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「そういえば……君たちの文化では、これを恐れるのだったな?」
そう言って、宗斐は葉を繁らせた大きな木の幹に触れた。
「はい。蒼土は岩山に街を築きます。樹木は身近な存在ではありません。
一、二本なら恵みの象徴ですが……これほど密集していると、恐ろしく感じるのです」
答えながらも、芙は木に触れようとはしない。
蒼土に木がないわけではない。
芙も幼い頃、枝に登って遊んだことはある。
だが目の前の森のように、緑に覆われた世界は馴染みがない。
その未知の暗さに、本能的な恐怖を覚える。
「反対に、水は最も神聖なものです。
春の雪解け水は、蒼土の民にとって最大の恵みですから」
廟から出る人々の波が収まるまで、二人はときおり互いの文化について語り合った。
そろそろいいだろうと帰路に足を向けた、その時。
森の奥から、ざわりと音がした。
芙は凍りつく。
暗闇の木々の中から、何かが近づいてくる。
宗斐は警戒し、胸元から短刀を抜き、獣に備える。
だが次第に、その音の正体に気づく。
――子どもだ。
「「「ぎゃああああああ!!」」」
叫びながら、三人の少年が森から飛び出してきた。
全身に葉をくっつけ、枝で引っ掻いたらしい傷もいくつかある。
宗斐の姿を認めると、彼らは人に出会えた安堵で一斉にまくしたてた。
「兄ちゃん!怖かったよー!」
「助けて、助けて!」
「食べられちゃうかと思った!」
宗斐は宥めながら何があったのか尋ねる。
すると少年たちは、はっと顔色を変えた。
「大変なんだ! 隆がまだ中にいる!」
「あいつ、俺たちを逃がそうとして一人で引きつけて……!」
一番細身の少年が慌てて話す。
だがふと横に立つ芙を見た瞬間、一斉に青ざめる。
「「「烏女だーー!!」」」
叫ぶと同時に、手にしていた武器を落とし、三人は走り去っていった。
芙は一瞬きょとんとする。
だがすぐに我に返る。
少年の一人が落とした弓矢を拾い、迷いなく森へ向き直る。
その肩を、宗斐が掴んだ。
「待て! 君は助けに行くのか?」
「ええ。当然でしょう」
「君にあんなことをした相手のために、君は危険に身を晒すのか!」
芙は宗斐を睨む。
「では、あなたは助けないのですか?」
一瞬の沈黙が満ちる。
「太守でしょう」
宗斐は言葉を失う。
その隙に、芙は森へ駆け出した。
すぐに宗斐も後を追う。
夜目の利く芙は、迷うことなく木々の間を駆け抜ける。
宗斐は置いていかれないよう、その背を必死で追った。
「こっちで合っているのか?!」
「護符が貼ってあります。蒼土の民が、木々を恐れて貼ったのでしょう」
言われて周囲を見れば、確かに一定間隔で、異国の文字が記された白い紙が木に貼られている。
宗斐は先ほどの会話を思い出した。
「この先に水があるのか!」
後ろから叫ぶと、芙は走りながら淡々と答える。
「ええ。彼らはそこに祠を作ったのでしょう」
(なるほど……あの少年なら、それを壊すために森へ入る)
宗斐は納得し、それ以上は口を閉じて芙の後ろを追うことに専念した。
やがて奥へ進むにつれ、水の落ちる音が聞こえてくる。
「滝か……」
呟いた瞬間、芙が急に立ち止まった。
そしてその場にしゃがみ込む。
そこには少年が一人、蹲っていた。
脛から血を流し、うめき声を上げていたが、助けが来たと分かった途端、大声で泣き出した。
だが――頭目の少年ではない。
「もう一人はどこにいるの?!」
芙はためらいなく自分の袖を裂き、傷口に巻きつけながら問う。
少年は震える指で、さらに森の奥を示した。
「宗斐さん、彼の手当てをお願いします」
「おい、待て! 一人じゃ――」
言い終わらないうちに、芙は弓を手に取り走り出していた。
水音を頼りに進む。
その時、
「ウォォォーン」
と獣の遠吠えが聞こえた。
視界の先に、隆の姿があった。
そしてその目前には、牙を剥いた狼がいる。
「やめろ! 来るな!」
短剣を突きつけながら後退るが、恐怖で腰が抜けている。
次の瞬間、狼が地を蹴った。
芙は迷いなく弓に矢を番える。
子ども用の簡素な弓は飛距離は心許なく距離はぎりぎりだ。
しかし芙の右手は揺るがない。
弦を限界まで引き絞る。
放たれた矢は一直線に飛び、狼の頭部を正確に射抜いた。
少年の足元一歩手前で、狼は地に伏した。
呆然とする隆のもとへ、芙は駆け寄った。
目が合った瞬間乾いた音が森に響く。
「っ痛ぇ! 何すんだ!!」
頬を叩かれたと理解し、抗議の声を上げる。
だが、芙の目を見た瞬間、言葉を失った。
「自分が何をしたか分かっている!?
くだらない悪戯の延長で、命を落としかけたんだ!」
感情を露わにする芙の姿を、隆は初めて見た。
何をしても無反応だった「烏女」が、怒鳴っている。
頬が、いつまでも熱く痛む。
「君は私たちに何をされたの?
何をされたら、ここまでしようと思うの!」
「……何も、されてない。」
少年は絞り出すような声で答える。
「……ごめんなさい。」
沈黙が落ちる。
芙は荒い息を整え、肩の力を抜いた。
そしてしゃがみ込み、真正面から少年の瞳を覗く。
隆は視線を逸らすに逸らせず顔がじわじわと赤くなっていった。
次の瞬間彼の身体は芙の腕の中に引き寄せられていた。
「次からはね。理解してから、それでも必要なら嫌がらせしなさい。」
背中を強く一度叩き、もう一度、今度は軽く叩く。
芙は立ち上がった。
隆は顔を赤くしたり青くしたりしながら、
握った手を開いては閉じ、ただその場に立ち尽くしていた。




