1-8
眼下で蹲った男が泣いている。
整った綺麗な顔は何の感情も映していないのに、その瞳からは涙が流れ続ける様は異様だった。
そしてその顔はやはりひどく鮮明に見える。
出会った時から不思議だった。
なぜこの男の顔はこうもはっきりと自身の眼にうつるのか。
ついながれる透明な雫に手を伸ばしかけるとその途中で男の右手に掴まれる。
一瞬の沈黙が流れる。
男は掴んだ雲の手を見つめたまま視線を上げない。
掴まれた手がグッと強く握り込まれる。
驚いて目を見開いた時、緋色の瞳と視線がかち合う。
そしてその口は
「―――――。」
はっきりと言葉を口にした。
――ドンドンドン
激しく戸を叩く音で目が覚めた。
慌てて体を起こすと家の中にはすでに岑はいなかった。
(また、この夢か)
覚醒し切らない意識の隅で、先ほどの夢の中の情景がもやのように残っている。
ーー睿伯遥。
この峪安郡の太守である男に正体を見破られてから一月が過ぎた。
そして、その間あの衝撃的な一幕は雲の夢の中で何度も再生された。
宗斐の涙を頭の中から消し去りたくてこめかみを強く押していると、また戸が強く叩かれる。
飽きもせずほとんど毎日よくやってくるものだなと思いながら戸越しに外に向かって「ちょっと待ってて」と声をかけると女物の衣に袖を通す。
蒼土を出てから半年は経ち、性の異なる出たちをすることに対する抵抗感はもう完全になくなっていた。
こちらが急いで支度してやる理由もないのでのろのろと衣を纏い、ついでに部屋の隅にある瓶から水を掬い三口ほど飲む。
そうしてからようやく扉を開けると少し視線の低い位置に少年が立っていた。
その手には彼を助けるときに雲が使ったのと同じような子供用の弓が握られている。
雲が助けた少年――隆は数日後いつもは雲をいじめていたあの整備のされていない坂道で雲を待っていた。
その姿を見つけるなり急いで駆け寄ってきて深々と頭を下げた。
あまりの勢いに雲が呆気に取られる中、隆はそれまでの自分の行いを謝った。
そして、それ以降親の目を盗んでは蒼土区域にある雲の家を訪ね、弓を教えてくれとせがむのだ。
今日のように朝方にやってくる日もあれば昼間にやってくる日もあり、時には外出した雲を家の前で待っている時もある。
せめて時間は統一して欲しいというのが本音だった。
雲は隆の手の中にある弓をじーと見つめる。
正直あの森の中での一件があった直後は弓を見たくはなかった。
なぜならその弓が宗斐に雲の正体を掴ませる決定打になったようだからだ。
宗斐はあの日、雲に弓を引くように頼んだ。
それは確かに雲太子を「よく知る人」にとっては、彼を判別するのに分かりやすい方法だ。
雲は射術が上手い。
おそらく蒼土の誰よりも上手かった。
しかし、それを知っていたのは数えても片手で事足りるほど少数の「よく知る人」だけだ。
なのにおそらく宗斐は隆を助けるときに雲が矢を放ったたった一回でその正体を確信した。
どうして分かったのかと思考を巡らせていると黙ったままの雲に痺れを切らし隆が「姉ちゃん〜!」と袖を引っ張ってきた。
「分かった。分かったから、もう静かにして」
雲自身は手ぶらのまま隆とともに廟の裏手まで行く。
この辺りはほとんど人が通らず、木を的に練習できるのでちょうどいい。
数日練習に付き合って分かったが、この少年にはおそらく弓の才能はない。
何度教えてもあまり進歩が見られないが、本人はそのことをさして気にしていないようで、形ばかりに雲が構え方や力の入れ方などを教えてやると満足するようで適当に矢を放っては楽しそうに遊んでいる。
こうして半分練習、半分おしゃべりを隆としてやるのがすっかり雲の日課になってきていた。
陽が真上を通り過ぎようとしている頃になってようやく二人は地面に散らばる矢を拾い集め帰り支度をし始めた。
「そういえば姉ちゃん。
あの背の高い兄ちゃんは一体誰なの?」
隆は何気ない風を装って聞いたが、矢を拾う動作が不自然に固かった。
「背の高い兄ちゃん…岑?」
「そっちの兄ちゃんじゃないよ。岑って人は姉ちゃんの兄ちゃんでしょ?
あの、妙に胡散臭い兄ちゃん!」
「妙に胡散臭い?」
随分ないいようだが、胡散臭い男なんていただろうか。
雲が考え込んでいると隆がなぜか怒ったように「あの赤い目の人!」と言った。
「あー、宗斐さんのこと」
宗斐は確かに謎めいているが基本人当たりがいいため、まさかかなり年下の少年に胡散臭いと思われてるとは思わなかった。
(無意識に候補から外していたが、なるほど。胡散臭いか。)
どうも隆は宗斐のことがあまり好きではないようだ。
「でも、君あの人に私の家を教えてなかった?」
ふと思い出して問うと隆はスーと視線を逸らした。
「だって、あの人姚姉ちゃんと仲良いし。
姉ちゃんがお菓子くれたから」
「お菓子に釣られたの?
やっぱりまだ子供だね〜」
呆れたように揶揄うと隆は恥ずかしそうに顔を赤くしたがすぐに怒りをあらわに講義の声を上げた。




