10.夜の帳の中で
「ルイと散歩に出掛けたんだって?」
長年野獣に仕える従者は上機嫌で主の部屋に足を踏み入れた。思惑通りに事が進んでいるのが嬉しいらしい従者に不機嫌なため息をつく。
「気まぐれだ。」
「ルイ、夕飯の席ですごく嬉しそうに話していたよ。今度は一緒に行こうねって誘ってくれた。」
「・・・・・・随分、嬉しそうだな。」
「そりゃ、可愛い笑顔でお誘いされれば、男なら悪い気はしないよね。」
この従者は最初からあの少女をかなり気に入っていた。ここ数週間の生活で更に気に入ったらしい。
「へ~、そうかい。」
「冷たいなぁ。自分だってルイに誘われたら嬉しいくせに。」
「言ってろ。」
主の冷めた反応にも気にした様子はなく、ランは鼻歌交じりに紅茶を淹れる。それを野獣に届けると、ところで、と声の調子が真剣なものに変わる。
「セトはルイをどうするつもりなの?本当にずっとこの城に閉じこめるの?」
真剣に問うランは彼女の行く末を本気で案じている様子だった。
ルイがこの城にいるのは本当に成り行きだ。何故かこの城に辿り着いてしまった父親のハウゼン伯爵に代わり、この城へ留まる事になったルイ。事実、秘密を漏らされるのは困る。だから秘密を守る人質としてルイを預かった。けれど、自分たちの事情とルイは何の関係もない。縛り付けていい道理等、ありはしないのだ。
「ずっと、というのは、あまりに非現実的だな。」
この城の秘密の為に、ルイの幸せを奪っていいわけじゃない。ルイには帰る場所もあれば、帰りを待っている家族がいる。末娘であるが故か、彼女は家族から溺愛されている。そして同じくらい、彼女も家族を愛している。家へ帰れば、然るべき相手と婚姻を結び、きっと幸せな家庭を作るのだろう。
明確な答えを出せずにいる主の姿に、ランは少なからず驚いていた。
人の姿から野獣の姿へ変えられてから長い、長い時が経った。呪いを掛けられてからのセトは人間不信になり、人を愛することをしなくなってしまった。全てを拒絶する彼は、あまりにも痛々しくて、悲しくて。このままでは壊れてしまうと、隠れるようにこの魔法の城で暮らしてきた。気心しれた自分やユキ、時折外の世界の話を持ってくるリツだけで構成された世界に野獣となったセトは満足していた。
そのセトが、ほんの数週間共に過ごした少女に情を持っている。簡単に手放すという答えが出せないぐらいに。秘密を守る為に閉じこめ続けると言えないくらいに。
「セトの中に、ルイと共に生きるという選択肢はないの?」
「ないな。だって、これ以上巻き込んだら、可哀想だろう?」
そう言って笑った主はとてもとても寂しそうで、その瞳の向こうに誰を想像しているのか容易に想像がついた。
人間として、セトが愛した最初で最後の女。そして、ランが最も憎んでいる女だ。
「ルイ様。とても嬉しそうですね。」
「うん!」
湯浴みが終わり、ユキに髪を梳かしてもらいながら、ルイは上機嫌だった。まるで特別なプレゼントをもらった幼子の様に、嬉しそうなルイの表情にユキも自然と頬が緩む。
「あ!ユキ今笑った!」
「え?」
「最近、ユキが笑ってくれる事が増えた気がするの!とっても嬉しい!」
戸惑いの声を上げたユキに気付かぬまま、ルイは振り返り、瞳を細めて微笑んだ。本当に嬉しそうに言うルイにユキは思わず、目の前の可愛い人を抱きしめたくなった。
「ルイ様は不思議な方です。」
「どうして?」
こてり、と首を傾げる少女に前を向くように言って、ユキは髪を梳かす作業を再開する。
「私は昔、この白い髪を気味悪がられて、両親にこの森に捨てられました。」
突然のユキの告白に、ルイは瞠目する。
「寒い寒い雪の日でした。死んでもいいと思いながら、心の何処かで生きたかったのでしょう。私は、必死に寒さを凌げる場所を探していました。けれど、雪深い森を進むには私はあまりに非力で、すぐに力尽きました。このまま誰に知られる事なく、雪に埋もれて死ぬのだと覚悟した時、私を抱き上げてくれる存在がありました。」
「それが、セト様?」
「はい。」
肯定したユキの瞳が嬉しそうに細められる。そこには沢山の感謝の気持ちが込められている。それと同時に、ユキがセトをどれだけ大切に思っているかも。
「主は私に名前と居場所を与えてくださいました。主は素っ気ないけれど、私に優しくしてくださいました。ランは親代わりとして、私に沢山の事を教えてくれました。」
「ユキはセト様もランも大好きなのね。」
「はい。ランに言ったら調子に乗るので絶対に言いませんが。」
「では、今の話は内緒にしましょう。」
そう言ってクスクスと笑うルイにお願いします、と言ってユキも淡い笑みを口元に浮かべる。
「だからこそ、ルイ様。私は最初、あなたが怖かった。どんな反応をされるのかと。また、暴力を振るわれるのではないかと。罵倒されるではないかと。でもあなたは、私に優しくしてくれて、微笑みかけてくれました。そして、私なんかの笑顔を嬉しいと言ってくれた。とても不思議な方です。」
「今も、私の事怖い?」
「いいえ。今はルイ様が大好きです。」
「ユキ~!」
突然立ち上がったルイはユキをぎゅうっと抱きしめた。本当に突然の事だったので、ユキは最初瞳を見開き固まっていたが、やがて、彼女の温もりに溶かされるように、そっと抱きしめ返した。
不思議な人。この人が、主の心の氷も溶かしてくれたらいい。そしてこのまま、幸せな時間が続けばいい。ユキはそう願った。
けれど、平穏の終わりはすぐそこまできている事を、この時はまだ、誰も知らなかった。