第八話
仁木は巧みに古いセダンを操り、信号待ちで自分だけは引っ掛からないよう速度調整しながら走らせているようだ。信号の度に後続車は赤信号に引っ掛かり、仁木はその都度速度をあげて引き離す。再度赤信号に変わった直後の交差点を通過すると、脇道に入り再び上り方面へと進路を変えた。尾行は上手く撒いたのだろう。
「お前、警察のノルマがどれくらいきついか知ってるか?」
不意に聞いてきた仁木の視線を、バックミラー越しに感じた。
「いえ、自分は交通違反にもノルマがあるって聞いたことがあるくらいです」
「だろうな。実際はノルマとは言わずに『努力目標』っていう指示、実質的には命令が定期的にくる。いわゆる取り締まり強化月間だ」
「はあ……」
「銃器押収、薬物押収、指名手配犯検挙……。それも一回で終わりじゃない。何度も何度もひたすら数字を求められる。拳銃が毎回五丁も十丁も押収できると思うか?」
いくらなんでもそれは無理だろう。大学生の自分にもそれくらいは分かる。
「薬物なら薄めて嵩増しした分を取っておくとかできそうですが、そんなことをしたら犯罪でしょうし、そもそも拳銃や指名手配犯は増やしようがないですよね……。無いものは仕方ないんじゃないですか?」
「そんな甘い世界じゃない。警察は典型的な縦社会だから、上が十丁取ってこい、身柄を取ってこいって言ったらそれは絶対だ。取れない奴は、取れるまで何時間でもこづかれながら叱責され、取れない理由書を書かされる。何枚書いたところで破かれてゴミ箱行きだけどな。そのせいで病んじまって、自殺する奴もいるくらいだ。まあ、極端に厳しくなったのは二十年ちょっと前、ヤクザの抗争に巻き込まれた市民三人がスナックで殺されてからって話だ」
バックミラーの中で仁木は唇を歪めた。
「そういう意味では甲斐も被害者だ。巻き込まれたお前にこんなことを頼むのは筋違いなのは分かっている。だが、有希子に会っても事件や甲斐のことは軽く流してくれないか?」
「さっきも言ったように、自分は何も覚えていないし甲斐さんのことを恨んだりもしていません。それに、夢で見たように自分を突き飛ばして助けてくれたのは甲斐さんかもしれないですし、ご挨拶するだけだから大丈夫ですよ」
たとえ甲斐が事件の加害者側であろうが、妹の有希子には無関係だ。だが、しつこいマスコミの対応や近所の目など、この二年間彼女が一人で辛い思いをしてきたのは想像できる。
「悪いな」
それだけ言うと仁木は再び運転に専念した。
初対面は最悪だったし、先ほどの説明に納得したわけではないが、案外根は悪い男ではないのかもしれない。バックミラーに映る仁木の表情が少しだけ緩んだ気がした。
「あんなことがあっても、妹さんは引っ越さなかったのですか?」
黙ったままの車内が居心地悪く、一斗は聞いてみた。
「有希子は犬を飼っているから引っ越しが大変なんだよ。今は亡くなった両親が建てた戸建ての家に住んでいるから問題ないが、新たにペット可の物件を探すのは大変だし、自分は何も悪いことをしていないから意地でも引っ越さないって言ってる」
子供の頃から住んでいた家なら、それなりに思い入れもあるだろう。亡くなった兄との思い出を残したいだろう。
県警本部刑事部の尾行を撒いて三十分ほどで着いた甲斐家は、田んぼや畑に囲まれた一軒家だった。平成の大合併によって、再開発された駅周辺の市街地や繁華街から人里離れた山沿いまで高牧市のエリアは広い。また、駅から三十分も車で走れば幹線道路沿い以外は農耕地が多かった。
甲斐家の駐車場には赤いコンパクトカーが一台止まっている。仁木はその隣にセダンを止めた。
「着いたぞ」
仁木に促され車を降りると、一緒に玄関へ向かった。
仁木がインターホンを鳴らすとドアが開き、二十代後半くらいの女が顔を覗かせる。
瞬間、一斗の意識が弾け、記憶がコマ送りのように回る。有希子……。懐かしさと共に、心が囚われるのを自覚した。抗うことのできない、必然の出会い。幸いギリギリのところで平常心を取り戻したため、一斗の気持ちは気づかれていないようだった。
有希子は女性にしては背が高く、百七十五センチの一斗とあまり変わらない。きりっとした瞳にポニーテールの黒髪が良く似合っていた。
「こいつが電話で言っていた柊木だ」
「突然無理を言って申し訳ございません。柊木一斗です」
仁木に紹介され挨拶をすると、一斗を見る有希子の瞳が感情を抑えるように一瞬固まるのが分かる。
「なんだ、もしかして有希子は年下好きか? タイプですって、顔に書いてあるぞ」
仁木が揶揄った。
「バカなこと言わないで。初対面で失礼でしょ。さっきまで推しのドラマ見てたから、まだ余韻が残ってるだけよ。ごめんなさいね、上がってください」
有希子と仁木に続いて玄関に入ると、奥の部屋から黒っぽい塊が全速力で一斗に向かってきた。もげそうなほど尻尾を振っている大型犬、ジャーマンシェパードだ。有希子が止める間もなく一斗に覆い被さると、嬉しそうに顔中を舐め回してきた。愛おしさが込み上げ、首筋を撫でてやる。
「モテモテだな」
仁木が呆れたように呟いた。