18.平手打ち
ルイは目の前の変化をただ呆然と見ていた。
「セ、ト様・・・・・・?」
震える声で名を呼べば、ミコトに背を向けた男がルイに歩み寄り、そっと頬に触れたと思ったら、思い切りつねられた。
「いふぁい!いふぁい、です!」
「お前は!何で、ここにいるんだ!俺が何のために家に帰したと思っている!」
「っ!」
ビシッ!という、鋭い音が響く。
「ル、ルイ・・・?」
ルイの平手打ちがセトに見事に決まり、ランは瞳を瞬かせる。一方のリツはおー、本当にやったよ、と何やら感心している。
城に足を踏み入れる前、セトに会ったらまずどうするのか聞いたリツに、ルイは輝かんばかりの笑顔を浮かべて言ったのだ。
「平手打ちをかましてやります。」
と。まさかこの状況下で本気でやるとは思っていなかっただけに、リツはただ感心するばかりだ。
「なっ。」
平手打ちされた当の本人は、正に目が点、といった様子だ。そんな彼にルイはにっこり、と微笑んでみせる。
「何でここにいるのか、と聞かれましたよね。」
「あ、ああ。」
「今した通り、平手打ちをするためですよ。」
「は!?」
「腹が立ったので。」
「お前な・・・・・・。」
文句を言おうとした時、セトは初めて気付いた。セトを平手打ちルイのその手が震えていることに。
「・・・・・・ルイ?」
「何よりも、悲しかったから。」
ルイの空色の瞳から雨が降る。無色透明な雫はルイの頬を濡らし、流れていく。
「私、ここにいたいって言いました。セト様の傍にいたいって。なのに、目が覚めたら家にいた私の気持ちが、セト様にわかりますか?もうランにも、ユキにも会えないのかと思ったらすごく寂しくて。あなたに、もう、名前を呼んでもらえないんだって思ったら、すごくすごく、悲しくて・・・!」
そんな私の気持ちが、あなたにわかりますか。震える声で必死に言葉を紡ぐルイにセトはゆっくりと手を伸ばし、その腕の中に彼女を納めた。抵抗することなく、むしろ縋るようにセトの胸に顔を埋め、涙を流すルイの頭に頬を寄せ、彼女を抱きしめた。
「お願いです。何も言わずに、突き放さないで・・・・・・。」
「うん・・・。」
宥めるように、ルイの滑らかな亜麻色の髪を優しく梳く。
「やっぱり、その女がセトを心変わりさせたの?」
感情の込められない声が穏やかに流れていた空気を一瞬で凍らせた。セトはルイの頭を胸に押しつけ、ミコトの視線から守るようにしてから彼女の方に視線を向ける。
「じゃあ、私がその女になれば、セトは私のものになってくれる?それとも、その女を壊せばいい?」
「ミコト・・・。」
ふらり、と立ち上がった赤い魔女の瞳は、もはや何も映してはいなかった。セトの事すら、映ってはいないだろう。
ミコトの心が崩壊していく。昔は、魔女である自分に誇りを持つ、気高い女だった。けれど、人間のセトと数千年の時を生きてきた魔女であるミコト。人同士なら当たり前に出来る、一緒に年を取るという事が、2人には出来なかった。成長するセト。時の進まないミコト。ほんの些細なすれ違いが、ミコトの心を狂わせた。
「ルイを殺したって、お前がセリの皮を被ったように、ルイの皮を被ったって、俺はもう、お前を愛せない。どんなに奪い、殺しても、俺の心がお前と寄り添う事はもうないんだ。」
「どうして!?私はセトがいればいいの!セトさえいれば、こんな世界、どうなったっていい!」
狂ったように叫ぶミコトは、きっと、奪うことしか知らないのだ。壊すことしか知らないのだ。ただ欲しいものを手に入れるために、必要な手段をとっているだけ。そこに善悪はない。
きっと、あの時も・・・。
ルイは唇を噛みしめる。セトの胸を押し、彼の傍らに寄り添うように立ち、ミコトを見つめる。赤銅色の瞳がルイを映す。そして、ミコトの唇が弧を描く。
「綺麗な瞳。ねえ、私も貴方みたいな空色の瞳なら、セトは今も私の傍にいてくれたかな。」
「・・・・・・もう、持っているでしょう?」
「え?」
「空色の瞳。」
「・・・・・・あぁ。あなた、あの時のお嬢ちゃんかぁ。捨てちゃったわ。あなたのお母さんの瞳。・・・・・・ふふふ、あはははは!」
狂ったように笑い出すミコトにルイはその空色の瞳を伏せる。
「そうかぁ!お前だったんだ!母親の血を浴びて生き残った空色のお嬢ちゃん!」
「ルイ、お前・・・・・・。」
「思い出しました。どうして、私が赤に拘るのか。どうしてあの魔女を知っていると思ったのか、全部。」
自分の目を覆うように触れ、ルイは悲しそうに瞳を揺らし、口元に淡い笑みを浮かべる。
「あの魔女が、私の母を殺した日の事も。」