第3話:あなたの《目》
通話を終えた春日部塔子は、スマートフォンの画面を消すと、硬い表情で早瀬春に向き直った。
「春、聞いて。警察は向かってるけど、ここは街からかなり離れている。だから到着まで一時間以上かかると言ってた。指示は『とにかく建物の外へ出て、車の中など安全な場所で待機しろ』とのことだった。この建物の中は危険すぎるからって」
「拓也と美咲は…どうするの…?」
マイクが早瀬春のか細い声を拾う。その問いに、春日部塔子は少し考えた後、決然とした表情で答えた。
「出口に向かいながら探す。とりあえず、警察に言われたことはLINEで送っておこう」
そう言って、春日部塔子はスマートフォンを操作する。そして床にへたり込む早瀬春の目線に合わせるように、ゆっくりとしゃがみ込み、カメラの方、いやそれを持つ早瀬春の方へと視線を向ける。
「あれを見てしまった以上、あの殺人犯は私たちを狙ってくるかもしれない」
恐怖に駆られたのだろう。カメラが不意に床を映す。早瀬春が撮影を放棄しようとしたのかもしれない。しかし、その視界に春日部塔子の手が伸びてきて、優しく、それでいて有無を言わせぬ力でレンズを再び正面へと向けさせた。
「春。何があっても、撮影は続けて。これから何が起きるか分からない。これは警察にすべてを知らせる証拠になる。もし私たちが疑われても、無実を証明することもできるから」
春日部塔子は立ち上がると、早瀬春が構えるカメラそのものに視線を移した。
「懐中電灯をつけるのは危険すぎる。カメラを暗所モードにして。周りを警戒しながら、ゆっくり進もう」
春日部塔子の指示で、カメラが暗所モードに切り替えられる。
世界から色彩が失われ、緑色の粒子がざらつくノイズの世界へと変貌した。人間の顔はのっぺりとした仮面のようになり、闇はもはや闇ではなく、すべてが見通せてしまう不気味な空間となる。
春日部塔子は固く閉ざされた部屋のドアに手をかけた。
ーーそして彼らにとっての本当の恐怖は、ここから始まる。
四階の空き部屋のドアが、軋む音を立ててゆっくりと開かれた。
カメラの暗所モードが捉えるのは、不気味に静まり返った廊下だ。世界から色彩が失われ、緑色の粒子が物の輪郭を曖昧に溶かしている。影は存在せず、すべてが不自然な明るさの中に露出していた。
カメラは、撮影者である早瀬春の恐怖を映すように神経質に左右を見渡し、一度後方を振り返る。そこには、ちょうどスマートフォンをポケットに仕舞う春日部塔子の姿があった。
「…ダメ。返信がない」
春日部塔子は、斉藤拓也と相田美咲からの連絡が依然としてないことを、低い声で告げた。カメラがその手元を捉える。 春日部塔子は、脇に挟んでいた小さな防犯スプレーを左手に、消灯したままの懐中電灯を右手に握り直した。 親指はいつでも点灯できるよう、スイッチの上に置かれている。
「…塔子、ライト持ってたの?」
早瀬春が小声で尋ねる。
「ええ。この暗闇でいきなりこれを浴びせれば、どんな相手でも眩しさで怯むはず」 春日部塔子は冷静に答える。 「その隙に、このスプレーを浴びせる。そうすれば、私たちが逃げる時間を稼げる」
完璧に計算された戦術に、早瀬春が「…すごい…」と感嘆の声を漏らした。
その声に、春日部塔子は少しだけ照れたように笑みを浮かべる。そして、早瀬春の方へ一歩近づき、カメラのレンズを真っ直ぐに見つめた。
「春。何か変だと感じたら、気のせいだと思っても、必ず私に教えて」
「…わかった」
早瀬春の承諾を受け、春日部塔子は視線を外さない。まるでカメラそのものに語りかけるように、声を潜めて続けた。
「この暗闇のなかじゃ、あなたの《目》だけが頼りだから」
その言葉が持つ重みが、二人の間に漂う。
「よし、行くよ」
その言葉を合図に、二人は再び歩き出す。三階へと続く階段へ、慎重に歩みを進めていった。




