第6話:流出映像
一階のエントランスホールへと続く最後の階段を、二人は降り切った。
その時だった。
「……助けて……」
男のかすれた声が、ホールの隅の方から聞こえた。カメラが、弾かれたようにそちらを向く。暗所モードの緑色の視界が捉えたのは、信じられない人物だった。
五階で血に濡れた瓦礫を手に持っていた男――伊集院健介。
彼は柱の根元に倒れ込み、頭からおびただしい血を流しながら、必死にこちらへ手を伸ばし、助けを求めていた。 春日部塔子と早瀬春、彼女たちの想像を裏切るその場面を見た二人は場に縫い付けられたように動きが取れなくなる。
やがて、伊集院健介の体が、不自然にガクンと揺れた。彼のすぐ傍にある、暗く開かれた部屋の戸口から、スッと。一本の、人間とは思えないほど真っ白な腕が伸びてきたのだ。
その白い手が、伊集院健介の足首を掴む。
「あ……ああああッ!」
伊集院健介は絶叫し、コンクリートの床に爪を立てて抵抗しようとするが、その力はあまりにも一方的だった。 彼は、その白い腕によって、為す術なく部屋の暗闇の中へと引きずり込まれていく。廊下に、彼の絶叫と、体が床を擦るおぞましい音だけが響き渡り、それもすぐに、完全な静寂に飲み込まれた。
《記者の注記――彼の遺体は後にその部屋で発見され、死因は瓦礫による後頭部への強烈な打撃によるものと断定された》
完全な静寂が、一階のエントランスホールを支配していた。伊集院健介が引きずり込まれた部屋の暗闇を、カメラはただ映し出している。その沈黙を破ったのは、春日部塔子だった。彼女は、掴んでいた早瀬春の腕を、絶望的な力で引く。
「……行くよ!」
その声に弾かれたように、立ち尽くしていた二人はエントランスへ向けて再び走り出した。もはや思考はない。ただ、生存本能だけが二人を突き動かしていた。
出口は目前。割れた自動ドアの向こうに、外の闇が見える。その、あまりにも唐突な希望が、致命的な油断を生んでしまったのかもしれない。
先頭を走っていた春日部塔子が、突然、その場に立ち尽くした。
勢いのまま彼女を追い越してしまった早瀬春は、数歩先で止まり、訝しげに振り返る。カメラのレンズが、後ろで佇む春日部塔子の姿を捉える。
春日部塔子は、早瀬春を見ていなかった。その視線は虚空を彷徨い、まるで遠い記憶を手繰り寄せるかのように、何事かを呟いていた。
「……ようやく、わかった……あの時の違和感の正体……。五階で見た、あの光景……」
春日部塔子の声は、自分自身の中の謎に語りかけているようだった。
「あれは、あの男が……背後にいた女を何かから守ろうとしていたんだ……」
それは確信に満ちた言葉だった。
「じゃあ、彼は何から彼女を守ろうとしていた……? まさか……」
春日部塔子の言葉が途切れ、彼女はハッとしたように顔を上げる。
「…もしかして彼らは何かに襲われそれを返り討ちにした。…でも何から…まさか…でもそうなら今起きていることは一体なんなの…」
その表情は、自らが導き出した答えを信じられないかのように、絶望と混乱に染まっていた。
その瞬間だった。
春日部塔子の背後の暗闇から、スッ……と、二本の白い腕が伸びる。その両手には、人の頭ほどもある巨大なコンクリートの瓦礫が、まるで何の重さも感じていないかのように握られていた。
「塔子ッ!! うしろッ!!!!」
早瀬春の絶叫が、エントランスホールに響き渡る。 その声に、春日部塔子が弾かれたように後ろを振り向く。 彼女が、自分の背後に立つ“それ”の存在を認識した、まさにその刹那。
ゴシャッ!
瓦礫を掴んだ両手が、無慈悲に振り下ろされた。春日部塔子の頭部に叩きつけられ、おぞましい音を立てる。 そして糸の切れた人形のように、ゆっくりと崩れ落ちていく。
「ああああああああああああああああああああッ!!!!」
早瀬春の半狂乱の叫びと共に、カメラの視界は意味をなさない光の奔流と化した。何が映っているのか、もはや誰にも分からないほどに世界は揺れまくる。やがて、その絶叫がぷつりと途切れ、カメラが地面に叩きつけられる衝撃音と共に、映像は動かなくなった。
《記者の注記――春日部塔子、早瀬春ともに死因は瓦礫による頭部の強打。現場の状況から、犯人は伊集院健介を殺害した後、同じ凶器を手に二人を追跡し、殺害に及んだものと断定された》
傾いたレンズが最後に映したのは、コンクリートの床と、そこに転がる瓦礫の隅だけだった。永遠に続くかと思われた静寂の後、カメラがふわりと持ち上げられる。
その視点は、ゆっくりと、滑るように上へと上がっていく。
薄汚れた白いワンピースの裾。血の飛沫がこびりついた胴体。そして、長く艶のある黒髪。
そこにいたのは、五階の現場で頭から血を流して死んでいたはずの女だった。
暗所モードの緑色の光の中、女は感情を削ぎ落としたような、気味の悪い笑みを浮かべていた。彼女は、まるで見たこともない珍しい玩具を観察するように、カメラのレンズを覗き込む。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。
やがて、彼女があちこちを無造作にいじっているのだろう、カメラの視点が上下左右へと目まぐるしく揺れ動く。
再び、カメラは女の表情を捉えた。しかし、そこに先ほどの笑みはなく、ただ氷のように冷たい視線をレンズに向けていた。まるでおもちゃに飽きてしまった子供のように。
次の瞬間、カメラの視点が大きく揺れる。強い力で投げ飛ばされたのだ。視界が数度回転し、風を切る音をマイクが拾う。
ザザッ……という音と共に、カメラは建物の外の草むらに着地した。
レンズは、風にそよぐ雑草と、その向こうにそびえる廃墟の不気味なシルエットを、ただ静かに映し出している。
時間は流れ、やがて遠くからサイレンの音が近づいてくる。一台のパトカーが、画面の端に映り込んだ。ドアが開き、二本の足が地面に降り立つ。その足がカメラへと近づいてくる。
「なんだ、これは」
男の声と共に、カメラが持ち上げられる。最後に記録されたのは、通報を受けて駆けつけた警察官の、訝しげな顔だった。
***
ーー以上が記録された映像の全てである。
現場に駆けつけた警官は廃墟内で春日部塔子と早瀬春の遺体を発見し、すぐさま本部に応援を要請した。
その後、廃墟内から残るすべての遺体が発見された。現場の徹底的な捜索、さらには大規模な捜査体制が敷かれたものの、映像に記録されていた容疑者の正体と行方ともに不明のまま、事件は迷宮入りとなった。
そしてこの廃墟は、この事件が決定打となり、完全に取り壊された。
かつて若者たちの命を飲み込んだその場所に、今ではただ、広大な更地が静かに横たわっている。
物理的な痕跡は、すべて消え去った。
あの夜のすべてを記録した、この映像だけを残して。




