絶対に失敗してはいけないミッション
手に入れた。俺は手に入れた。中学生になってから貰うようになった小遣いを、こんな風に使ったのは産まれて初めてだ。俺は少年から一つ、大人の階段を昇ったのだ。
やけに生地の少ない下着を身に付け、発情したような表情を浮かべる女。その周りの余白を埋めるように、大小様々なゴシック体がひしめき合う。俺が手に入れた物、それは――
エロ本。
俺たちのミッションはここから始まる。
「ニシ、読んだら貸せよな」
「ああ、ヒガシ。今日はお互い、コイツでたっぷり堪能しようぜ」
ヒガシに教えてもらった煎餅屋。何故かは知らないが、ここにはエロ本が売ってあるのだ。
吟味に吟味を重ねた上に選び抜いた珠玉の一冊。決め手は表紙の女のダイナマイトボディと、その女に言わせた体の吹き出し。
「アナタの怒棒で死ぬ程かき回してッ!」
それを敢えてスケスケのナイロン袋に入れる煎餅屋のおっちゃん。
既にミッションは始まっていたのだ。ここでド素人は中身の透けるナイロン袋に頭を抱えてしまうのだが。
敵を知り、己を知れば百戦危うからず。事前に受けたヒガシの助言に従い、リュックを持参していた俺に死角はない。
逸る気持ちを抑えながら、おけ毛の生え揃わないヒガシとガッチリ握手。
「じゃあな」
出立の言葉に飾り気など要らぬ。俺はチャリかごにエロ本の入ったリュックをぶち込み、勢い良く発進する。
しばらくは片側一車線の道路を道なりにペダルを漕ぐ。程なくして、幹線道路との交差点に辿り着き、信号待ちをする事になった。
早くしろよ!
信号が青になるのを一日千秋の想いで待っていると、不意に救急車のサイレンが聞こえてきた。それは俺の眼前を猛スピードで走り抜け、ヒガシの自宅方面へと消えていった。
「まさか、ヒガシ?!」
ヒガシの奴、事故ったのか? 確かアイツが買ったエロ本のタイトルは『スキ者お姉さん』だったはず。もし、もしも。ヒガシが事故って死んでしまったら。
事故処理と実況見分を終えたサツが、ヒガシの母親にこう言うに違いない。
「お母さん、これが息子さんの遺品です」
そう言って『スキ者お姉さん』の入ったリュックを母親に手渡すのだ。その時サツの奴は、スキ者はてめえじゃねえか! と内心思っているのだ。
すすり泣きながらリュックを開け、『スキ者お姉さん』を視認した瞬間の母親の顔を想像してみろ。コレはいかん。コレはいかんぞ!
他人事ではない。俺なんて、リュックから出てくるのが、
『アナタの怒棒で死ぬ程かき回してッ!』
なのだ。
かき回す前に死ぬわけにはいかないし、何よりこんなモノが遺品として扱われてしまっては、かき回すのはお姉さんじゃなく、遺された家族の人生になってしまう。だから今だけは、絶対に死ねない。
「死ぬなよ、ヒガシ」
俺は盟友の無事を祈りながら、細心の注意を払いつつ、青信号を渡った。
エロ本を携え無事に帰還するというミッションは、心的要因に左右され、格段にその難易度を上げていた。
白線の上をはみ出さずに歩くのは、誰でもできる。だがそれが、10メートルの高さに設置された鉄骨になるとどうか。
途端に足がふらつき、ともすればそこから一歩も動けなくなってしまう。例え白線の倍の幅があったとしてもだ。
「くっ、狭いな……」
俺は今、川沿いの土手を走っている。片側は川で、もう片方は崖だ。ここは一通で、車一台分しか幅がない。
幾ら近道だからといって、何故こんな危険なルートを選んだのか。今更ながらに後悔する。
万が一川に落ちてみろ。死んでしまえば『アナタの怒棒で死ぬ程かき回してッ!』が遺品になってしまうし、悪運強く助かった場合はどうだ。
『エロ本を抱えたまま川で溺れた男』として、一生十字架を背負って生きていかねばならない。
方や崖を転がり落ちた場合はどうか。崖といっても、所詮防波堤代わりの道。なだらかな斜面を数メートル転がるにすぎない。だから死ぬ事はないだろう。草もいっぱい生えてるし。
だが問題は入院先の病室での一コマだろう。
頭からネットをかぶり、腕やなんかに包帯を巻いた状態で、
「これ、あなたのですよね? ここに置いておきますね」
などとナースに言われてしまうのだ。極めつけは、去り際の台詞。
「おだいじに。
かき回し過ぎはカラダに毒よ」
何がおだいじに、だ。こうなった時点で、大事にするものなんて何もねえよ。それに、五体満足な中学生のベッド脇に、エロ本なんて有ったらどうなるか。
ヘタすりゃ『入院中にかき回し過ぎて腰を痛めた男』として、一生十字架を背負うハメになるかもしれない。そんなのはごめんだ。
またしても細心の注意を払いながら橋を渡り、土手を下ってなんとか危険な川沿いをクリアする。
うっ……!
最狂の敵現る!
「野良犬ッ……!」
ヤバいぞ、今日に限ってコイツに出くわすとは。このなかなかにガタイの良い野良犬とは去年、訳も分からず追いかけ回されて以来の因縁だ。
話が通じないというのがまた厄介。刺激しないように脇を通り抜けるしかないのだが、果たして上手くいくだろうか。
うわあ、凶悪そうな顔……。
万が一コイツ、ノーランドが猛り狂って襲いかかってきたらどうなる?
まずタックルでチャリを破壊して、俺の足を奪おうとするに違いない。もんどりうって倒れる俺。すかさず歯牙にかけようとするノーランドの飛びかかりに、俺はとっさにリュックを盾にする。
しばらくは保っていたリュックの盾は、やがてバリバリに引き裂かれ、『アナタの怒棒で死ぬ程かき回してッ!』が姿を現す。
それを見たノーランドが挑発してくる。
『ほう、面白い。貴様の怒棒とやらを抜くがいい』
俺に犬語など分かるハズはないのだが、何故かこの時だけはバウリンガルもびっくりのネイティブな翻訳ができてしまう。
怒棒を抜けだと? ムチャを言うな。俺の伝家の宝刀【クサ薙の剣】は、野良犬などに向けるモノでは断じてない。それにこんな緊迫した場面でフルパワーの怒棒をギラつかせるなど、流石の俺でも無理だ。
やはりここはひとつ、出来る限り距離をとって脇を通り抜けるしかあるまい。
野良犬に向かい、満面のぎこちない笑顔を作る俺。完全に目が合ってしまっている。逸らせば敗北、思い切り噛みつかれ、怒棒を振りかざす気力も失われてしまう。
それはダメだ。俺は今日、何が何でもお姉さんの要望に応えるんだ。
チャリに乗ったまま漕ぐのをやめ、静かに滑走する。チェーンのチキチキという音が耳障りだが、それは流石にどうしようもない。
とうせんぼするように立ちはだかる野良犬ノーランドの隣を、静かに、すり……抜ける!
ガワワワウッ!
「うわあああああ!」
恐怖におののいた情けない声を上げながら、しかし健脚は光の速さでペダルを漕ぐ。
立ち漕ぎだぁ~!
わき目も振らずにひたすら漕いだ。最早家まで止まる事はない。真っ直ぐ行って、右! 真っ直ぐ行って、右!
うおおお、見たかノーランド、この俺の、エロが絡んだ時の実力を! これが県内屈指の火事場のエロヂカラだ。
そして遂に。辿り着いた。ここがミッションの目的地。俺んちだ。
「やっ、やった……」
疲労困ぱいのカラダをねぎらうかのような、深く、深い深呼吸をひとつ。チャリを庭に停め、リュックを肩に背負う。三段のステップを上がり、取っ手に手をかけようとした時。中から思い切りドアが開け放たれた。
「クラァ! てめー、イカ臭い手であたしのリュックを勝手に触んなよ!」
「ね、姉ちゃぐはぁっ……!」
後ずさりした俺の太ももに飛び乗り、姉ちゃんのもう片方の膝が、俺の顎骨を砕かんばかりに炸裂する。
「シャ……シャイニングウィザ……」
もんどりうって倒れる俺。肩からリュックが抜き取られる。
「チッ、何入れてやがんだ」
そう言いながらチャックを開ける姉ちゃん。
「うわああああああああ!」
奇声を発しながら姉に飛びかかる。ここが! ここが俺の、デッドライン!
「ちょ、ちょっと何よ、離しなさいよこのクソガキ!」
「うわああああ姉ちゃん姉ちゃあん!」
玄関で組んず解れつの力比べを展開する。傍目に見れば姉に牙を剥く弟の姿は奇異に映るだろうが、そんな事を気にしている時と場合じゃない。
負ける訳には、負ける訳にはいかないんだあ!
と、その時。チャックの開いたリュックから中身が落下した。
み、見られて、なるものかあ!
「う、うわあああえああああ!」
姉ちゃんを思い切り抱き寄せ、そのまま押し倒す。俺たち姉弟の後方、足下に落ちるエロ本。
『アナタの怒棒で死ぬ程かき回してッ!』なお姉さん! 俺はッ、あなたをッ、死守するッ!
「ちょっ、い……いやっ!」
姉ちゃんの両腕を抑えつけ、身体の自由を奪ってやった。姉ちゃんが、姉ちゃんが悪いんだ! 俺をここまで追い込んだ姉ちゃんがッ!
「ぐすっ……な、なによ、なに必死になってんのよぅ」
気が付けば姉ちゃんは目に涙を浮かべていた。
「あ……ご、ごめん姉ちゃん。でも俺エエェッ」
力を緩めた瞬間、思い切り股間を蹴り上げられた。下腹部を抑え、うずくまる俺。
「さっさとどきなさいよ、このイカ野郎」
くっ、こんなしたたかな姉ちゃんを何時までも相手していては、こちらの身が保たない。
姉の死角になっている、足下のエロ本を素早く拾い上げ、腹に差し込んで隠す。そして下腹部を抑える振りをしながら立ち上がり、家の中に駆け込んだ。
靴を脱ぎ捨て、階段を上がり、自室に転がり込む。
「やっ、やった……ミッション・コンプリート」
ドアの前に崩れ落ち、突っ伏する。ここまでくれば、もう安心。
「少し、疲れたな……」
俺はそのまま、安住の地、自室で気を失った。
二時間後。俺はというと。シングルベッドで下半身を露わにしていた。
『アナタの怒棒で死ぬ程かき回してッ!』
その通りかき回してくれるわあッ、勿論妄想の世界でな!
うお、うおおっ、うおおおっ……
こ、これは?! き、気持ちいい~、ち、ちにゃ
「タケシ~起きてるの?」
突然ドアが開き、現れたのは母ちゃんだった。
「え~う、うん」
とっさに寝ぼけまなこの振りをして母ちゃんの強襲をやり過ごす。
「ご飯、出来たわよ」
「う、うん、今イク」
ドアが閉められ、部屋に静寂が戻った。
くッ……ちくしょう……。
俺は、十字架を背負ってしまった。
母ちゃんの顔を見ながら果てた男、マ●ーフ●●カーの十字架を。
汚してしまった掛け布団を泣く泣くティッシュで拭きながら、ふと思う。
「ヒガシ、お前はツメを誤るなよ」