第5話:仲間たちの死
春日部塔子は、血に濡れた自分の手を拭うことすらせず、凍りついている早瀬春の腕を掴んだまま、慌ただしく部屋から廊下へと引きずり出す。
カメラが乱暴に揺れ、暗所モードの緑色の光の中に、春日部塔子の横顔が映し出された。
映像が記録されてから初めて、あの冷静沈着だった彼女の表情が、明らかに動揺で歪んでいた。血の気が失せた顔、固く食いしばられた唇、そしてその瞳には、これまで見せたことのない焦りと恐怖の色が浮かんでいる。
「急いで! ここから出るよ!」
春日部塔子の声は、もはや冷静さを保てていない。ほとんど悲鳴に近い切迫した響きを帯びていた。
腕を引かれるまま、早瀬春が上げる悲痛な声が記録されている。
「でも、拓也と美咲は…! どうするの!?」
その問いに、春日部塔子は一瞬だけ足を止める。彼女の中で、凄まじい葛藤が渦巻いているのが、その硬直した背中から伝わってくるようだった。
春日部塔子はポケットからスマートフォンを取り出す。その画面の光が、彼女の厳しい表情を照らし出した。
「…警察に任せるしかない」
それは、苦渋の決断だった。仲間を見捨てるのではなく、これ以上犠牲者を増やさないための、あまりにも現実的な選択。春日部塔子は、震える指でスマートフォンの画面を操作しながら、早瀬春に言い聞かせるように続ける。
「二人にもLINEを送る。『殺人鬼がいる。今すぐここから逃げろ』って……それで合流できたら……」
春日部塔子がメッセージを打ち込むことに集中していた、その時だった。
カメラは、彼女の背後にある通路の窓を捉えていた。
その汚れたガラス窓の外を、スッ、と。
上から下へ、何か巨大な黒い影が落下していくのが、はっきりと撮影された。
音はなかった。
あまりに一瞬の出来事で、スマートフォンに視線を落としていた春日部塔子は気づいていない。
しかし、カメラは…早瀬春は、確かにそれを目撃した。
マイクが、早瀬春の「え…?」という、ほとんど息のような呟きを拾う。
カメラが、まるで何かの意思に引かれるように、ゆっくりと窓の方へ進んでいく。
そして、窓のところへ到着したカメラは、恐る恐る、階下へと向けられていった。
暗所モードの緑色の視界がそこにあるコンクリートで覆われた駐車場跡地を捉える。そこに、人の形をしたものが落ちているのが見えた。カメラが、撮影者の震えに合わせて小刻みに揺れる。ゆっくりと、デジタルズーム特有の粗い粒子が画面を支配していく。ピントが合い、その輪郭がはっきりとした時、影の正体が判明した。
相田美咲だった。仰向けに倒れ、手足が有り得ない方向に折れ曲がっている。
《記者の注記――後の調査で、相田美咲は5階から屋上まで力ずくで引き摺られ、そこから投げ落とされたことが判明している》
「……うそ……」
マイクが、早瀬春の乾いた呟きを拾う。異変に気づいた春日部塔子が、厳しい声で問いかけた。
「春、何が見えたの!?」
しかし、早瀬春は何も答えられない。思考が完全に停止していた。
次の瞬間、カメラがわずかにスライドする。痺れを切らした春日部塔子が、早瀬春の手からカメラを奪い取ったのだ。その絶望的な光景を、自身の目で確認するために。
そして、マイクが拾ったのは、これまで聞いたこともないような、春日部塔子の弱々しい声だった。
「……なんで……」
春日部塔子はすぐにカメラを早瀬春に返し、再びその腕を強く掴んだ。今度の早瀬春は、もうそれに抗う気力すら残っていない。二人は、ただ無言で階段を目指す。希望は完全に砕かれ、出口という唯一の目的に向かって機械的に足を進めるだけだった。
二階へと続く階段を駆け下りた、その時。
先頭を走っていた春日部塔子が、突然何かに足を取られて激しく転倒し、腕を引かれていた早瀬春もそれに巻き込まれる。カメラが手から滑り落ち、床を数回転がって止まった。そのレンズは、床に倒れ込み、呻く二人の姿を無慈悲に映し出している。
やがて、早瀬春がゆっくりと起き上がり、カメラを拾い上げる。そして、何につまずいたのかを確認するため、その足元へとカメラを向けた。
そこに横たわっていたのは、顔だった部分が赤黒い肉塊へと変貌した、男性の遺体だった。引き裂かれた衣服、それが誰であるかを無情にも示していた。
斎藤拓也だった。
《記者の注記――現場の状況から、彼は抵抗する間もなく組み伏せられ、近くに転がっていた瓦礫で顔面を執拗に殴打されたものと考えられている》
カメラの視点が、恐怖に凍りつくように、わずかに後ずさる。同時に、画面の端に映る春日部塔子もまた、目の前の惨状から逃れるように後退していくのが記録されている。
次の瞬間、二人は同時に、獣のような叫びを上げて一目散に走り出した。もはや言葉はない。マイクが拾うのは、パニックに陥った二人の激しい息遣いと、コンクリートの床を叩く狂ったような足音だけだ。一階へと続く最後の階段を駆け下りていく。
しかし、その階段の踊り場で、先頭を走っていた春日部塔子が急ブレーキをかけるように足を止めた。背後から追っていた早瀬春は止まりきれず、その背中に激突する。カメラが大きく揺れ、春日部塔子の後ろ姿が画面いっぱいに映し出された。春日部塔子は、階段の下を、ただ凝視している。
カメラのレンズが、彼女の視線の先……階段の下へと向けられる。
そこに、五階で血に濡れた瓦礫を手にしていた男の背後に隠れていた女――久保田沙織が倒れていた。
《記者の注記――彼女の死因は頸部圧迫による窒息死。首には、何か細いもので強く絞められた痕が残っていたという》
カメラは、階段の途中に横たわる久保田沙織の亡骸を、ただ呆然と映し出している。
「……この人たちが、やったんじゃないの……?」
早瀬春の震えるような呟きが記録された。あまりの惨状に、まともな思考を放棄した末の、最後のSOSだった。
しかし、そのか細い希望を、春日部塔子の言葉が打ち砕く。
「……わからない。もう、何がどうなってるのか、全然わからない……」
春日部塔子の声には、初めて諦めの色が混じっていた。
「とにかく……出るしかない」
春日部塔子はそう言うと、意を決したように久保田沙織の遺体を慎重に避け、先に進む。早瀬春も、それに続くしかなかった。




