03.契約の指輪
父を見送ったルイは大広間へと案内される。暖炉の火だけが灯る薄暗い部屋の中、野獣はソファに座り、何処かを見つめていた。いや、その青い瞳には何も映ってはいないのかもしれない。
「主。」
従者の男に名を呼ばれ、野獣はその恐ろしい顔をルイに向けた。
「特にお前に要求することは何もない。昼間は領地内を好きに散策しろ。俺の部屋以外であれば、好きな所へ入っても構わん。朝は7時、昼は12時、夜は19時に食事の時間だ。その時間にはこの大広間に来て食事をしろ。夜は決して出歩くな。以上だ。」
「はい。・・・あの、お名前を教えていただけませんか?」
「野獣に名などない。」
「セトって言うんだよ。」
陽気な声で告げたのは、ルイの隣に立っている従者だった。名乗るつもりのなかった野獣は従者に半眼を向ける。
「おい。何勝手に人の名を名乗っているんだ、お前は。」
「だって、セトがあまりにつれない事を言うものだからさ。今日からこの子も我が家の一員。仲良くしなくちゃダメだろう?」
「お前は俺のお母さんか。鬱陶しい。娘、何かあればその男に言え。あとはそうだな、側に仕えている物が必要か。・・・ユキ。」
「はい、主。」
名を呼ばれて闇の中から出ていたのは、その名にそぐわぬ、真っ白な髪を持つ少女だった。ルイと同い年か、もしくはもう少し幼いくらいだろうか。
「お前、今日からこの娘の侍女として側にいろ。」
「かしこまりました。」
「それから・・・。ほら。」
野獣は自分の首元に掛けていた指輪を引きちぎるとルイに向かって投げた。それをなんとか掌で受け止めて開く。そこにあったのは、青い宝玉が埋め込まれた銀細工の指輪。
「これは?」
「契約の証だ。指にはめて決して取るな。」
「わかりました。」
ルイは素直に頷き、それを指にはめた。不思議な事にそれはルイの指にぴったりだった。
「後は、お前の好きにしろ、ラン。俺は寝る。」
野獣は大きなあくびをひとつ零し、大広間を出て行った。
殺されるわけでも、父の様に閉じこめられる訳でもなく、緩やかな制限のみをされたルイはただただ困惑するばかりだ。
「ごめんね、素っ気ない人で。コミュニケーション障害なんだ。」
明るく笑って言うが、野獣とコミュニケーションを取る人間自体いないのではないだろうか。というか、重要性はそこなのか。突っ込みたい気持ちもあるが、果たして自分はどうすればいいのか、という問題に戻る。
「あの、私はどうすれば・・・。」
「さっきセトが言った通りだよ。食事の時間を守ること、夜は出歩かないこと。それ以外は、この領地内であれば、好きな所に行って構わないよ。」
「・・・殺さないのですか?」
「君のお父上が約束を破らない限りはね。」
そう言って目を細めて笑う従者の目は本気だ。ハウゼンが約束を反故にすれば、この男は躊躇いなく自分を殺すだろう。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。」
「え?」
「僕はラン。セトの従者をやっているんだ。そして、彼女はユキ。今日から君の侍女だよ。困った事は基本彼女に言えばいい。それか僕にね。」
「はい。ありがとうございます。」
礼を告げれば、男、ランの瞳が自分に何かを期待しているのが見てとれ、ルイは戸惑うように視線を彷徨わせ、口を開いた。
「ルイです。よろしくお願いします、ランさん、ユキさん。」
「よろしくね、ルイ。そんなに堅くならないで。すぐに殺したりなんてしないから。」
宥めるように優しく頭を撫でるランの手は温かく、自分を見る赤紫の瞳もまた優しかった。ランの言葉にこくり、と頷けば彼は益々笑みを深めた。
よく笑う人。それがランへの最初の印象だった。
「あ!あと、僕の事は呼び捨てで構わないよ。さん付けで呼ぶと、女みたいだろ?」
そう言って少し悩ましげな顔をするものだから、ルイは思わず笑ってしまった。笑顔を見せたルイにランは満足げに笑むと、だんまりをしているユキに視線を向ける。
「ユキ。ルイを部屋に案内してあげて。ルイ、今日はきっと疲れているだろうから、ゆっくりお休み。」
「ルイ様、こちらへ。」
ルイはランに頭を下げると、ユキに促されるまま歩き出す。薄暗い回廊を歩き続け、一つの部屋に通される。
「わあ。」
中に足を踏み入れると、そこは気品ある装飾が成されたベッド、ドレッサー等の調度品が備え付けられていた。
「こちらのタンスの中に一通りの衣服は揃っております。お気に召さなければ、仰って下さい。」
タンスの中にはぎっしりと様々なドレスが並んでいた。どれもなめらかな肌触りの物ばかりで、かなり高価な品である事がわかる。
あまり派手なドレスは好まなかったが、伯爵の娘として、恥ずかしくない装いをする様には心がけていたが、ここまで綺麗なドレスは見たことがなかった。
「私には、勿体ない品ばかりです。」
「ルイ様?」
どれも自分が見劣りする様なドレスばかり。自分には不相応。ああ、でも・・・。
「姉様たちが着たら、さぞ美しいでしょうね。」
淡く笑むルイの横顔は笑っているはずなのに、泣いているかのようで、ユキは首を傾げる。
「お気に召しませんでしたか?」
「いいえ。ありがとうございます。」
にこり、笑顔を浮かべれば、ユキはゆっくりと頭を下げ、明日、朝食の時間に呼びに来ることを告げると、部屋を退出して行った。
一人きりになった部屋の中で、ルイは窓の外を眺める。今夜は月がないから、星が綺麗だ。もう夜も更けた。きっとあと数時間もすれば、空がしら見始め、太陽が昇るだろう。
父はもう家に着いただろうか。
「どうか・・・。」
どうか、父が、姉たちが、自分のせいでと苦しみませんように。深い悲しみに囚われてしまいませんように。
これが悪い夢なら良い。目が覚めたら、ハナが起こしに来て、朝食の席でマリとおかずの取り合いをして、父に諫められて・・・。
もう、あの日常の中に、自分が戻る事はないのだという事実に、涙が少しだけ流れた。