶり)は聞こえないよう舌打ちする。そして渋々、腕の力をゆるめ、顔だけ後ろに向けながら言った。


「大丈夫。神から与えられた『魅了の神眼しんがん』で、今は私のメイドよ」


 それだけ言うと聖女は腕の力を戻し、自分の顔を勇者の胸にすりつけた。

 クンカクンカスーハースーハーも忘れない。


 そのなんとも言えない感触に勇者の身体がビクンと跳ねる。

 そんな反応を間近に感じた聖女は心の中でガッツポーズを繰り返していた。


 魔物使いのように、べたべた抱きつくのでは効果が薄い。

 ここぞという時に抱きついてこそ効果がある。

 なおかつ、普段は抱きついたりしないことがその効果をより高めるのだ。

 神の奇跡もたまに使うからこそ信者が増える。

 いつも見せていては奇跡とは呼ばない。

 これまで勇者に抱きつくのを我慢した甲斐があった。

 勇者に抱きつく魔物使いに何度、いらいらさせられたことか。

 まあ、あまり長いと力を使って押しのけてやったが。


 『魅了の神眼しんがん』は目を合わせたものを文字どおり魅了し、自分の意のままに操ることができる力を持つ。魅了されたものは自らの意志を奪われ、聖女の忠実な操り人形と化すのだ。


 ちなみに魔物使いが庭師ウルナと出会ったとき『魅了の魔眼』を警戒していたのは、聖女のせいだ。彼女は勇者に抱きつくたび、聖女の魔眼にたびたび魅了され、何度も邪魔をされている


 また『魅了の魔眼』も『魅了の神眼しんがん』も同じ魔眼だ。ただ魔のもの――勇者を惑わすもの――と警戒する魔物使いと、神の力――勇者への愛――と考える聖女との認識の違いである。


「そ、そろそろ侯爵級魔族を探さないと。さぁ、離れて。ねっ、ねっ?」


 これ以上、抱きついていると逆効果だと判断した聖女はあっさり勇者から離れた。すかさず、「勢いで抱きついちゃって恥ずかしい」的な顔を勇者に向ける。その顔を見た勇者は思わず聖女に見とれてしまい、照れたような顔を見せた。


 聖女渾身(こんしん)のお芝居は大成功だ。

 現在、聖女の心の中では芝居の成功を祝って打ち上げパーティーが開催されている。さらにほかの二人(・・)より勇者との仲が三歩は進んだという確信が生まれた。


 聖女の素(ハァ? あぁん?)は今も鈍い勇者にはバレていない。

 聖女が身にまとうのは神官のローブだけではなく、決して目に見えることのない無数の猫だ。それはもう厚着に厚着を重ねまくり、もし視認できたらそこにあるのは巨大な毛玉である。


 聖女の猫にまったく気づかない勇者は腕を組みながら尋ねた。


「ねえ、聖女。その魔族に侯爵級魔族の居場所は聞けないかな」

「やってみますわ。ねえ、ラミーシャ。侯爵級魔族のいるところまで私たちを案内できるかしら」


 聖女が尋ねると、その場で待機していたラミーシャが静かに頭を下げる。


「もちろんでございます。ご案内いたします。どうぞこちらへ」


 厨房の奥に見える両開きの扉を手で指し示しながら、その場で回れ右をしたラミーシャは二人を先導するよう歩き出した。

 その姿は主人を案内するメイドそのものだ。


 勇者たちはラミーシャのあとに続いて歩き出す。

 侯爵級魔族と戦うときは近い。

 勇者と聖女は己の使命を果たすべく、気合いを入れた。


 ◆


 幅の広い屋敷の廊下を、魔族を先頭に勇者と聖女が続く。

 勇者と聖女は周囲を警戒しながら進んでいた。

 いつ、ほかの魔族と出会うかわからない。

 何かあった際は『魅了の神眼』で操っている魔族ラミーシャを盾代わりに使うつもりだが、油断は禁物。背後から強襲される可能性だってある。


 厨房を出てから、どれくらい時間が経っただろうか。

 ここまで素直に案内されてきたが、目的の場所はまだのようだ。

 屋敷が広いことはわかっていたが、そろそろ二人は焦れてきた。

 『魅了の神眼』で操っている以上、こちらから命じなければラミーシャは何も言わない。


「お――ねえ、まだなのかしら」


 とうとう我慢しきれなくなったのか聖女がラミーシャに声をかけた。

 いらついていたせいで思わず、「おい」と声をかけそうになったが、なんとか勇者向けモード(猫たっぷり)の維持に成功する。


「申し訳ございません。もう間もなくでございます、若奥様」

「「若奥様!?」」


 思ってもみなかった単語に聖女だけでなく勇者まで驚きの声をあげた。

 確かに若いうちに結婚する女性はいる。

 聖女と同じくらいの娘が結婚することもあるだろう。

 だが、さすがに十代半ばに届かない聖女に向かって若奥様はない。

 まだお嬢様と呼ばれる年頃である。

 しかし、ここで聖女の目がチャンスとばかりに光った。

 ここに邪魔者は(操っている魔族(ラミーシャ)以外)いないのだ。


「まだ奥様と呼ばれるには早すぎますわ。ね?」


 そう言いながらも聖女は勇者の隣に並び、彼の顔を見上げながら尋ねた。「何が」と、とぼけることができない勇者は、「早い」とも、「早すぎない」とも言えず、ただ聖女の視線をかわすように顔をキョロキョロさせるだけ。


 聖女は戸惑う勇者の腕を自分の身体に引き寄せる。

 当てるものはそれほどないのだが、勇者はそれだけでさらに挙動不審となった。

 そんな勇者にすかさずラミーシャは助言を与えた。


「若旦那様。そこは肩に手を置き、「そんなことないよ」と若奥様を見つめながら優しく甘くささやくべきかと」

「若旦那様っぁ!?」

「若旦那様っ♪」


 同じ言葉でもそこに含まれる感情はふたつに分かれた。

 動揺と歓喜である。

 聖女が若奥様で、勇者が若旦那様なら二人の関係は何と呼ばれるのだろう。頭に浮かんだその言葉に勇者はヘタれ、聖女は目をギラギラさせていた。


 そんな二人を見て、ラミーシャは優しく笑う。

 彼女の視線に気づいたのか、勇者の顔が赤く染まった。それはラミーシャの助言の内容が恥ずかしかったのか、彼女に見つめられて照れているのか微妙なところだ。


「ちょっと! あなた!」


 顔を赤くした勇者の変化に聖女が気づかないわけがない。

 聖女はラミーシャに鋭い目を向けた。


「はい。なんでしょうか、若奥様」


 ラミーシャは笑顔を絶やさず、『若奥様』を強調して言葉を返す。


「採用!」


 何に採用されたのかはわからないが、ラミーシャは聖女の言葉に微笑みながら、うなずいた。

 残念だが、聖女は勇者の変化には気づいていなかったようだ。

 そして若奥様と呼ばれ、浮かれていたせいで大事なことに気づいていない。


 聖女は自分のことを若奥様と呼ぶように命じていない。

 もちろん勇者のこともだ。

 何より『魅了の神眼』で操っているにもかかわらず、ラミーシャが自分の意志で勇者に声をかけたことにも気づかなかった。


「――お待たせしました。こちらでございます」


 そこには大きな両開きの扉があった。

 扉には細かい装飾が施されており、まさに見る者を引きつけるほどの美しさと豪華さがあった。

 侯爵級魔族がいそうな雰囲気が扉越しに伝わってくる。


 ラミーシャは扉の横に立ち、中に入るよう促した。

 同時に両開きの扉がゆっくりと開いていく。

 覗いてみると部屋の中は真っ暗だった。


「いくよ」

「ええ」


 勇者と聖女の二人は警戒しながら、開ききった扉をくぐり、中へ入る。と同時に部屋に明かりがともった。

 突然、明かりがついたことで二人の目がくらむ。

 だが、それも一瞬のことだ。


 二人が警戒しながら見回すと、そこは天井の高い大きな広間だった。装飾された天井からは大きなシャンデリアがぶら下がっており、それから放たれた魔法の光が降り注いでいる。天井近くの壁には透明なガラスがはめられた開閉式の窓。壁の中央付近には花を模した壁掛け照明が部屋の中を一周するように、等間隔に並べられていた。床は落ち着いた風合いの板が敷き詰められており、まるで鏡のように磨かれている。

 そこは教皇フィスタンが住む宮殿よりも立派に見えた。


「侯爵級魔族はどこ?」

「ここはいったい……」

「ここは当家のパーティールーム。ダンスなどが行われる大広間です」


 その声に勇者と聖女は武器を抜いた。

 勇者はいつでも剣が振るえるよう構え、聖女はメイスを手にいつでも神聖魔法が使えるよう警戒する。


 声の主はすぐに見つかった。

 先ほどまで誰もいなかったはずの広間の奥に赤いドレス姿の女性が立っている。


 すべての女性がうらやむような体型に透明感のある白い肌は大人の魅力にあふれていた。腰まで伸びた艶やかな赤紫の長い髪は一部が美しく編み込まれており、彼女の品の良さを引き立てている。

 魔族の特徴である深い赤の瞳はまっすぐ勇者と聖女を見据えており、今にも吸い込まれそうだ。


 その堂々とした態度に勇者と聖女は息を飲む。

 ピリピリと肌に感じる緊張感は聖女が操るラミーシャの比ではない。


「あ、あなたが侯爵級魔族ですね」

「?」


 自信なさげに尋ねた勇者の言葉に女性は首をかしげた。

 まるで少女のような仕草に思わず勇者の緊張が緩む。


「侯爵級という意味はわかりかねますが、私はエリス=ミストファング。この地を治めるミストファング侯爵家ヘルムト=ミストファングの妻であり、今は当主不在の留守を預かる責任者でもあります」


 エリスと名乗った魔族はいつの間にか取り出した扇子を右手に握り、持っていない左手のひらに打ちつけた。

 パンッと軽い音が鳴る。

 それと同時に、勇者たちの背後にあった扉が音を立てて閉まるのが聞こえた。嫌な予感を覚えた二人が振り向こうとしたとき、すさまじい衝撃が二人の背中を襲う。


「ぐぁっ」

「きゃっ」


 背後からの突然の衝撃に、二人の身体は広間の中央付近まで吹き飛んだ。

 だが、なんとか体勢を整え、すぐに立ち上がる。

 背中を襲った衝撃の正体を見極めようと入ってきた扉へと目を向けた。

 すると、そこには思ってもいないものが存在していた。

 二人は驚き、そのまなこを大きく見開く。


「案内ありがとう。ラミーシャ」


 侯爵夫人エリスの口調を知る者からすれば、今の彼女が怒っていることに気づけただろう。普段、彼女の言葉には優しさがあり、優雅な口調でゆっくりと話すからだ。

 だが、今の彼女は侯爵夫人としての威厳に満ちあふれていた。


「とんでもございません。奥様」


 怒りをその身に秘めたエリスに対し、緊張した声でメイドが答える。

 そのメイドはラミーシャだ。

 閉じた扉の前には聖女が『魅了の神眼』で操っていたはずのラミーシャがいた。

 だが、今のラミーシャにはあるべきはずのものがなく、あるべきではないものが彼女の身体を支えている。


 返事をしたラミーシャはまるで滑るように動き出し、勇者と聖女に近づいていった。

 ずるずると何かを引きずるような音が広間の静寂を乱していく。


 ラミーシャはある程度、二人に近づくと、その脇を何も言わずに通り過ぎる。

 案内をしていたときのラミーシャの目は薄い赤色をしていた。

 だが、今は違う。

 白銀色の瞳と金色の瞳(オッドアイ)で二人を一瞥した彼女は口元に微笑を浮かべていた。


 その瞳を見た聖女は『魅了の神眼』の力が及んでいないことを悟る。

 勇者もまた異なる色を持つ左右の瞳の不気味さに一歩も動けず、武器を構えたまま見送るだけで精一杯だ。


 エリスの元にたどり着いたラミーシャは一礼してから彼女の後ろに控えた。

 そして、その場で静かに『とぐろ』をまく。

 今のラミーシャに両足はなく、スカートのすそから伸びているのは蛇そのものの姿だ。見えている長さだけで三メートルはある。


 ただ不思議と美しかった。

 輝くような真っ白の鱗に覆われた蛇の尾は足があったとき以上に艶めかしい。

 二人を背中から襲ったのは、このムチのようにしなる蛇の尾だ。


「……いつから私の魅了が効いていなかったのです?」


 聖女の問いかけにラミーシャは返事をしない。

 黙ったままエリスの側に控えるだけだ。

 すると、勇者と聖女に目を向けたままのエリスがラミーシャに声をかけた。


「ラミーシャ。かまいません。答えてあげなさい」

「かしこまりました、奥様」


 エリスを前にした以上、使用人として黙っていたラミーシャ。

 だが許可が出たため、聖女の問いに答えるべく口を開く。


「最初からですよ、お客様」


 ラミーシャはいたずらが成功したかのような顔を浮かべる。


「最初から?」

「ええ。私に魔眼は効きません。特に同じような力を持つ魔眼はね。あえてかかったフリをしたまでにございます。何より奥様に言われ、貴方をこの場に連れてくるよう命じられていました。蛇の毒で麻痺していれば早かったのですが、二人をご案内できたのは幸いでした」


 言い終わるとラミーシャは自分の目に込めた魔力を解除した。

 すると彼女の瞳は元の魔族らしい赤に戻る。

 そして目に魔力を戻すと、彼女の瞳は白銀と金に色を変えた。


なるほど(はぁん?)あなたも魔眼持ち(ざけんじゃねぇよ)だったのですね(このクソが)


 そう言いながら聖女は心の中で、素に戻り、舌打ちをする。


「ふふっ。私の家はね。ドラゴンの飼育をしているの」

「「ドラゴンを飼育!?」」


 勇者と聖女の声が重なる。


「ええ。卵からかえったばかりの幼竜には、ちょっとおいたをする子がいてね。そんな子を大人しくさせるのがこの瞳。母様と父様から受け継いだ『魅惑の魔眼(白銀色の瞳)』と『蟲王の魔眼(金色の瞳)』よ」


 心を惹きつけるだけの魅了とは違い、魅せて心を惑わす『魅惑の魔眼』。

 同じような力でも魅了より強力な魔眼のひとつだ。


「二種類の魔眼持ちってどういうことよ! ありえないわ!」

「ありえないと言われてもここにいるわ。でも二種類とも両目じゃないから効果は薄いの。例えば『蟲王の魔眼』は本来、一部の生物を支配する能力がある。だけど、私の場合は片方しかないから、少しだけ『お願い』を聞いてくれるお友達が限度ね。貴女にも言ったけど操っているわけじゃないわ。でも町の噂話を集めるよう『お願い』することはできるのよ」


 ラミーシャの主な仕事はメイドだが、情報を収集し、他領から来た魔族を監視または彼らから情報を集める情報調査官及び諜報員である。そのため王都滞在中もお友達(虫たち)に『お願い』して、王都内や他貴族の情報を集めていた。その際、某執事見習いが巫女のヒミカやエルフのニーナと会っていたことを知ったのだ。

 ただ彼女の噂好き、ゴシップ好きは元からである。


「友達になれるのはドラゴンのほかにも、貴女が会ったへびだったり、蜥蜴とかげだったり、さそりだったりするわね。残念だけど魔族や人族には効かないわ。最近じゃ、執事見習いくんのおかげで虫とか、しじみとか、浅蜊あさりとか、はまぐりとお友達になれることがわかったけど……まあ、彼らはほとんど動かないし、なぜか執事見習いくんには彼らの砂抜きばかり頼まれるのよね」


 ラミーシャの『蟲王の魔眼』は虫に関わるものを操れる。

 虫とは本来、人類・獣類・鳥類・魚類以外の小動物の総称だ。

 人類の中には魔族や人族のほか、妖精族、エルフ族、ドワーフ族、獣族などの種族も含まれる。これは某執事見習いが実験済みだ。


「さぁ、もういいでしょう」


 突然響いたエリスの声に広間の空気がピンと張り詰めた。


「貴方たちの目的は聞いております。私の夫を暗殺しようとするだけでなく、可愛い可愛い娘まで狙っているそうですね」


 エリスの目は細められ、身も凍りそうな殺気が広間いっぱいに広がっていく。


 勇者たちはエリスという魔族からあふれる強大な殺気に驚いていた。

 その濃密な気配はこれまでに味わったことがないほどの恐ろしさだ。

 武器を握る手や足が自然と震えてくる。

 侯爵の伴侶が持つ強大な力に、二人はすでに飲まれつつあった。


「これまでの間、あなたがた招かざる客人の相手は『息抜き』を兼ねて使用人たちに任せてきました。夫や私を狙う政敵の放った刺客など、当家に仕える使用人たちのちょうどいい遊び相手に過ぎません。ですがっ――」


 エリスが語気を強めた瞬間、彼女からあふれた魔力によって広間が一瞬のうちに白く凍った。空気中の水分も瞬く間に凍らされ、キラキラとシャンデリアの光に反射して落ちていく。また目に見えないような隙間さえ氷によって埋められたことで、広間に死のような静寂が訪れる。


「――私の愛しい(ティリアちゃん)を狙うなど言語道断ですっ!」


 パンッ


 扇子を打つ音が凍った室内に響く。

 エリスがここまで怒ることなど滅多にない。

 それだけ子を想う母の愛は深いということだ。

 エリスがラミーシャに言って、勇者と聖女をここまで連れてこさせたのは招かざる客人に自分の怒りを示すためであり、自ら彼らを罰するためでもある。


 だが、それを止めるものがいる。

 ラミーシャだ。


「奥様のお怒りはごもっともにございます。ですが奥様の手をわずらわせるわけにはいきません。あの程度の賊の相手など私だけで十分にございます」


 そう言うとラミーシャはエリスの前に立った。

 侯爵家に仕える使用人としては、侯爵家の夫人に何かあっては困る。

 万が一、賊ごときの相手をして肌に傷がついてはたまらない。

 それに――。


「ブルガー男爵の娘として、主家しゅかの敵は我が敵にございます。どうか私に賊の討伐を命じください。何よりお嬢様を狙う敵を許すわけにはいきません」


 使用人ではなく男爵家令嬢ラミーシャ=ブルガーの態度は堂々たるものだった。これは侯爵家に仕える配下としての言葉。

 その言葉にエリスは苦笑しながらため息をつく。


「もう~。男爵家の令嬢にそこまで言われてしまうと仕方がないわね~。ではラミちゃん~、あの二人の相手はあなたに任せるわ~。ただし、無理はしないようにね~」


 エリスは先ほどまでとは打って変わり、柔らかい口調でラミーシャに言った。

 配下の者の意見を聞くのも主家の役目だ。


「はい! かしこまりました奥様!」


 その言葉にラミーシャは花が咲いたような笑顔を見せ、嬉しそうに返事をした。


「――使命を受けた僕たちに対し、息抜き? 息抜きだと?」


 うつむいた加減だった勇者が小さくつぶやく。

 聖女はそのつぶやきに勇者の怒りをはっきりと感じた。

 狂がつくほど神への信仰心が厚い聖女だが、教皇に対する勇者の忠誠心は同等かそれ以上だ。


 普段は『勇者』という名前の重圧に押しつぶされ気味で、自信の欠片もない優柔不断の彼も教皇フィスタンが絡むと豹変する。

 その教皇に命じられた使命を魔族たちは息抜きだと軽んじたのだ。

 それが勇者に火をつけた。

 エリスの迫力に飲まれそうになっていた勇者の姿はすでにない。


「なめるなよ、魔族風情がっ!」


 沸き上がる闘志を解放した勇者が叫ぶ。


 (キャー! キマシタワーーー!)


 突然、勇者の口調が荒くなり、自信が満ちあふれる目つきとなった姿を見て、聖女は胸の内で歓喜の声を上げた。勇者同様、弱気になっていた彼女だったが、それもあっという間に吹き飛んだ。


 魔族たちを黒い瞳で鋭くにらみつけるその姿は少年特有のあどけなさが消え失せ、青年のような凜々(りり)しさにあふれていた。


 火がつき、覚醒した勇者の実力。

 それは近衛と呼ばれる六人の仲間全員が認めている。

 また仲間の女性たちが恋い焦がれる勇者こそ、今の姿の彼なのだ。


 うっとりと見つめる聖女には目もくれず、勇者は突然、右腕を真上に向かって突きだした。それはまるで天から何を受け取るような光景だ。


「聖剣よっ! 我が元に来いっ! 不滅の刃で悪しき者に断罪を! デュランダル!」


 聖剣召喚。

 呪文を唱えるかのように勇者が声を上げると、彼が伸ばした腕の先に一本の剣が現れる。剣身は自ら発光し、黄金の柄はその光を反射して広間を照らした。


 聖剣デュランダル。

 千数百年前に現れた勇者が使っていたものとは違うが、決して壊れることのない剣として教皇フィスタンから今の勇者に授けられた聖剣だ。切れ味鋭く、その聖なる力によって悪しき心を持つものを滅すると勇者たちに伝えられている。


 聖剣が持つ魔力をその身に感じたラミーシャは気を引き締めると、勇者たちの前に立った。

 ラミーシャもまたお嬢様大好き四天王の一人。

 これまでと違い、大好きなお嬢様を狙う不届き者を刺すような目でにらむ。


「さて、お客様方。今宵こよいはダンスといきましょうか」


 ラミーシャはダンス前の挨拶をするように、両腕を横に軽く広げ、上半身を軽く落とし、流れるような動作で一礼した。


 戦いにそぐわない彼女の態度に、勇者と聖女は警戒を露わにする。

 その警戒が功を奏した。


「聖女っ! 右っ!」


 ラミーシャが礼をした途端、彼女の下半身である蛇の尾が二人に襲いかかった。その横薙ぎの一撃はムチのようにしなり、空間を引き裂くほどの速さで迫り来る。

 だが、勇者の声に素早く反応した聖女は真っ白な蛇の尾をあっさりとジャンプしてかわした。


「ありがとう、勇者! 彼女の魔眼と目を合わせないように気をつけてくださいっ」

「了解! 魔法に対する抵抗力はあるほうだけど、気をつけるよ! 聖女も気をつけて!」

「大丈夫です! 神眼を持つ私には、魅了系の魔眼効かないはずですっ!」

「わかった!」


 ラミーシャの攻撃は終わらない。

 かわした蛇の尾が次々と二人に襲いかかる。

 横から、上から、斜めから。

 さらには槍のように突き刺そうとしてきたり、突然、死角から飛んできたりとあらゆる方向から飛んでくる。


 だが、二人はラミーシャの攻撃を次々とかわしていった。ときには足を引き、身体をひねり、上体をそらし、身体をかがめ、その場で飛んでかわし続ける。

 それはまるでダンスを踊るかのような激しい動きだ。

 そのことに気づいた聖女は、「ちっ! ダンスって私たちが踊るのかよっ!」と心の中で悪態をついた。


 ラミーシャの攻撃は二人にかすりもしない。

 本人たちは知らないが、疑似生命体として作られた近衛が持つ身体能力のおかげである。

 だが、彼女の激しい攻撃に反撃の機会が見つからない。

 それでも聖女は攻撃を避けながら、勇者のために補助用の神聖魔法を次々とかける。


「勇者っ! 『プロテクションイビル(悪からの物理防御)』、『マジック(魔法)プロテクション(抵抗)』、『ストレングス(筋力強化)』、『アジリティ(敏捷性強化)』っ!」


 補助魔法によって敏捷性が向上した勇者は攻撃の隙を狙い、ラミーシャに向かって走り出した。その間際、聖女と視線を合わせ、声に出さないまま、「ありがとう」と口を動かす。


 (とうとう目と目で通じ合う、そんな仲に! しかも、あいしてるって言ワレマシタワー!)


 うっとりとした顔で、ぐふふと声を漏らす聖女。

 だが幸いにも、その不気味な笑い声はラミーシャに集中する勇者には聞かれずにすんだ。


 ラミーシャに剣が届く位置まで距離を詰めた勇者は聖剣デュランダルを振りかぶる。だが、がら空きとなった勇者の胴を斜め後ろから追ってきた蛇の尾がなぎ払った。

 攻撃が当たる瞬間、察知した勇者は威力を半減させるため、自ら飛んだ。数メートルほど吹き飛ばされたが、足から着地し、すぐさま反撃に転じる。

 そして自分の胴をなぎ払った蛇の尾にデュランダルを振り下ろした。


 デュランダルが蛇の尾に届こうとしたとき、金属同士がこすれ合うような音が鳴り響く。

 ラミーシャの尾を斬り裂こうとした聖剣デュランダルは、いつの間にか接近していた彼女の短剣によって防がれていた。


 彼女が持つ短剣の刃は黒く、持ち手はアルファベットの『H』型をしている。

 俗に言うジャマダハルという突き刺すことを主とした幅広の短剣によく似ている。しかもそれは侯爵家の使用人に与えられるという『ソウルイーター』の一振りだ。

 それが彼女の両手に一本ずつ握られている。


 聖剣デュランダルの一撃を防いだラミーシャはニコリと笑った。


「いきなり淑女の素足に手を伸ばすなんて。随分と積極的ですわね。勇者様ぁ」

「いやっ、ちがっ――!」


 二人の剣が交差し、互いの鼓動が聞こえそうな近距離で、ラミーシャは勇者にだけ聞こえるよう甘くささやいた。

 覚醒していた勇者だが、その本質は初心うぶなヘタレだ。

 必死に彼女の言葉を否定する。


 動揺する勇者にラミーシャは白銀と金色の瞳を静かに向けた。

 だが、勇者は聖女の忠告通り、彼女の目から視線をあわててそらす。

 そんな姿を見たラミーシャはからかうような笑みを浮かべると、勇者の耳に顔を寄せた。


「ねえ、勇者様ぁ。――触ってみたい?」

「へ?」


 耳をくすぐるように響く、とろりと絡みつくような誘惑の声。

 その声に勇者は思わずラミーシャに顔を向け――そうになったところへ聖女の怒声が飛んでくる。


「ちょっと! あなた! 勇者から離れなさいよ! 『ホーリーフォース』っ!」

「まぁ、怖い」


 怒りと嫉妬のこもった聖なる(?)衝撃波が放たれた。

 だが、ラミーシャは笑みを浮かべたまま上体をそらし、たおやかな肢体をひねってそれを交わす。

 その際、異性を惹きつける彼女の柔らかい双子の山が、ほわんと揺れた。


 ラミーシャに顔を向けそうになっていた勇者だったが、それは聖女によって防がれた。だが、その代わりに上半身をそらしたラミーシャの形の良いふくよかな塊が、たゆんと揺れるその様をじっくり間近で見て(ガン見して)しまう。


 勇者は揺れた山の正体に気づいた。

 気づいてしまった。

 一瞬のうちに顔を真っ赤にさせた勇者は激しく動揺したせいで覚醒前の初心うぶな性格に戻ってしまう。


 ヘタれた勇者は慌てて身体ごと顔をそらした。

 だが、顔を向けた先にあったのは、いつの間にか勇者の隣に移動していたラミーシャだ。

 間近で彼女の顔を見た勇者は頬を染めながらも素直に美しいと感じていた。整った顔立ちに白銀と金色の瞳がとても神秘的だ。


 するとラミーシャは柔らかそうな唇をまるでキスするかのように軽く突きだした。

 その仕草に勇者はまたもや動揺を見せる。

 そんな隙だらけの勇者から距離をとろうとしたラミーシャは、離れ際、尾の先で彼の首筋をしゅるりと撫でた。


「ひゃいっ」


 首筋をっていったラミーシャの尾に、殺気とは違うゾクリとした感触が勇者の身体を駆け巡った。

 少年にはやや刺激が強すぎたようだ。

 変な声を出し、気の抜けた顔をしても仕方がない。


 ラミーシャ=ブルガー、十五歳。

 花も恥じらう乙女ながら、妙に艶めかしい雰囲気を持った彼女は男女の機微や異性が喜びそうな仕草、そして技巧(ぎこう)にも詳しかった。

 まだ異性と付き合ったことすらない彼女は十五歳にして耳年増である。これも全部、情報調査官及び諜報員という仕事が悪い。

 それに加えて、『本能』で動く『お友達』の影響も大きかった。

 虫の主な本能など、食う、寝る、繁殖くらいしかないのだから。


「おいっ! 勇者! 何デレデレしていますのっ!」


 デレデレしている勇者に聖女が怒鳴る。

 一部、彼女の素が出たが本人も勇者も気づいていない。

 彼女は女性としての本能で察していた。

 やばい。

 あの女(ラミーシャ)はすごくやばい。

 何がやばいのかはともかく聖女はそう確信した。


 魔族と戦っている今、勇者が元に戻ってしまったのはまずい状況だ。

 だが、聖女は諦めない。

 教皇の名を出せば、また聖女が恋い焦がれる勇者に戻るはずだと考えた。


「勇者。教皇様の使命を忘れてはいけません! しっかりしてくだ――」


 そのとき聖女は勇者の異変に気づく。

 勇者がラミーシャを熱っぽい目で見つめていることに。


「!? 勇者? ねえ、勇者!」


 聖女が身体を揺すっても、腕をつかんでも勇者は反応がない。

 まるで聖女など目に入っていないかのようだ。


「おい、てめえ! 勇者に何をしやがったっ!」


 明らかにおかしい勇者に、聖女はかぶっていた猫を放り投げた。

 逃げ惑う猫の声が聞こえてきそうだ。


 聖女に怒鳴られたラミーシャだが、彼女もまた勇者の反応に少しだけ動揺していた。その動揺を隠すように言い訳じみた言葉を聖女に返す。


「……私もまさか効くとは思わなかったわ」

「――ハッ、まさか! 魔眼かっ!」


 聖女はすぐに悟った。

 勇者は彼女と目を合わせてしまったのだ、と。

 ラミーシャが持つ『魅惑の魔眼』。

 『魅了の神眼』を持っている聖女には同じような力を持つラミーシャの魔眼は効きにくい。

 だが、神眼も魔眼も持っていない勇者は違う。

 目を合わせないように言ったが、何らかの拍子(たゆんたゆん)で彼女の瞳を見てしまったのだ。


 しかし、彼女の考えを一部ラミーシャ自身が否定する。


「言っておくけど、『魅惑の魔眼』じゃないわ」

「何言ってやがんだ。どうみても――」

「これは『蟲王ちゅうおうの魔眼』が持つ支配の力よ」

「は? いや、てめぇさっき……」


 ラミーシャの言葉を信じるなら、彼女が持つ『蟲王の魔眼』は人類には効かなかったはずだ。

 それなのになぜ勇者は彼女から目を離さない?

 なぜ何年も付き合いのある気心知れた友人のような目を向けている?

 ラミーシャが嘘をついたのか。

 だが、彼女自身も戸惑った様子を見せていた。

 いったいどういうことだ。

 聖女は何が起きているかわからなかった。


「執事見習いくんからの伝言といい、プレスさんの話といい、やはり、あの話は本当なのね。可哀想に自分たちが何か知らないなんてね」

「ハァ? 何を言っているんだ? てめぇ?」


 威圧的な態度をとる聖女にラミーシャは寂しそうな顔を勇者と聖女に向けた。それは同情や憐れみといった部類の感情が含まれていた。

 勇者はラミーシャを見つめるだけで動く気配はない。


 そんな彼女の態度が気に触ったのか、聖女はさらに怒気を強める。

 だが、ラミーシャが同情的な顔を見せたのはごくわずかな時間だった。


「でもね、お嬢様を狙うこととあなたたちが何者かは別の話よ」

「あぁん? だからどうだっていうんだ」


 冷ややかな声が広間に響き、緊張の度合いが一気に高まる。

 その緊張の中、聖女は魔眼に支配された勇者をまず正気に戻す必要があると考えた。魔眼の力は魔力を打ち消す魔法(ディスペルマジック)で消せるはずだ。

 ただ、ひとつだけ懸念があった。

 しかし、聖女はそれを打ち払う。

 正気に戻してしまえば、あとは勇者を覚醒させるだけ。

 聖女は勇者に魔法を使おうとした――そのとき。


 ラミーシャが先に動いた。

 彼女はすぅっと息を吸いこみ、胸の前で両拳をぎゅっと握る。

 そして大きな声で――悲鳴をあげた。


「きゃあ、勇者! 『お願い』守って! その子が私をいじめるの!」

「はい?」


 思いも寄らないラミーシャの乙女チックな声に聖女は気の抜けた声を漏らす。

 そのせいで魔力を打ち消す魔法(ディスペルマジック)を放つのが一歩遅れた。我に返った聖女はすぐさま勇者に魔法を放ち、声をかける。


「勇者! しっかりして! 使命を果たしましょう! 二人であの魔族たちを倒すわよっ!」

「――わかった」


 聖女は魔眼の力を打ち消すことに成功した。

 すぐに勇者の元に走り、改めてメイスを構える。

 だが、聖剣を構えた勇者はその切っ先を魔族ではなく、聖女に向けた。


「――え?」

「ねえ、聖女。僕の大切な友人を傷つけようだなんて、なんてひどい人なんだ、きみは」

「ゆ、勇者!?」


 聖女の胸に締めつけられるような痛みが走った。

 恋い焦がれた人からかけられた突き放すような言葉。

 聖女に向ける瞳は冷たく、仲間を見る目つきではない。

 勇者の思ってもみない態度に聖女はひどく狼狽した。


 聖女が懸念していたことが起きてしまった。

 それは魔力を打ち消す魔法(ディスペルマジック)に勇者が抵抗してしまうこと。いきなり魔法をかけられれば、警戒し、それにあらがおうとする。

 仲間や信用できる相手でなければ、なおさらだ。

 勇者が聖女の魔法に抵抗したということは、今の勇者が聖女を仲間とも信用できる相手とも思っていないという証拠でもあった。


 勇者はラミーシャに目を向けると小さくうなずく。


「大丈夫だ、ラミーシャ。キミは必ず僕が守る。それが昔の仲間からだとしても」

「あら? ありがとう?」


 ラミーシャは勇者の態度に少し違和感を覚えながら戸惑い気味に答えた。

 その違和感が何かわからないまま。


 それとは別に聖女は立ち尽くしていた。 

 勇者は聖女のことを今は違うというように昔の仲間と言い放った。

 その残酷な言葉に聖女は唇を噛む。


 もちろん勇者は聖女のことを忘れたわけではない。

 仲間だった(・・・)ことも、聖女の『魅了の神眼』のことも覚えている。


「勇者! しっかりしてくださいっ!」


 震える声で叫んだ聖女は勇者に向かってもう一度、魔力を打ち消す魔法(ディスペルマジック)を放った。

 だが、それは勇者にとって不意打ち気味に仕掛けられた不愉快な行為だと判断される。当然、全力で抵抗した。


「――今、僕に何をしようとした。聖女」


 地の底から響くような冷ややかな声。

 普段の優柔不断さや気弱さは影も形もない。

 覚醒したときの勇ましさとは違った雰囲気を聖女は感じていた。

 それは聖女に対する敵意だ。


 敵意に焦りを覚えた聖女は『魅了の神眼』に魔力を込めた。

 『魅了の神眼』でラミーシャの魔眼の力を上書きし、勇者を取り戻そうとしたのだ。だが、それは魔法同様、逆効果だ。

 『魅了の神眼』を使おうとしていることを察知した勇者は、デュランダルを一閃させる。


「きゃっ!」


 勇者の一撃は聖女の魔眼そのものを狙っていた。

 聖女はなんとかその攻撃を避けたが、わずかに遅れたせいで前髪の一部が地面に落ちる。


 そのとき二人の様子を見ていたラミーシャが焦ったように声をかけた。

 勇者の様子がおかしいことに気がついたのだ。


「ちょ、ちょっと、勇者。女の子の髪を切るなんて、さすがにやりすぎよ。『お願い』だから落ち着いて」

「大丈夫だ、ラミーシャ。キミは必ず僕が守る」

「友達の『お願い』を聞いてくれないの」

「大丈夫だ、ラミーシャ。キミは必ず僕が守る」

「――あ~」


 繰り返される同じセリフ。

 ラミーシャは少し考える素振りをしたあと、あからさまに狼狽し始めた。

 その様子を見たエリスがそっと彼女に耳打ちする。


「ラミちゃん~。どうかしたの~」


 エリスの耳打ちにラミーシャは勇者たちに聞こえないよう言葉を返す。


「お、奥様。申し訳ございません。じつは――あの者にかけた『蟲王の魔眼』の力が……暴走しています」

「あらあら~」


 困ったようで困っていないような口調でエリスは頬に手を当てた。

 そのときラミーシャの目には剣を振り上げた勇者の姿が映っていた。


 勇者が剣を振り上げるのを見て、聖女は後ろに下がった。

 だが、それを勇者が追いかける。

 一気に間合いを詰めた勇者だったが、聖女が放った『ホーリーフォース』によってはじき飛ばされた。その衝撃を聖剣で受け流した勇者はすぐに体勢を立て直す。

 二人は五メートルほどの距離をとって向かい合った。


「ねえ、勇者。もうやめてよ。……もう、もう――いい加減にしろよ、てめぇ」


 勇者に攻撃されたという衝撃のせいか、素を隠すことも忘れて聖女は吐き捨てた。

 そんな彼女の目尻にうっすらと涙がにじむ。


「……ったく。ふざけんなっ。頭ぶん殴ってやるから、正気を取り戻せ!」


 聖女はこぼれ落ちそうになる涙を強引にそででぬぐい、気合いを入れ直した。

 もはや聖女の目に涙はない。

 ただ、決意を込めた目で真っ直ぐ勇者を見ていた。


 武器を構えた二人は間合いを詰めるべく同時に走り出す。

 勇者と聖女の武器と魔法を駆使した戦いが始まった。


「ど、どうしましょう」


 本気で戦い始めた勇者と聖女を見ながら、ラミーシャは『蟲王の魔眼』の力が暴走したことに焦っていた。

 某執事見習いは、侵入者は出来る限り生かしておいて欲しい」と伝えてきた。何やら使い道があるらしい。

 このまま暴走した勇者を放っておけば、体力や戦闘に劣る聖女が危ない。


 オロオロし始めたラミーシャを見て、珍しいわねとエリスは微笑む。

 そして侯爵家の妻であり、一人娘の母である彼女はもっとも魔族らしい言葉で言い放った。


「夫と娘を狙う賊に同情など不要です。この程度のことで生き残れないような者など利用価値はありません」


 見るものを凍りつかせるようなその視線は争っている勇者と聖女に向けられていた。


 ◆


 やがて勇者と聖女の戦いに終わりが見えてきた。

 聖女は神聖魔法による補助と回復を使いこなしていたが、それを上回る勇者の猛攻に追い詰められていた。

 すでに聖女の魔力は残されていない。

 かろうじてメイスを構えているが、肩で息をしており、ところどころ治しきれない傷があった。


「聖女。もう諦めろ。僕は絶対に友人を見捨てない」

「あほか。魔眼に支配されて友人だと思わされているだけだ。さっさとそこの魔族を殺して教皇様の使命を果たせってんだ」

「どうしても引くつもりはないというわけか」

「侯爵級魔族を倒すことが神の試練であり、私たちの使命なんだよ!」

「……わかった。もういい」


 勇者は聖剣デュランダルを両手で握ると切っ先を聖女に向け、体勢を低くし突き刺すような構えを見せた。それに対する聖女は深呼吸をするとメイスを握り正面に構える。


 勇者と聖女。

 ピンと張り詰めた空気が二人の間を流れた。

 そのとき聖女の腕がぴくりと動く。


 その瞬間、勇者は走り出した。

 瞬発力はすさまじく、勇者はあっという間に距離を詰める。

 勇者はその勢いを殺すことなく、一本の矢のように手に持った聖剣で聖女をつらぬこうと飛び込んだ。


 聖女もまた同時に動き出した。

 だが、聖女は勇者を迎え撃とうとしたわけではない。


 聖女は飛び込んでくる勇者を、涙を溜めた目で柔らかく見つめながら、握っていたメイスをその場に落とす。そして両腕を広げ、悲しげな微笑みを浮かべながら――つぶやいた。


「好きだよ、勇者。魔族の魔眼なんかに負けないで」


 銀色の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。

 涙は頬をつたい、床の上に小さな染みを作った。


「ぐっ」


 聖女の涙ながらの告白に、突然、勇者の胸を締め付けるような痛みが襲う。

 その痛みにより、勇者にかけられていた『蟲王の魔眼』の力が打ち消された。

 我に返った勇者は自分の行いに慌てて剣を引こうとしたが、すでに切っ先は無防備な聖女の身体に届こうとしていた。


 そこに凍りつくような冷たい声が響き渡る。


「――『氷獄世界ニブルヘイム』」


 時が止まる。

 だが、実際に止まったわけではない。

 この場にあるすべてのものが凍りつき、動きを止めただけだ。

 エリスの使った魔法から逃れられたのは、エリス本人とラミーシャのみ。

 そのラミーシャはラミア族である蛇の尾から、いつのまにか真っ白な二本の足に戻っている。かなり寒いらしく、ガタガタと震えていた。


「――ねえ~、ラミちゃん~。見た~?」

「ええ。この目でしっかりと! 奥様!」


 二人は弾むような声で会話し、キラキラした目でうなずき合った。


 聖女は勇者の目を覚まそうと、自らの命を投げ出そうとした。

 そんな彼女の行動は恋する乙女の覚悟だ。

 しかも少女の命がけの告白に暴走していた勇者が我に返ったのだ。


「愛ねぇ~」

「愛でございますねっ!」


 二人のそんなシーンを間近に見てしまったエリスは心を痛めた。

 侵入者の生死など微塵も考えていなかったが、相手が恋する乙女となれば話は別だ。手を出すつもりはなかったが、反射的に動いてしまった。


「なんだか私たち、すごく悪いことをしたみたいね~」

「滅相もない! 奥様が気にする必要はございません! 元はといえば私の魔眼の力が暴走してしまったことが原因なのですから」

「いいえ~、ラミちゃんに命じた私にも責任はあるわ~。それにしても暴走は予想外だったわね~」

「まさか『守って』と命じたにもかかわらず、率先して戦い始めるとは思いませんでした。これも『疑似生命体』という作られた命が原因でしょうか」

「やっぱり~、そう思う~?」


 ラミーシャとエリスは執事見習いの使い魔やデュラハン族のプレスコットから侵入者たちが人族ではなく、教皇によって人工的に作られた生命、疑似生命体だと聞かされていた。


 魔眼の力が勇者に効いたのは、彼が人族ではなかったからだ。

 本当に効くとラミーシャ本人も思っていなかったのだが、結果は勇者の暴走という事態を引き起こした。ただ、疑似生命体であることが原因で起きたものかどうかはわからない。あくまで二人の推測だ。


 するとそこへプレスコットとウルナがやってくる。

 部屋に入る前、凍りついた扉に苦労していたが、プレスコットが扉の隙間を埋め尽くす氷だけをうまく斬ったようだ。中に入った二人は凍りついた広間を見て、目を丸くしていたが、すぐにエリスに向かって一礼した。

 そして、やや咎めるような声でウルナが口を開く。


「ラミ? 奥様の手をわずらわせたの?」

「あ、いえ――」


 眉を寄せるウルナの問いかけに答えようとしたラミーシャだったが、それより先にエリスが答えた。


「ラミちゃんの魔眼がちょっと効き過ぎたみたいでね~。仲間割れを起こしたから止めただけよ~」

「そうでございましたか。それにしても――さすがでございますね」


 ウルナとプレスコットは広間を見渡したあと、視線を勇者たちのいる場所に向ける。

 そこには今にも手にした剣で聖女を貫こうとする勇者の姿があった。


 だが、二人は微塵も動かない。

 二人の間にはほぼ透明に近い氷壁が立ち、わずかに勇者が持つ剣先が食い込んでいる。

 勇者は剣を突き出した状態で床から伸びた氷に全身を覆われ、閉じ込められていた。また聖女も両腕を広げたまま、同じように氷の牢に囚われている。

 虫入りの琥珀こはくのように、二人は溶けることのない氷の中で時を停められていた。この状態であっても二人は生きている。

 それがエリスの使った魔法、氷獄の効果である。


「ねえ、プレスコット。勇者はイーラが対応するって、セルヴァが言ってなかった?」

「ん? ああ、確かにそう言っていた。でも、まあ、あの状態だしな」


 プレスコットは氷漬けになった勇者に目を向ける。

 するとウルナは口元に手をやりながら何か考える仕草をした。


「残るのはあと一人よね。裏庭にもいなかったし、いったいどこにいるのかしら」

「奥様に途中経過を報告したあと、私も屋敷内を探してみたが見つからなかった。あと探していないのはお嬢様のお部屋くらいか」


 ウルナとプレスコット以外の使用人たちも侵入者を見つけ出そうと躍起になっている。だが、いまだに最後の一人は見つかっていない。


「ティリアちゃんのお部屋なら、いつもの場所でイーラちゃんが見てくれているわ~」

「……あ~、でしたらお嬢様は大丈夫ですね」


 プレスコットが断言したお嬢様は大丈夫という言葉に、ラミーシャも黙ったまま、うなずいた。年齢の近い友人(イーラ)はお嬢様の専属侍女だ。彼女がお嬢様のそばにいるのなら心配することはない。


 お嬢様のそばにイーラがいると聞いて、ホッとしたあと、わずかに残念そうな顔をするウルナとプレスコット。どうやら最後のお客様の相手はできそうもないと諦めたようだ。

 だが、続けられたエリスの言葉に二人は身を乗り出す。


「そういえば~、その聖女ちゃん。勇者ちゃんのことが好きみたいよ」

「「奥様! その話詳しく!」」


 いつの時代もどこの世界も女性が好きな話題はおおよそ共通している。

 女性に限ったことではないが、やはり恋の話題は鉄板だ。

 そこに甘いものとお茶があれば、女性の話は止まらない。


「でも~、この話は招かざるお客様(侵入者)を全員捕まえてからね~」

「「「かしこまりました」」」

「あとラミちゃん~。聖女ちゃんを泣かせてしまったおわびに彼女の恋を応援するのよ~」

「おまかせください、奥様」


 ラミーシャは真剣な顔で頭を下げる。

 好きな相手から殺されそうになったことは、お嬢様を狙った罰として十分すぎるほど効果があった。

 だが、恋する乙女の気持ちを傷つけたことに変わりはない。

 彼女の心を癒し、出来る限りの協力をしようとラミーシャは誓った。

 それは男女の機微きびに通じた耳年増の得意とするところだ。

 ラミーシャはまず彼女の口の悪さを直すことにした。

 これは決定事項である。


 そんなことを考えていると、ウルナが何かを思い出したようにエリスへと話しかけた。


「奥様。先ほど巫女のヒミカ様とヨヨ様がお見えになったのでお通ししました。お嬢様を狙う侵入者が入り込んでいると聞いて駆けつけてくださったとのことです。お二人はそのままお嬢様の部屋に向かわれました」

「あらあら~。ヒミカちゃんとヨヨちゃんまで来てくれたのね~」

「……ということは、もし最後の一人がお嬢様の部屋に侵入しようとした場合――」


 ウルナの言葉にプレスコットは渋い顔をしながらウルナとラミーシャの二人と目を合わせる。そのプレスコットにラミーシャがため息まじりに答えた。


「イーラと巫女様のお二人、あと戦力と言っていいのかわかりませんがヨヨさんを合わせると三人。最後の侵入者は一人で彼女たちの相手をすることになります」

「……それって生きていられるかしら」

「巫女様がいるから大丈夫じゃないか?」

「ですが、聖女様もティリア様を妹のように可愛がっておいでです」

「……大丈夫よ~、たぶん~?」


 少しの間を開けて放たれたエリスの言葉に根拠はなかった。


 屋敷に潜む最後の侵入者は知らない。

 お嬢様大好き四天王の中でたぐまれなる才能を持ち、若くして専属侍女となった少女の実力を。


 ちなみに勇者と聖女は、エリス、ラミーシャ、ウルナ、プレスコットによる協議により、リデル(勇者)ログリア(聖女)という名前がつけられた。


 ログリアの恋は実るのか。

 それはきっと語られることのない乙女の秘密である。



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