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1ー7


 去る姿に違和感を覚えたあの朝から、一週間後の昼過ぎ。

芙の家を宗斐が訪ねてきた。


「家を教えた覚えはありませんが」


「それは……隆が教えてくれた」


「……そちらにこそ教えていませんが」


 宗斐は罰が悪そうに視線を逸らす。


「そんなことより、今日は用があって来たんだ。

少し付き合ってくれないか?」


 そう言って笑う様子に、不自然なところはない。

あの朝の違和感は、どこにも見えなかった。


 宗斐に連れられ、森の入口まで来る。

芙にとって森は元より好ましい場所ではない。

加えて、良い記憶もない。

立ち止まる芙を振り返り、宗斐が苦笑する。


「そんなに嫌そうにしないでくれ。

今は昼だし、長居もしない」


 先に進む背を追う。

葉の隙間からこぼれる陽光が地を照らし、

小動物の気配と鳥の囀りが森を満たしている。

夜とはまるで別の場所のようだった。


「私が太守だと、いつから気づいていた?」


「二度目に会った時です。

あのとき、市を通らず来た道を戻られたので」


 宗斐は目を細める。


「なるほど。あの道は確かに遠回りだが、唯一郡府へ行くなら近道だ。

それだけで確信できたのか?」


「……不自然な点が多かったので」


 遠慮のない物言いに、宗斐は声を上げて笑った。


「手厳しいな」


 少し間を置き、ふと問いかける。


「私が皇帝の子だということも?」


「はい。辰京の郡守の多くは皇族かその姻戚と聞いています。

太守のお名前は――睿伯遥(えい・はくよう)様、ですよね」


「そうだ。睿という姓は“紛い物”だがな」


 辰京皇帝は広い後宮を持つ。

だが皇后以外の子に与えられる価値は薄い。

多くは郡守などの役目を与えられ、宮廷を離される。

本来の姓「宣」を名乗ることも許されず、代わりの姓を与えられるのだ。


「ひどい仕組みだろう。

家を追われ、姓も取り上げられる」


 辛辣な言葉とは裏腹に、宗斐の口調はどこか他人事のようだった。


「宗斐という名は偽名ではない。

本名だ。ただ……私は“緋”の字を賜らなかった」


 空中に「緋」と書く仕草をする。


 辰京の国色は赤。

皇子たちは皆、緋・朱・紅など赤にまつわる字を名に持つ。

しかし、それは皇帝から賜らなければ付けられない名であり、母妃の身分の低さや後ろ盾の有無、そして皇帝に忘れられてしまえば名をもらえなかった。


「父は私に名を与えなかった。

だから母は“斐”を選んだ」


 宗斐は笑う。


「悔しかったんだろうな」


 滝の音が、近づいてくる。


「君は以前、私に“人を嫌ったことがないのか”と聞いたな」


 芙は黙って聞く。


「あの時も言ったが、私は嫌ってばかりだ。

赤を名乗る兄弟たちも、私を忘れた父も全員嫌いで妬ましくてたまらない」


 森の奥、誰もいない場所。

それでも皇帝に対してあまりにもあけすけすぎる物言いだ。


「君は、自分をいじめた子を救った。

だが私は……」


 わずかに声が震える。


「私は、あの子に何かあっても仕方がないと……どこかで思っていた」


 芙は顔を上げる。

視線が交わる。

緋色の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。

そして宗斐は、くしゃりと笑う。


「言っただろう?

私は出来のいい人間じゃない」


 痛々しい笑みに、芙が何か言おうとした、その時。

宗斐は不意にしゃがみ込み、落ち葉の中から何かを拾い上げた。


 それは、数日前に芙が狼を射抜いた、小さな弓だった。


 芙の背筋を冷たいものが走る。

宗斐はそれを両手で持ち、まるで壊れ物を扱うように差し出した。


「――射ってくれないか」


 口調はどこまでも穏やかだった。

しかし、芙は確信した。

――もう、この男は知っているのだ

と。


「今、ここで」


 芙は弓を見つめたまま、動かない。

左手がわずかに震えた。

宗斐がその手を取り、そっと弓を握らせようとする。

反射的に、芙は手を引いた。

しかし次の瞬間、宗斐の指が手首を捉える。

力は強くないが逃れられない。


「……失礼する」


 宗斐の手が、芙の着物の合わせを掴む。

開かれた衣の奥に白い肌が覗く。

しかし、そこに女の丸みはない。

露わになったのは、骨ばった胸と、くっきりと浮いた鎖骨。

芙は目を伏せた。

もはや抗う意味を見出せなかった。

宗斐はしばらく何も言わず、その顔を見つめる。

その造形を確かめるように。


「……蒼土太子…(ゆん)太子」


 宗斐はその名を一音一音噛み締めるように口にした。

胸元を掴んでいた指から力が抜け、そのままずるりと地に膝をつく。

大きく息をし衣を直した芙――否、雲が見たのは、

無表情の顔と、緋色の瞳からとめどなく零れ落ちる、場違いなほど透明な涙だった。





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