#2
自分の名前が“名田都築”であると知ったとき、前世の記憶も息を吹き返した。
閉鎖的な村で生まれ育ち、代々続く流れに身を任せながら。
いつも酸素が薄い空間に閉じ込められてるような、言葉では言い表せない圧迫感を抱いていた。だが不思議と水の周りにいると心が落ち着いた。池、川、滝。海に連れて行ってもらったことがないから、高校一年生の夏休みにひとりで遠出した。
そのとき、細かった視界が開けたのかもしれない。初めて見る海は、俺の中に巣食う妥協や退屈を叩き壊した。
ああ。
この世には、こんなに広い世界があるんだ。
あの村で一生を終えるわけにはいかない。
きっと何でもできる。本気を出せばどこにだって行けるし、必ず見つけられる。
俺を助けてくれた主様。そして、いつも傍にいてくれた少年。彼らと、いつか─────。
「三十六度八分」
「良かった! おかげさまで下がりました」
翌朝。体温計を確認した景は、都築の声掛けに頷いた。
「食欲はあるか? 昨夜は何も食べなかっただろ」
「あー……ちょっと空いてきたかも」
「分かった。ちょっと待ってろ」
あ。もう帰ります。
と言うタイミングを逃し、またも項垂れる。
迷惑かけ過ぎだろ、俺……。
ここまでくるとどうお詫びしたらいいか分からない。迷惑料を支払わないといけないレベルかも。
ベッドの上でひとり頭を抱え、ため息をつく。
景さんは俺に優……いや、甘過ぎだよな。
嬉しいけど、こっちまで甘えぐせがつきそうで怖い。
「粥なら食える?」
少しして、景さんは一人用の土鍋に入った卵粥を持ってきてくれた。蓋を開けた時の湯気と香りは、眠っていた胃袋を起こすのに充分だった。
「美味そう……い、いいんですか?」
それでも申し訳なくて尋ねると、彼は蓮華にすくい、俺の口元に運んでくれた。
「ほら」
「あ、ありがとうございます……!」
はぐっと熱々のお粥を口にする。熱々……なんて生易しいレベルではなく、地獄の業火に等しかった。危うく吐き出すところだったが、決死の思いで口を塞ぎ、何とか推しとどめた。
「美味しいです……」
「泣くほど?」
あまりに熱くて涙が出てきた。俺を不審そうに見つめ、景さんは蓮華を差し出す。
ふわふわの卵とネギ、それから鶏がらの風味。実際すごく美味しくて、冷めてからは一気に平らげてしまった。
ちなみに上顎と舌はしっかり火傷した。
「ご馳走様でした! 美味しかった~」
「全部食えて良かった」
火傷なんて大した問題じゃない。景さんの手料理は基本、お店レベルで美味しいから。
お腹もいっぱいになり、幸せな気持ちでベッドに座り直す。するとスマホに数件メッセージが届いてることに気付いた。
「あ、職場からだ」
「……そういや今日のシフトは大丈夫なのか?」
「大丈夫です! この感じじゃまだ行けないと思って、昨日休みの連絡を入れておきました」
本当は休みたくないけど、無理したことで仕事中に迷惑かけたり、周りに風邪を伝染す危険もある。やはり全快まで大人しくしてる方が無難だ。
スマホを置くと、景さんはフムと頷き、顎に手を添えた。
「なら明日まで泊まればいい」
「いやいやいや!!」
さらっと告げる景さんに全力でツッコむ。彼の気遣いは本当に有り難いけど、もう限界だ。
「もういい加減出ていきますよ。本当に、色々ごめんなさい」
正座して頭を下げるも、彼は机の上のノートパソコンを手に取り、ドアの方へ向かった。
「俺は隣の部屋で仕事する」
「あ、はい」
……帰っていいってこと? それとも駄目ってこと?
汗をだらだら流しながら見つめてると、彼は去り際にわずかにこちらを向いた。
「夜なにが食べたいのか考えといて」
バタン、とドアが閉められる。
「…………」
ひとり部屋に取り残され、呆然と呟く。
「駄目ってことか……」
彼も中々意志が固いので、帰らせる気は毛頭なさそうだ。
相変わらずメンタル強めの青年を想い、都築は夜までのんびりすることにした。
日中は脈がありそうな聖地を調べたり、自宅の光熱費をスマホで払ったり、昼寝したりした。
せめて家事をしたかったけど、景さんの部屋のドアをノックするのは申し訳ないと思った。彼の集中力は生半可なものではない。モニターに向かって、十時間は座っていた。
よーし……!
二十時を回った頃、意を決して彼に声を掛けた。
「景さん、お腹空きませんか。なにか出前とりますよ」
ドアをノックし、スマホだけひらひらと翳す。すると彼はハッとしたように、椅子ごと振り返った。
「悪い、もうこんな時間か」
「いえいえ、お疲れ様です。俺もすっかり熱下がったし、出前じゃなくてなにか買ってくることもできますよ」
そう言うと、彼は首を横に振って立ち上がった。
「休んでろ。出前をとる」
何が食べたい? と訊かれたので、ちょっと困りながら頬をかいた。
「俺はいいので、景さんが食べたいものを」
「俺のことは気にするな。……遠慮し合う仲じゃないだろ?」
「それは……」
そうですね。と言うには、長く付き合い過ぎた。
今世で再会してから、三ヶ月近く経っている。突然無礼講というわけにもいかないので、接し方も手探り状態だ。
「遠慮か……」
「?」
それでも躊躇っていると、彼は考えながら顎に手を添えた。
「堅苦しいから、もっと自分勝手に振る舞え」
「そんなぁ……無理ですよ」
景さんの提案は、またまた俺にとっては困るものだった。
「前世はタメだっただろ。本心も打ち明けた。何を遠慮する必要があるんだ?」
彼は脚を組み、可笑しそうに見上げる。
問題ありまくりだというのに、もう彼の中では解決済みになってる気がした。
景さんが質実なことと、前世の記憶が戻りきってないこともあり、敬意を払わないといけない気になるんだけど。
……いいのかな。本当に、昔みたいな関係に戻って。
俺には、過去のことを訊く勇気もないのに。
「生意気なこととか言って、怒らせたりするかもしれませんよ」
「警戒してるな。いいよ、好きなだけ我儘になれ」
……今まで我慢して生きてたんだろう?
景は愛おしそうに目を細め、向き直る。
都築はパソコンで出前を検索し始めた景の隣に移動する。わずかに上擦った声で、はにかんだ。
「えへへ。どうしよ、すごい嬉しい」
「…………」
屈んでモニターを覗き込んでいると、不意に頭を撫でられた。
「景さん?」
「お前は本当に素直だよな。何でそのまんまで大人になれたんだか」
褒められてるのか貶されてるのか分からないが、彼のマウスに手を添え、メニューの一覧を眺める。
「景さん達のことだけ考えて、気付いたら大人になってました」
俺の二十年はとても長かった。それこそ気が狂いそうなほどに。
でも、彼と出逢ってからの経過は恐ろしいほど速い。
「ただ、長く生きてるわりに内面は成長してないからなぁ……」
「そんなことはない。お前は一番しっかりしてた」
「今も?」
「今は……そうだな。しっかりしてるかもしれない」
「退行しちゃった……!」
軽くショックだけど、今までで一番楽しそうな景さんから目が離せない。
俺も、控えめに言って最高の日だと思った。
本当に小さな一歩なんだろうけど、俺達は確かに前に進んでいる。
「ん~。ローストビーフ丼も美味しそうだけど……景さん、俺はこのジューシー盛々ハンバーグ丼にします」
「ほんとに病み上がりか?」
ひとりでは見えなかった景色。抱かなかった感情。
それを今、大切な人の隣で感じている。
隣で笑い合うことの喜びを、数百年ぶりに思い出した。




