#1
深夜二時の霧雨。
コートを羽織り、音を殺して部屋を出る。
都築は家の敷地を出て、フードを目深にかぶった。
ブレスレットとカフスをつけ、鬱陶しい髪を後ろに流す。
大丈夫。少し見に行くだけだ。
民家もない農道を進み、裏山へ入る。あまりの暗さに立ちくらみがしそうになったが、ライト付きの防犯ブザーを口にくわえ、スマホのライトも点灯させた。
この辺りで熊が出たことはない。どちらかというと、不安なのは猪や蛇だ。周囲の音に耳をそばたてながら、記憶を頼りに木の枝を掻き分ける。
明日まで待てないのは、雨は今夜だけだからだ。晴れの日に訪れても、今の自分では何も感じ取れずに終わってしまうと思う。
それなら今夜のうちにひとりで見に行きたい。
「さむ……っ」
雨の山中は真冬のようだ。手がかじかみ、スマホを持つのも辛くなってきた。
けど、子どもの頃訪れた石灯籠の道が見えた為、意を決して歩みを進めた。
村のことは、思い出せなければそれでもいい。両親や村人達のことも、何とも思ってない。強いて言うなら、最後に母を悲しませたことが申し訳なかった。
俺が思い出したいのは、自分の最期だ。
景さんに約束して別れたことだけ憶えている。
迎えに行く、と彼に告げた。
その理由が分からない。どうして、最期に彼と離れる必要があったのか。
辛いことを思い出させてしまうから、景さんに訊かず、自力で記憶を取り戻したい。
緩やかな坂を上り、白い息をはいた。
雨の音で掻き消されそうだが、かすかに一定の水音が聞こえる。
そういえばここにも沢があったな。
水源はもっと上。滝はなくなってしまったが、動物達が生きてく為の水が流れている。
「……よし!」
両の頬を叩き、気を引き締めて段差を上っていった。スニーカーは泥だらけで、中も水が入って、足が重たくなった。
でも、確かに近付いている。体温が下がれば下がるほど、施錠していた記憶の箱が開かれていく。
ようやく見つけた石碑は、ライトで照らしたものの苔むしており、何が書いてあるのか全く分からなかった。
ただ、真横の祠を見て確信する。中にはとても小さいが、龍を模した石像が置かれていた。
「主様……」
やって来た。と言うよりは、戻ってきた。
灯台もと暗し、独りでは絶対に気付けなかったこと。左耳のカフスに触れ、その場に屈み込む。
地面にそっと触れると、かつての笑い声が聞こえてきた。
その声を追いかけようとした時、持っていたスマホが震えた。
「あっ! まずい……」
着信だ。こんな夜中に誰から……と思ったら、相手は景さんだった。
出ないと心配させてしまうから、迷ったものの通話マークをスライドする。
「もしもし」
『都築! 今どこにいる?』
景さんの声は、いつになく緊迫している。慌ててスマホを耳に当てて、宥めるように笑った。
「すみません、眠れなくて……ちょっとコンビニにきてます。すぐ帰るので寝ててくださ」
『さっき言ってた祠にいるんだろ』
言葉を遮り、景さんの鋭い声が胸に突き刺さった。驚き、誤魔化す考えすら吹き飛んでしまう。
『反応し合ってるのか、耳鳴りがすごくて目が覚めた。今すぐ行くから、スマホの位置情報共有しろ』
「だ、大丈夫ですよ。本当に、すぐ帰ります」
『都築。……俺は今、初めてお前に怒りが沸いてるんだ』
ひえっ。
初めて怒らせてしまったようだ。
というか、今まで怒らせてなかったことが驚きなんだけど……慌ててスマホを操作し、彼に位置情報を送った。
『よし。迎えに行くから、絶対そこから動くなよ』
「景さん……俺、景さんとこれからも笑って過ごす為に、全部思い出したくて」
雑音が混じり始める。どうやら、彼は走りながら電話してるようだ。
「景さんに昔のことを訊くの……どうしても、申し訳なくて」
『大丈夫だ。何でも教える。だから独りで突っ走るな!』
……あぁ。
どうしてこの人は、こんなにも俺を容易く救ってくれるんだろう。
誰より強くて、頼り甲斐があって、優しい。……昔と同じ。
「ごめんなさい……っ」
両膝をつき、命乞いするように前に屈む。そのとき、何故か通話が切れてしまった。
画面を見ると、さっきまで何ともなかったのに、電源が落ちていた。
おかしい。まだ充電はあったはずだけど。
ぬれた頬を手でぬぐい、立ち上がる。ひとまず居場所は送ったし、景さんが無事に来られたら合流できるだろう。迎えにこさせてしまって、結果的に迷惑をかけた。
申し訳ないけど……俺は少しずつ、昔のことを思い出していた。
─────俺と同じく、滝に身を投げようとした少年のことを。
その少年は、とても綺麗だった。
崖の上から腕を掴み、やっとのことで引き上げた。彼は逃げられないよう手足を縄で縛られ、全身傷だらけだった。俺よりも痛めつけられた状態で放り出されて。そのボロボロな姿に、胸が引き裂かれそうになった。
自作の薬を塗って、一日看病して、ようやく彼は口を開いた。
「……もしかして、去年龍神の生贄にされた」
「あぁ。でも残念ながら生きてるよ」
水につけた布をしぼり、彼の地で汚れた額を拭いてやる。
「龍神様も、あんな村の為に雨は降らさないって怒ってる。でもそのせいで、今年は君が生贄に選ばれた。ごめんな」
「何でアンタが謝んだよ。自分だって、村から見放されたのに」
「ん~。……何でかね」
困ったように笑うと、彼も眉を下げて首を傾げた。
俺は作っておいた粥を用意して、彼にひとくち差し出した。
「とにかく、もう大丈夫だよ。君さえ良ければ、ここで一緒に暮らそう」
龍神様がいるから安心だし、と言うと、彼は引き攣った笑顔でお粥を口にした。
「……本当に龍神がいるの?」
「いるよ。ほら、祠も作ったんだ。安っぽいって怒られたけど」
洞窟の奥に建てた祠を指し示すと、彼はようやく笑った。
「ほんとだ。安っぽい」
「失礼」
「ごめんごめん。……未完成みたいだから、手伝おうか?」
少年は、黒曜石のような光をたたえた髪を掻き分ける。
前髪を振り払うと、とても綺麗な瞳が俺を映していた。
「まぁ、一人よりは二人の方が良いもんに仕上がりそうだよな。よし、手伝ってくれ」
「分かった。ところで、名前は?」
彼は正座し、こちらに手を差し出した。
「俺は成尋。よろしく」
俺も微笑み、傷だらけの手を取る。滝に隠れた洞窟の中で、大切なひとを手に入れた瞬間だった。
「明永。こちらこそよろしく!」
龍神様と過ごして二年目の秋。俺の前に、傷ついた少年が現れた。
裏切られた者同士ではあるけど、若いせいか悲観的にもならず、主様の為に祠を作り直した。小川に行って魚を捕ったり、木の実を食べたり、自給自足ながら毎日楽しかった。
ひとりじゃない。話せて、触れられる存在が傍にいることがこんなにも幸せだなんて。一年前はやはり想像もできなかった。
成尋は俺と違い、村の上役の息子だった。それなのにどうして生贄に選ばれたのか訊ねると、彼は妾の子なのだと話した。
「厄介払いができたって喜んでた」
「何それ。腹立つな」
「うん。でもそれまでは普通に良くしてくれてたから……恨んではいないよ」
どうでもいい、と零して彼は寝転がった。
夜、秋の名月を見上げ、虫の声に耳を傾ける。
「今もこうして生きてるし。……お前に会えたし」
「…………!」
その言葉を聞いた瞬間。
怒りとか理不尽とか、寒さや悲しさが消し飛んだ。
あるのは、ただただ愛しさ。
俺も大概、単純だ。横になっている彼の隣へいそいそと移動し、横になった。
「俺も~♪ お前がいればいい。……他には何も要らないよ」
そう言うと、成尋はわずかに目を見開き、俺の頬を撫でた。
「じゃあ、ずっと一緒にいるか」




