第六十八話
車列を尾行し、愛田精密工業から一キロ程離れた廃工場に大型バイクを乗り入れた淑貞とタンデムシートの若者は、錆び付いた非常階段から屋上に上がると、受水槽の下に潜り込んだ。
狙撃ポイントを決めている若者の横で、淑貞はナイトロン社製の昼夜兼用の軍事用双眼鏡を使い監視を始めるが、愛田精密工業の建屋はガラス面が多く比較的監視は用意だ。
やがて工場内から、見覚えのある女が拳銃を突きつけられて出てきた。
母に言われ荷物を受け取りに行ったとき、車の助手席にいた女だ。そのときと同じ赤いコンパクトカーに乗り込もうとしている。
「志偉、どうする?柊木と仁木は中にいるけど、あの女はお巡りとどこかに出掛けるみたい」
志偉と呼ばれた若者の逡巡は一瞬だった。
「戻ってくるとは思うけど、どこに行くのかバレないように尾行できるかな」
「問題ないよ。ここは志偉一人で大丈夫?」
「ああ。やばそうならさっさとカタをつけるから」
志偉はにこっと笑うと、横に置いた耐衝撃ケースを指先で弾いて言った。
「淑貞こそ気をつけろよ。奴らはたぶん戻ってくるが、気づかれそうになったらすぐに警官を殺して女を確保、離脱するんだ」
「わかった。何かあったら連絡するから」
淑貞はフルフェイスのヘルメットを被ると素早く屋上を降り、愛車のスズキSV650に跨がると赤いコンパクトカーを追った。特殊部隊上がりの志偉から訓練を受けている淑貞にとって、ただの警官など脅威にはならない。
屋上に残った志偉はスポッティングスコープを手にすると、工場までの正確な距離を測り始めた。
工場までは千百メートル。毎秒二メートル程度の風が五時方向から吹いている。工場内まではプラス十メートル前後、逃走経路になるであろう通用口まではプラス十五メートルだ。どの方向も若干の撃ち下ろしになるが、千百メートルにスコープを合わせておけば目測で調整可能だろう。
志偉は耐衝撃ケースを開くと、国軍時代から愛用しているスナイパーライフル、レミントンM24E1-ESRを丁寧に取り出し二脚を伸ばした。標準装備であるリューポルドMK4スコープから、狙撃が夕闇になる可能性を考えて昼夜兼用の赤外線タイプに付け替えゼロインも済ませている。レンズカバーを跳ね上げると電源を入れ、エレベーションノブを回し千百メートルに合わせる。十個のボックスマガジンに、それぞれ五発の.三〇〇ウインチェスターマグナム弾を詰めると、そのうちの一個をレミントンM24E1-ESRに装填した。
狙撃は通常、スポッターと二人一組で行う。しかし今は一人なので、念のため工場周辺の安全確認を行った。後ろから撃たれたりしたらしゃれにならない。
狙撃は待つのが仕事の大半だ。根気の無い人間には務まらない。長時間の監視が予想される場合は、飲料水のボトルに加え排尿用のボトルを用意するくらいだ。この二つは絶対に間違えたくないので、大抵のスナイパーは手探りでも識別できるよう、キャップに工夫をしている。
また、常に臨機応変な対応も求められるし、一瞬で距離や風を計算する能力も必須だ。軍にいた頃は、敵味方が分からない中で瞬時の判断も必須だったから、それに比べれば楽な仕事だった。
時を待ちながら、志偉はボスである淑華の指示を反芻していた。もし仁木が柊木を裏切ったなら殺すこと、そして柊木と連れの女を救うことの二点だ。
淑華は敵味方問わず、裏切り者を嫌う。それは相思相愛といっても良い仁木でも変わらない。その一貫性ゆえに部下からの信頼も厚い。そもそも一斗たちを拉致するのに淑華のホテルを使った時点で、仁木は終わっているのかもしれなかった。また、淑華が柊木という若者を気に入っていることも知っている。頭が切れて、損得を考えずに動く男が大好きなのだ。
志偉もまた、後藤組に救出に行った際に、台湾華語で礼を言ってくれた柊木のことを好ましく思っていた。
淑貞が尾行に向かって約一時間。夕闇に包まれ、外灯も無い工場周辺の安全確認をする志偉が異変を感じ取った。
昼夜兼用の双眼鏡に小さく写るのは、友軍識別ストロボライトなどのアクセサリーを付けたバリスティクヘルメットに、防弾プレートキャリアなどのタクティカルギアを身に付けた十人ほどの男たち。
距離があるのではっきりとはわからないが、スリングで吊っているのはMP5系のサプレッサーが付いたサブマシンガンだろう。
男たちは愛田精密工業の工場部分を囲むように、徐々に近づいていく。かなり離れて後ろには、場違いなスーツに防弾ベストの男が一人。
恐らく警察の特殊部隊だろうが、スーツの男は私服警察官か。
囚われた柊木の救出部隊なら、彼らがへまをしない限り問題はない。だが、軍隊経験のある志偉には救出部隊とは思えなかった。救出に来たのなら、目立たないところに現場指揮車両や医療班が待機しているはずだが、その様子はないのだ。証拠隠滅のため全員を殺しに来ていると見た方が良いだろう。
面倒なことになりそうだと思いながら、淑貞に注意を促すため電話をした。
三十分後、赤いコンパクトカーが愛田精密工業に吸い込まれていくのとほぼ同時に、淑貞が非常階段を上がってきた。バイクの排気音を聞かれないよう用心して、少し離れたところから押してきたようだ。
「様子はどう?」
ヘルメットを脱ぎながら淑貞が隣に伏せた。
「まずいな。そろそろ突入しそうだ。音響閃光手榴弾を使われたら、一瞬視界が閉ざされる。ところで、そっちはどうだった?」
「駒寄の先にあるドッグランだったよ。中のカフェに寄ってすぐに出てきた。五分もいなかったし、何のために行ったのか分からない」
「仕方ないか。これ以上近づくと気づかれるし、警察と揉めるのもまずいからここから狙う。淑貞は柊木と女、仁木の動きをカバーしてくれるかな」
志偉はM24E1-ESRのボルトを引いて初弾をチェンバーに送り、インカムの音声チェックを淑貞と行った。




