第五話
……拉致? 一瞬マキの注意が頭に浮かんだ。一斗の右隣で悠然と脚を組んで座る年配の男はどう見ても暴力団員、それもかなり上位にいるのが素人目にも分かる。ヤバい状況に置かれたことを認識しながら、不思議と一斗に恐怖はなかった。なぜかこんな状況を何度も潜り抜けて来た気がする。
窓の外を眺めていた年配の男が振り向き、一斗と向き合った。
「後藤……」
一斗は反射的に呟いた自分に呆然とした。
「組長を呼び捨てにしてんじゃねえ! 殺すぞクソガキが!」
坊主頭が身を乗り出し、一斗の髪を掴んで引っ張った。
「やめろ! 素人相手にみっともねえ」
組長と呼ばれた男がピシャリと言うと、渋々一斗の髪を離して助手席に戻る。
「お前さんみたいな堅気の子供がどうして俺の名前を知っている?」
「分かりません。自分でも気づかないうちに口にしていたんです」
このままではまずい、本当に殺されかねないと思いながらも、ほかに答えようが無かった。
「ふざけてんじゃねえぞ、こら!」
坊主頭が再び身を乗り出そうとするのを後藤が制した。
「まあいい。それより、マキのところには何しに行ったのか教えてもらおうか」
二年前の事件に巻き込まれ最近まで入院と治療を続けていたこと、記憶を失っており当時何が起きたかを知りたいこと。そして、同じ事件現場にいて唯一助かった自分は、亡くなった者に線香の一本くらい供えるべきだと思い住所を調べて訪問したことなどを一斗は話した。
「変わった兄ちゃんだな。あんたは被害者で、野村達は加害者だろう?」
後藤はマキに確認するよう助手席の男に指示して、呆れたように言った。
「マキさんにも同じことを言われました」
「ほかには何か言われなかったか?」
「素人が首を突っ込むな、命を大事にしろと……」
後藤がうなずくと、助手席の坊主頭が電話を終えて振り向いた。
「姐さんの話では、そいつの言った通りのようです」
「分かった。その辺で止めろ」
後藤は助手席の男と運転手に命じた。
「拐うような真似して悪かったな。マキの言う通り、命を大事にするんだ。だが……」
後藤は一度言葉を切った。
「もし何か思い出したことがあったら、教えてもらえると助かる。名刺でも渡しておきたいところだが、今それをやると暴対法に引っ掛かりかねないんでな」
電話番号だけを書いたメモ用紙とともに、一斗は高牧駅西口で車から降ろされた。駅へ向かい歩きかけると同時に助手席の窓が開き、一斗に凄んだ坊主頭が顔を出す。
「野村に線香、ありがとな」
それだけ言うと窓が閉まり、アルファードは去っていった。
一斗はほっとして膝から崩れそうになった。喉がカラカラだ。近くのコンビニで炭酸飲料を買い、一息で半分ほど飲み干す。後藤の電話番号を暗記し、細かくちぎってコンビニのゴミ箱に捨てた。
まだ午後四時過ぎだったが神経が参りかけている。帰宅しようと駅構内に入りかけたとき、後ろから肩を掴まれた。
「ちょっと来い」
有無を言わせぬ口調と力で壁に押しつけられる。
「後藤と何を話してた?」
今日は厄日かよ……。一斗はうんざりしながらも瞳を守るため両手を顔の前に上げながら相手を観察した。
一見華奢に見える細身の長身だが、高そうな生地のダークスーツの下に強靭な筋肉を備えているのは、押さえつける力で分かった。年齢は四十歳前後、切れ長の瞳に薄いブルーのサングラス。整った顔つきが、却って冷酷さを増している。
耳たぶの変形と拳ダコは、明らかに鍛え上げた格闘技経験者のそれだ。反面、顔に傷一つ無いということは、相手の攻撃を受けていないのだろう。かなりの強者と見て間違いない。
後藤を見たときと同じように、なぜか頭に名前が浮かんだが、同じ轍は踏まずにすんだ。
「ん? お前、俺のことを知っているのか?」
だが相手は一斗の表情を敏感に読み取った。