暴発⑤ マイシャの傷
おかしい、何かが変だ。それと見たところ、森に変化はない。しかしマイシャの鋭い洞察と鍛え抜かれた狩人の勘は、おのれでさえ意識できぬ変化を的確にとらえていた。
やはり森が······荒れている。初日に仕留めたあのグゥルガも、この空気に圧されて彷徨いでたのだろう。普段はあんな浅い処にいる獣ではないのに。
用心して樹を背にまわり込み、弓を負うと、倒れかかった隣の樹を梯子にするりと樹上にいたる。
上から眺めてみるが、やはり今日は大物の気配も臭跡も、すっかりナリを潜めている。
こりゃああっちも苦戦しているだろう。
勝負自体は焚きつける意味あいと自身のモチベーションのために提案したのだから、彼女にしてみれば敗けたにしても特に損害はない。適当にお土産をもたせて、適当にいい気分になって帰ってもらえば、父や首長会に命じられた「お仕事」は果たせたことになる。
とはいえどちらもカラ手で引分けでは流石にシラケるというか、カッコつかないという訳で。そりゃそういう日もあるさハハハ、で済ませられるほどにはまだ大人になりきれない。
とにかく狩人の面子にかけて一頭は仕留めて帰らなきゃね······
ヒュッと音がして、眼下の繁みから勇士があれをみろ、とばかり合図を送ってくる。
なるほど、二〇ヤードばかり離れた繁みがわずかに、しかし不規則に揺れている。
大物とまではいかないがこの際目を瞑ろう。
マイシャが息を落ち着けて矢をとり出していると、ヒュッ、とまた合図がして、より先行していた仲間からがゆっくりと片腕を掲げる。
その意味するところは──止まれ?
その時だ。特に異変はみられない状況での停止信号に訝しむマイシャの瞳に、繁みからわずかにでた黒い尾がおおきく映りこんだのは。
あの尾──間違えるものか!
彼女の心臓はいちど大きく跳ね、あとは氷のように冷たく落ち着いていった。
屍喰いはちょうど、仕留めた獲物をいただいている所だった。
そこへ、血の匂いを嗅ぎつけでもしたか招かざる客、べつの屍喰いが現れた。
彼らは性質上──いや性能上というべきか、そういった死の臭いには敏感で、より強くそちらへと惹きつけられてしまう。そして普段の習性として単独で生活する。
ゆえに当然の流れとして、今回も奪い合いがはじまった。
激しくいがみ合ううち、後からきた一頭が隙を突いて獲物をくわえ、全速力で逃げ出した。獲物の本来の持ち主も負けじと後を追う。
闇雲に藪のなかを突っ切って飛びこんだ先には、何とあろうことか、さらに多くの仲間がたむろしているではないか。先に来ていた連中はあとから来た闖入者に唸り声をあげ、またもや睨み合いが始まる。
──とそこへ、ガサリと藪をかきわけてなにか入ってきた。
人間だ。それもひとり、若い女だ。
これは思わぬご馳走が現れたと、五頭の獣は舌舐めずりし、先程までのいざこざはどこへやら、連携の態勢に入った。
だが今回ばかりは相手が悪かった。
「潰す······」
マイシャの昏い瞳は一切の容赦もないことを告げていた。
まず飛びかかった二頭が、同時発射で放たれた矢によって額を射抜かれ絶命する。その背後から、つんのめった前陣を飛び越えた二頭の牙は虚しく空を噛む。
前方へとび込んでこれを躱したマイシャは出遅れた一頭を接射で仕留めると、こりずに喰らいついてきた一頭にも二矢目で引導を渡し、のこり一頭は剛弓で殴りとばす。間を空けられてはひとたまりもなく、あわれその一頭もやはり疾風の矢に沈んだ。
ただの一頭、狡猾に隠れ潜んでいたやつが彼女の背後を襲うことに成功した。
「ッ」
かろうじて躱すが、後脚の爪が衣を裂き、肌に跡を残す。
俊敏な動きで跳ね直って追撃してくる獣にやむなく背をみせて駆ける。
あわや追いつかれんとした所で目前に迫った樹を蹴り、彼女の身体が宙に見事な弧を描く。逆さ吊りの状態から相手の喉を射抜き、ついに仕留めきった。
「お見事です、お嬢」
「大丈夫ですか?」
勇士たちは口々に声をかけ駆け寄る。
さすがに息が切れた。
マイシャは高揚した身体を冷ますように汗を額から拭いさる。
「見事じゃ、ないでしょ······」
判っている。これは自然の掟に反する行為。ただの八つ当たりだということは。
マイシャは首長ツィージェンの四子として生を受けた。
兄妹は上に兄二人、姉一人、下に弟一人、妹二人。首長階級の例に漏れず母はそれぞれ違ったが、兄妹の仲は良かった。自我の目覚めははやかったように思う。三歳になる頃にはすでに弓を引いていた。
彼女には約束された才能があった。本人も当然やるものだと思い鍛錬を怠らなかったため、十を数える頃にはすでに一人前の狩人と比しても遜色はなかった。
そして成人のみぎり、誰もひけなかった一族の宝、剛弓【サーリフ・チョノル】を引いてみせたことで、彼女はその才を、評価を不動のものとした。
若き勇士は自信に溢れていた。
自分は誰にも負けない。あらゆる獣にも、どんな戦獣にも遅れはとらぬ。父や兄らが留守をしても自分が立派に弟妹や継母を護ってみせるのだと。
その若き自信が打ち砕かれたのは三年前のあの日──
獣渡り。
そう呼ばれる時節が、この国にはある。
厳寒の冬の寒さを嫌い、北の森域から南の森域へと獣がわたる時期のことをいった。
毎年森番となった氏族が、みずからの武勇と栄誉をかけ総力でこれを迎え撃つ、狩猟大祭の月。一族は氏族長以下、ひろく人員を配置してこれに備えていた。
いかに才があるとはいえ、やっと半人前と認められた新米のマイシャは里のちかくに配置されていた。
もちろん内心はおおいに不満であった。自分はもっとやれる。すくなくとも皆のお荷物にならないだけの腕はあるのに。
そんな彼女の前にその異形は現れたのだ。
民の間では神とも、破壊の主とも呼ばれる大大物。
災悪「角壁・崩緑」
彼は森を喰らう王。
齢三百年ちかくを生きた原初のもの。
されどもその出自は人が生み出した戦獣の一個体に過ぎない。
もともと、身体は大きくなる、そんな因子は組み込まれてはいた。だが彼の身は箍が外れたかのように留まることを知らず成長を続け、ちょっとした小山ほどにもなってようやく止まった。
この巨体ではとても一箇所に留まることはできない。森を丸ごと喰らい尽くしてしまうだろうから。ゆえに十数年に一度、居所を変えた。
彼にとって人のこしらえた国という枠組みは狭く、国境から国境への横断さえも、散歩にすこし足を延ばす風情にすぎない。彼とおなじ種の眷属も、そうでないものも、こぞって彼を頼って渡りにくわわる。
だが彼にはそれすらもどうでもいい。何者が足下へ入り込もうとも避けてやる義理はない。認知すらもどうでもいい、億劫だ。彼は彼のため餌場を変えているのに過ぎないのだから。ついてきたければ勝手にするがいいと、道、弊害ともに存在さえしないものとして踏み潰すのみだ。
彼はただ歩くだけ。また懐かしき森へと渡り、後はうとうとと微睡みの中へもどるのだ。そうして森と一体となり、森の育む滋養を吸いあげる──
これまではさながら暗黙の了解とばかり遵守されていたこの間隔が気まぐれに変わったのだ。
これは予定になかった。誰もが思いもよらぬことだった。
マイシャはその威容に圧倒され、畏怖し、弓さえとることが出来ず呆然と見送るしかなかった。
正気づいた時にはすでに遅く、轢き殺された獣目当てに屍喰いの群れが喜び勇んで駆けまわっていた。彼女は恐懼の面差しで馬をかり、里へと戻った。
そうして知ったのだ。
人の身においてどうにもならぬ絶望はある。これは逃れえないものであるのだと。
数字の誤りを修正しました。




