プロローグ〈蒼土の太子〉
蒼土国の王宮は山嶺の岩肌に沿うよう造られている。
僅かな草木しか生えない岩山の中に百程の殿舎が連なる様子は壮麗だ。
半日ほどかけて麓に降りれば木々は紅く色づく季節だが、王宮内の木々はすべてその葉を茶褐色に朽ちさせ散らしていた。
銀色の岩肌と黒檀の柱に囲われた世界は冷たく、白く色づく吐息がより鮮明に映る。
見た目など気にせず幾重にも衣を重ねた少女は重厚な建物の間を縫うように走っていた。
その最中数名の男の声に足を止め柱の影に隠れる。
「瑛皇子が碧嶺十二律(蒼土の上流階級が学ぶ剣術)の基本型を全部覚えられたらしいぞ」
「なんと!まだ7歳でいらっしゃるのに。」
「それだけじゃない。
陛下は皇師(王族の家庭教師)に蒼環(蒼土国の正史)の講義を始めるように命じたらしい。」
「ほーやはり第四皇子が聡明でいらっしゃるというのは本当らしいな。
……太子殿下なんて7つの時にようやく皇師の付き添いなしで陛下に拝謁出来るようなったというのに」
男たちの話題は優秀と誉めそやされる第四皇子・蘇乂瑛とそれと比較し皇太子・蘇乂雲を嘲笑うものだった。
この宮殿ではよく聞こえてくるなんてことない日常の噂話だ。
「雲太子なんていまだに基本型を覚えているかも分かったものじゃない。」
「どちらにせよ太子は滅多に姿を現さないから確かめようもない。
毎日毎日姫君とひな遊びでもしているのだろう。」
男たちはそこまで話すとこれ以上話してもどうしようもないと言いたげにため息をつき、山から吹く寒気に身を震わせた。
少女は帯飾りにしている小さな鈴を掌で包み込む。
兄がくれた大事な鈴だが、それが鳴って彼らに見つかっては面倒だ。
彼らの視界に入らないように慎重に枯れた樹木の間を通って目的の場所へと急ぐ。
いつも通りの時間にいかなければ優しい兄は少女の身に何かあったのではと心配するだろう。
そしてこの寒空の下ろくに厚着もせずに扉の前で佇むに違いない。
(私の大事なお兄様。凍えないように私が守ってあげなければ)
耳障りの悪い噂話のせいで大好きな兄に寒い思いをさせるのは嫌だった。
乳母に知られたら叱責を受けるだろうが少し危険な近道を使いどうにか宮殿奥にある太子殿に着く。
少女の住まう西の殿から太子殿には政聴殿(王が臣下の上奏を聞く場)と皇后殿の前を通ってぐるりと回ってこなければならずそれなりに距離がある。
沢山の殿舎が並ぶ太子殿の中を勝手知ったる動きで迷うことなく奥に進む。
小ぶりな庵の前まで進むとやはりそこには1人の少年が立っていた。
単に厚手の衣を重ねただけの薄着で冷気に体を縮こませている。
けぶるような睫毛の下の瞳を悩ましげに伏せていたが、少女に気づくと顔をほころばせ手を振る。
そのたおやかな様子に少女は慌てて近寄ると少年の手を取った。
「兄様いつから立ってたの?
こんなに冷え切って!」
少女はそう言い少年の傷ひとつない滑らかな手を自身の頬に当てた。
少女のわずかに残った体温が少年の掌に移る。
少年は困ったように笑ったのち、
「君の手こそ冷たいよ。」
と一つ下の妹の叱責に気を悪くすることなく優しく笑った。
その姿は男の服を着ていなければ少女と見間違うほど可憐で美しい。
彼は皆が頼りないと嗤う蒼土国の第一王位継承者である。
まるで幼い日に父がくれた異国の玻璃の簪のように。
透き通って美しく清らかな――少女にとって、世界でただ一つの宝物だった。
初投稿で拙い文ですが、楽しんでいただけると嬉しいです。




