第4話:三階の死体
三階の通路は、四階よりもさらに空気が淀んでいるように感じられた。 散乱したゴミが増え、壁の染みも濃くなっている。
その時だった。
通路の中ほど、いくつも並ぶ部屋のドアの一つが、音もなく、ゆっくりと内側へ開いていった。それは、まるで誰かが手招きをするかのような、静かで、意思のある動きだった。
「ひっ…!」
早瀬春の短い息を呑む音が記録される。カメラがパニックを起こしたように激しく揺れ、開いたままの不気味な扉と、後ろに立つ春日部塔子の姿とを、何度も狂ったように往復し始めた。
しかし、春日部塔子は動かない。映像は、開かれた暗闇の奥を、ただ黙って見つめる彼女を捉えていた。やがて彼女は、「…行くよ」と早瀬春にだけ聞こえるよう囁くと、その肩を軽く叩いて先行した。
春日部塔子は開いたドアの前まで進むと、早瀬春に手招きをする。
「春、先にカメラだけ入れて。中を映して」
その指示に従い、カメラはためらいがちに、そっと部屋の中へと差し入れられる。レンズがゆっくりと部屋の内部を舐めるように映していく。
ここで、映像の記録が一度途切れる。
再び録画が開始された時、カメラは廊下側に戻っていた。「何もいないようね」という声とともに春日部塔子がカメラの前に戻る。彼女は早瀬春の側でカメラの液晶を覗き込み、内部の様子を確認していたようだ。まずカメラで偵察し、安全を確保してから足を踏み入れる。あまりにも冷静な行動だった。
「…入るよ」
二人は音を立てないように、その部屋の中へと足を踏み入れた。
辺りを警戒してかカメラが辺りを見渡しながらゆっくりと進んでいく。そしてさらに奥にあった部屋に足を踏み入れた時、彼女たちの足が止まった。
その部屋の中央、奥の窓を向いて、一脚の椅子が置かれている。
そこに、誰かが座っていた。
こちらに完全に背を向け、ただじっと動かない男性らしきシルエット。
春日部塔子は早瀬春に「下がって」と指示すると、足元のコンクリート片を拾い、椅子に座る人物へそっと投げつけた。コツン、と乾いた音が響くが、シルエットは全く反応を示さない。
「…寝てる、のかな…?」
早瀬春の声が記録されている。
「そこで待ってて」
春日部塔子はそう告げると、ゆっくりと部屋の中央へと足を進めた。
早瀬春が止めようと伸ばした手が映るが、それが届くより先に、春日部塔子は抜き足差し足でその人物に近づいていく。彼女はその人物のすぐ後ろまでたどり着くと、ゆっくりと左手を伸ばし、肩にそっと触れた。 そして、その顔を覗き込もうと、少しだけ身を乗り出した。
その時だった。春日部塔子の動きが、不自然に固まる。
何かに気づいたのか、彼女はゆっくりと自分の左手を顔の前に持ってきた。暗所モードの緑の世界では色の判別はつかないが、その手のひらには、明らかに液体のようなものがべっとりと付着していた。春日部塔子は凍りついたように自分の手を見つめた後、恐る恐る、座っている人物の正面…その顔があるであろう空間へと視線を移す。
「…どうしたの?」
異様な沈黙に耐えきれず、早瀬春が近づこうとする。
その瞬間、春日部塔子が鋭く、押し殺した声で叫んだ。
「来ないで!」
春日部塔子は早瀬春を制止するために、咄嗟にこちらへ左手を突き出した。
暗所モードの無機質な映像の中で、その手のひらと腕は、肘のあたりまで真っ黒に染まっていた。
…いや、違う。マイクが拾った早瀬春の短い悲鳴が、その色の正体を物語っていた。
それは、おびただしい量の、真っ赤な血だった。
春日部塔子は、血に濡れた己の手を拭おうともせず、凍りついている早瀬春へと近づく。そして、有無を言わさずその腕を強く掴んだ。
「ひっ…!」
べったりと、生温かい血が早瀬春の腕に付着する。マイクが拾った短い悲鳴と共に、カメラは再び激しく揺れた。
だが、そのパニックによる乱雑な動きは、ある一点で不自然に静止する。
部屋の隅にある物置の半開きの扉からだらりと伸びた人間の腕が見えている。
その異様な固定に気づいたのか、春日部塔子はレンズの先…その空間へと視線を向ける。彼女は、早瀬春の腕を掴んだまま、ゆっくりとそちらへ近づいていく。
そして、カメラが内部を照らし出した時、第二の絶望が姿を現した。
そこには、首が有り得ない方向に折れ曲がった若い女性の遺体が、壁にもたれかかるようにして倒れていた。 その傍らには、画面に亀裂の入った一台のスマートフォンが落ちている。
《記者による注記――この映像記録と現場の状況を照らし合わせた、後の警察の公式発表は以下の通りである。 部屋の椅子に座っていた男性の遺体は、高木誠。死因は、錆びたナイフによる、全身数十か所に及ぶ刺殺。物置で発見された女性の遺体は、中村玲香。死因は、頸椎の骨折による即死。この二人こそ、春たちが5階で遭遇した伊集院健介と、その背後に隠れるようにしていた久保田沙織らと共にこの廃墟を訪れていた、四人組の残りのメンバーであった。また、警察への最初の通報は、中村玲香の傍らに落ちていたスマートフォンから発信されていたことが確認されている。 警察の推測によれば、恋人である高木誠が部屋で襲撃されている間、彼女は物置に身を潜め、恐怖に震えながら警察に通報。しかし、通話の直後、あるいは最中に犯人に見つかり殺害されたものと考えられている》




