05.魔法の薔薇
その姿も声も恐ろしくて体が震えるのに、あの蒼の瞳が忘れられない。とてもとても寂しそうな瞳。とても大きいのに、とても小さく見えたあの背中。
あなたは、何故そんなに寂しそうなの?
「あの人を名前で呼んではいけないの?」
「いいや。ただ、受け入れられないんだ。自分の醜い姿が。」
夕飯時、今朝の出来事を思い切ってランに話すと、彼は困ったような笑みを浮かべてそう言った。ランも名前を呼ぶと怒られるのだと言う。
「でもさ、呼ばないと、名前って忘れてしまうだろう?今は俺やユキが知っている。でも、俺たちがいなくなったら?誰があいつの名前を呼んでやる?」
この城には今、彼とラン、ユキとルイしかいない。この城の者以外、彼の名前を知らない。呼ばれなければ、名前は自然と消えてなくなってしまう。
「それは、とても寂しいです。」
そう呟くルイの声が本当に寂しげで、揺れる瞳にランは目を細める。そして、俯いてしまった少女の頭を優しく撫でた。
「そうだね。だから、めげずに呼んでやって欲しいんだ。あいつを、諦めないでやって。」
そうルイに願うランの笑顔は、今まで見てきた軽薄なものでも、誤魔化すようなものでもなく、ただ友の為に向けられた笑顔だった。
あの人を諦めない。具体的にどうすればいいのか。自分がでしゃばっていい場面なのか。ルイはわからないまま、自室に戻ってきた。窓際により、城の外を眺める。空には満月が浮かび、庭園を照らしている。今朝、野獣と遭遇した薔薇園も見えた。彼は、薔薇をとてもとても大切にしているように見えた。あの薔薇に、何か意味があるのだろうか。
「明日もう一度、見に行ってみようかしら。」
それから、書物が沢山置かれている部屋があると言っていた。そこにも行って、何か野獣の手がかりがないか探してみよう。
そして翌朝、ルイは朝食を終えると再び薔薇園を訪れた。綺麗な赤が沢山咲き誇っている。花を散らさぬよう、そっと花弁に触れ、違和感を覚えた。
「薔薇って、今の季節に咲くのかしら・・・?」
薔薇の多くは春に咲く。秋に咲くものもあると聞いた事はあるが、今は川でも凍る真冬。自分が知らないだけで咲く薔薇もあるのかもしれないが、今ひとつ腑に落ちない。なら何故、この薔薇は咲いている?
ルイは薔薇園の中に足を踏み入れた。昨日は、野獣に出会い、中にまでは入っていなかったのだ。踏み入れた中は、真っ赤な薔薇に囲まれ、まるで別の世界の様だった。何処かに導かれるかの様に足を進める。辿り着いたのは薔薇園の中央。そこにはガラスのケースに入れられた一際美しい薔薇があった。まるで守られるように、茨に覆われたガラスケース。その中にある薔薇の花はひらり、ひらり、と散っていく。けれど、花弁は散っているのに、薔薇自体に変化はない。
「それ以上近づくな。」
ドスの効いた声が一歩を踏み出そうとしたルイの足を止める。振り返る先には野獣がいた。「それに触れるな。」
「・・・では、見るだけなら、構いませんか?」
尋ねるルイに、野獣は少し驚いたように蒼の瞳を瞬いた。そして、訝しげに問う。
「何を企んでいる?」
「何も。ただ、美しかったから。もう少し、見ていたいと思っただけです。」
魔法を見たことはあった。二番目の姉は宮廷魔法使いだし、ルイ自身も極めはしなかったが、多少魔法の心得はあった。美しい魔法を姉は惜しみなく、沢山見せてくれた。でも、今まで見たどの魔法より、この薔薇は美しかった。
「美しい、か。」
「薔薇はお好きですか?」
「俺が好きなわけじゃない。」
尋ねれば、野獣は蒼の瞳を薔薇に向け、その獣の手のひらで薔薇に触れ答えた。
「ある人からもらった物だ。そしてその薔薇は、俺を縛る鎖だ。」
「・・・鎖?」
思わず繰り返した言葉に、野獣ははっとした様子で顔を上げた。
「忘れろ。お前には関係のない事だ。」
そう言って、野獣は身を翻し、ルイの前からいなくなってしまった。しばし野獣の去った方を呆然と見た後、ルイは再び、ガラスケースの薔薇に視線を戻した。
自分が美しいと形容した薔薇。けれど彼にとって、この薔薇は鎖なのだと言う。けれど、忌々しいとか、目障りだとか、そんな感情は含まれていなかった様に思う。わかった事は、この魔法の薔薇が彼にとってとても大切だということだけだ。
「今日もあの方にお会いしたわ。」
昼食時、お茶を注ぐランにそう告げると、彼は動作を止めないまま何処で~?といつもの芯のない声で聞いてきた。
「薔薇園で。」
瞬間、ランの纏う雰囲気が変わった。ティーポットを机に置くと、ゾッとする様な笑みを浮かべた。殺気立っている、とでもいうのだろうか。ルイは身を固めた。
「へ~。ルイ、もうあそこに行ったんだ。お目が高いね。」
「・・・ラン?」
「何か見付けた?」
「・・・・・・薔薇を見たわ。散らない薔薇。」
「あれはね、ルイ。悪い魔法使いが置いていった、呪いだよ。」
その薔薇を思い浮かべているのか、ランは忌々しい、とでも言うように表情を歪めた。いつもにこにこしているランの歪んだ表情にルイはただ震えるしかない。
「ラン、殺気立つなら食事の席を外して欲しい。ルイ様が怯えている。」
先ほどまで黙って控えていたユキがランからルイを庇うように立ち、彼を諫めた。声を掛けられ我に返ったのか、「いや、つい~。」と、罰が悪そうに目を泳がせ始めた。いつもの彼の雰囲気に戻った事にルイはほっとする。
「すみません、ラン。私、何か気に触る様な事を言ってしまったんですね。」
「ああ、違う、違う!ルイは悪くないよ。むしろ、あの薔薇を見付けてくれてありがとう」
申し訳なさそうに謝るルイにランは大げさに手を振って見せた。そしていつもの飄々とした笑みを浮かべ、ルイの頭を優しく撫でる。
「あれはね、セトのとてもとても大事な物。そして、俺とユキが消してしまいたいものだよ。」
「どうして?」
「それはまだ内緒。・・・・・・ねえ、ルイ。君は何処まで、近づけるかな?」
幼子の様に首を傾げ、純粋な瞳を自分に向けてくるルイに、ランは瞳を細めて微笑みながらその白い頬を撫でた。
「ラン?」
意味深な言葉を呟く彼の名を呼べば、頬を撫でる手が離れ、食事の続きをしよう、と話を打ち切られた。展開についていけないルイが助けを求めるようにユキを見れば、彼女は無表情のまま、頭を下げ、また元の場所へと下がっていった。
意味深な言葉ばかりを残す彼らに、ルイは小さくため息をつく。謎は、自分で解き明かせということだろう。・・・解き明かしたその先に、何が待っているのだろう。