#4
三時間程走り、辿り着いたのはエメラルドグリーンが美しいと有名な大池だ。駐車場からはだいぶ離れており、スニーカーでも危うい段差がいくつかあった。
「景さん、信州そば、とひとくちに言っても実は十種類以上ありまして。戸隠そば、小諸そば、行者そば、安曇野そば、それから」
「都築」
「赤そば……すみません」
都築は軽く咳払いする。湖の畔に屈み、水面を覗き込んだ。雨のせいで、池はエメラルドグリーンというより限りなくグレーだった。
自然の匂いと静謐な空気感は落ち着くが、何の気配も感じない。
「俺は何も感じません……景さんは?」
振り返ると、彼は腕を組んでかぶりを振った。
この地域は元々雨が少ない。しかし、今は小雨が降っている。
天気は自分達に味方してくれたが、収穫はなかった。都築は冷たい風を吸い、深く息をつく。
「冷えますね。……戻りましょうか」
顔を見合せ、やわい土を踏んで車へ戻った。
「そういえばここは大蛇の伝説があるんでしたっけ。主様も小さかったら蛇みたいだったのかなぁ~。可愛い」
「可愛いか……?」
景さんは蛇が苦手らしく、青い顔で自分の腕をさすっていた。基本長いものがあまり好きじゃないと言う。龍に仕えていたのに不思議だ。
「はてさて」
この辺のことは知り尽くしているが、一応タブレットでめぼしい場所を検索する。
「山深いところの湖とか、山頂の大池とか。神聖な場所はたくさんあるんですけど、基本マイカー規制されてるんでバスかタクシーの移動になります。まぁまぁ真面目なトレッキングになりますし、靴も変えた方が良いかも」
あと熊が出ます、と言うと景さんは「やめる」と即答した。
「やっぱり主様がいるのは滝なのかな……」
水場は全て調べたいところだが、さすがに数が多過ぎるから絞りたい。
前世では大きな滝の裏にある社で龍神を祀っていた。可能性としては、やはり滝だ。
景はふぅと息をつき、シートを倒した。
「三大瀑布は回ったな。栃木の華厳の滝、和歌山の那智の滝、茨城の袋田の滝」
「ね。どこも迫力満点で良かったですよねえ。スケール大きいだけに滝まで距離がありましたけど」
スマホで撮った写真を見ながら、ため息混じりに頬杖をつく。
「静岡や栃木でもたくさん回りましたけど、基本観光地化してます。俺達が初めて会った滝も……そう思うと、何だかなぁ……」
自分から言っておいて申し訳ないが、考え込んでしまった。
人が集まる場所は気の力が集中するから、それ目当てで住み着く神も確かにいると思う。しかし自分達の主は賑やかな環境と、そもそも人間が嫌いだったから、もっと静かな場所に身を置きそうだ。
「……俺は、お前が行きたい場所ならどこにでも行く」
カーインバーターを取り付け、景さんは電気ケトルでお湯を沸かし始めた。その間に手動のコーヒーミルで豆を挽く。
「景さん、俺がやりますよ」
手を差し出したものの、彼は手で制止した。いつものやり取りに少し笑って、俺も後部座席からマグを二つ取り出した。
お湯が沸き、景さんは二人分のコーヒーを淹れてくれた。車内に立ち上る香りはホッとして、さっきまで抱えていた不安を簡単にかき消してくれた。
「はぁ~。景さんが淹れてくれるコーヒーは本当に美味しいです」
笑いかけると、彼は後ろのボックスから色々な洋菓子を引っ張り出してくれた。
こうなると完全に車内カフェだ。雨音をBGMに、黙々とマフィンを頬張る。
駐車場に停めてる車は他に一台もなく、貸し切り状態だった。水滴で、フロントから眺める景色は少しぼやけている。
「何だか世界に俺達二人だけみたいですね」
「そうだな。昔みたいだ」
「ああ。確かに」
手を叩いて頷く。昔はいつも二人だけで、洞窟の中で滝の裏側を見ていた。水のカーテンを閉め切ってるようで、大好きな景色だった。
「……一緒に来てくれて、ありがとうございます」
今もあの延長線上にいる。そう思うと改めて、この瞬間が愛おしくなった。
「俺は物心ついた時から昔の記憶があったんですけど、景さんは?」
「俺も同じ」
「そうか……大変でした?」
心配になって訊くと、彼は瞼を伏せた。
「それも、大方お前と同じだ」
「……」
わずかに想像を働かせて、やめた。
俺達は今も昔も人間だ。でも、今も昔も普通から逸脱してる。大人になってからは上手く立ち回ることができたけど。
「もうどうでもいいけどな」
空になったマグを片付け、景さんはこちらを見た。
「俺達は裏切られるの慣れてるだろ」
「あぁ! 言われてみればそうですね」
肩を揺らして笑ってしまった。心なしか景さんも楽しそうに見える。前に屈んで、目元を軽く擦った。
「今はすごく平和だけど、人の本質はそんなに変わってない。集団で生きる限り淘汰は起きる。村八分も学校の虐めも。……条件が重なってしまえば」
左手のブレスレットにそっと触れる。
「優しい人もいるけど、辛いこともたくさん……だからこそ、景さんに逢えたときは嬉しかった」
静かに微笑む。すると前髪を持ち上げられた。慎重に、探るように髪一本一本梳いていく。
景は依然として無表情を貫いていたが、都築の唇を指でなぞった。
「……時々本気で連れ去りたくなる」
「え?」
都築は首を傾げる。景は口角を上げ、シートを起こした。
「何度も言ってるけど、車は危険だからな。俺がいない時に声掛けられて、知らない男についていくなよ」
「大丈夫ですよ、子どもじゃないんだから」
否定したものの、景が肩を震わせ、笑っているのが分かった。都築は少しむくれてシートベルトを締める。
「ちょっと理不尽ですよね。昔は同い歳だったのに」
「そうだっけ?」
「そうですよ!」
雨の日は、昔の記憶が端っこから流れてくる。とはいえ大抵が、まだ彼と会って間もない頃のことだ。
いつか全て思い出せるように願い、前を向く。
景はエンジンをかけ、都築の頭を撫でた。
「悪いな。ちゃんと覚えてるよ」
「い、いえ……。今も昔も、かっこいいのは貴方の方なので」
やっかみではなく、正直に答える。すると彼は目を丸くし、口元を押さえて笑った。
「そんな風に思ってくれてるとは知らなかった」
「またまた。行く先々で、女の人に見られてるじゃないですか」
「歩いてる時は他人の顔を見ないようにしてるからな」
ぴしゃりと言い切る景は、やはり複雑な半生を送ってきてるように思えた。改めて、胸がちくりと痛む。
「俺は他人にどう思われようと構わない」
けど、その後にさらっと告げられた言葉に全て持っていかれた。
「お前がいればいい」
……。
…………ん?
何て返せばいいか分からず、しばらくフリーズした。
というか、変だ。顔が熱くなってきた。
今、それなりにすごいことを言われたような。気のせいか?
「帰るか」
「は……い……」
雨が窓を叩いている。今回も何の収穫もなかったのに……何故か俺の心は、今までで一番舞い上がっていた。
◇
近頃は晴天と雨天が交互に訪れる。都築と景は待望の雨の週に待ち合わせをして、東北を少しずつ回って行った。
地元の住人に龍の伝承がないか訊いて、山の奥深い場所へ行って、海沿いも回った。宮城の龍神神社も訪れたし、岩手の龍穴が有名なお堂にも寄った。
確かにこれまでとはレベルの違う気を肌で感じたが、前世で感じていた気とは違った。
成果はない。それはもう、清々しいまでに。
山道の運転中、都築はそれとなく隣の景を見た。
彼はただ静かに前を見ている。いつものことながら会話はなく、ひたすらに目的の滝を目指す。
しかしこれは今回の目的地に過ぎず、最終地点はまだ見つかっていない。
一体いつになったら見つかるのか。いつまでこんなことを続けられるのか。
澄んだ泉の水底に、黒い根が張っていく。
怖い。この旅の終わりを考えることが。
急に左胸が痛くなって、ハンドルを強く握り締めた。
「都築。左に寄り過ぎてる」
「はっ!」
突然話しかけられて、思わずアクセルから足を離してしまった。坂道を登っていた為減速する。やはり周りに車がいない為事なきを得たが、慌ててアクセルを踏んだ。
「すみません、考え事してて……」
左は側溝がある為、タイヤを取られたら大変だ。しかし一度生まれた動揺は中々収まらず、今度はスピードを出せなくなった。
とは言え、いつもの景さんならウンともスンとも言わないことだ。もっと危険な時なら何度もあったし、まるで反応しなかった。ところが、彼は低い声で告げた。
「そこの路肩に停めろ。代わる」
感情の読めない、深い水底。十数センチ先すら見えないような、そんな心境だった。
「だ、大丈夫ですよ。疲れてるわけじゃないし」
何故かこの時は、俺も意固地になっていた。これも冷静に考えたら有り得ないことだ。車の持ち主が停まれと言ってるのに、停まらないなんて。
……なにか大きな焦りに突き動かされて、止まれずにいる。
雨粒が落ちる木々の中を突き進んだとき、ハンドルを握る手の上に彼の手が重なった。




