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冬の童話祭2025

ある山で

作者: 六福亭


 真冬の夜に山を超えようとしたのが大間違いだった。


 私は今、愛馬アンティと共に、豪雪の中で遭難しつつある。アンティは強靱な体の素晴らしい馬だが、かきわけてもかきわけても降り積もる雪にとうとう屈し、一歩も動かなくなってしまった。


 疲弊しているのは、私も同じだ。厚い毛皮の外套さえも貫く寒さに敗北し、アンティの背中の上でうずくまった。私の忠実なアンティは、私を振り落とすこともなく、一緒に寒さに耐えてくれている。毛皮も手袋もはめていない彼の方が、よっぽど寒い思いをしているというのに。


 目を開けていると、雪が次々と飛び込んできて、白い目隠しを被せる。そのため、自分が森の中にいるのか、開けた野原にいるのか、もう頂付近まで来たのか、はたまた我が家に引き返せる距離にいるのかさっぱり分からない。


 ああ、私は何と愚かだったのだろう。そもそも、あの暖かい家を出るべきではなかったのだ。この山を越えた先に住んでいる妹が病気だからといって。彼女には心強い友人も、賢い主治医もいると手紙に書いてあったのに!


 このままだと、妹より遙か先に、自分が天国へ行くことになりそうだ。私は忌まわしい想像を追い払うために、長いうなり声を上げた。アンティが耳を神経質に動かす。そして、ゆっくりと雪の波に沈んでいった。私は凍りついた手でアンティのむき出しの肌に触れ、きつくこすった。


 アンティも私も限界を迎えつつある。だが、生きて山から帰るためには、決してここで眠ってはいけない。アンティの顔を叩いてやると、彼は閉じかけた瞳をはっと開いた。彼の長い睫毛に、氷の粒が何十もついていた。


 アンティが、また耳を動かした。


 吹雪が少し弱まったようだ。真っ黒な空から降りてくる雪が、いくらか少なくなった。

私は少し安堵し、アンティの首を抱いた。


 その時、私の耳にも聞こえた。

 

 誰かが、私達を呼んでいる。


 遠くから、声が聞こえる。一定の間隔を開けて、夜と冬の闇の中を、声の限りに叫んでいる。

 私の胸に希望が灯った。

「アンティ」

 愛する友の耳元で囁く。喉が凍りついて、自分の声とも思えないほどかすれた声で。

「きっとあれは、救助隊に違いないぞ!」

 私はアンティから降りて、進路を妨げる雪を必死にかきわけた。しばらくすると、遙か前方に、ぼんやりとした光が見えた。

 私は精いっぱいの声で叫んだ。

「我々はここだ!」

 すると、すぐに返事がきた。

「おーい」

 もう、わっと言って駆け出したいような気分だったけれど、雪の中を進むのは難しい。だが、明かりは着実に、こちらに近づいてくる。助かった。喜びで全身に力が入る。

「アンティ、もう少しだ! 頑張れ!」

 次の瞬間、アンティは身震いし、私の手を振り払った。

「どうした?」

「おーい」

 明かりの主が近づいてくる。アンティは雪の中でもがき、いなないた。

「アンティ、落ち着くんだ」

 私はアンティをなだめながら、明かりの方に目をこらす。そして、妙なことに気がついた。

 明かりは二つある。しかも、ランプの光のような輝き方じゃない。丸い二つの光が、こちらへ向かってまっすぐに、だんだん近づいてくる。

「何か……おかしいぞ」

 そう呟く私に応えるように、アンティは軽くいなないた。目の前の何かは、相変わらず「おーい」と繰り返しながら、また一歩ずつ雪を踏みしめながらこっちに来る。二つの光は一瞬だけ明滅した。

 私はやっと気がついた。あれは、瞬きだ。大きな二つの光は、目だ。


 吹雪はいつの間にかぱったりと止み、月さえ雲の間から覗いていた。私とアンティの目の前で、「それ」の顔がはっきりと見えた。

 この世のものとも思えぬ異形がそこにいた。ぎらぎらと飢えた光を放つ二つの大きな目。丸太のように長く太い鼻。にやりと裂けた口から覗く、大きな牙。

 私は恐怖のあまり動けなかったが、アンティはずっと勇敢だった。雪の中から飛び上がって、「それ」に襲いかかった。だが、その怪物はさっとかわし、アンティの背中にかぶりついた。

「ああ……!」

 アンティが雪の上に倒れ、そのまま怪物と共に転がった。雪原が崩れ、アンティたちの姿は見えなくなった。駆け寄ると、ぽっかりと広い空間が開いていた。雪に隠されて気がつかなかったが、そこに地面はなかったのだ。

 空は晴れ、雪がまた降り出すことはなかった。私は危機を脱した。だが、同時に親友を失った。


「兄さんはトロルに会ったのよ」

 妹はそう言った。私がようやく山を越え、妹の家に辿り着いた後のことだ。妹の容態はすっかり落ち着いていた。ベッドの上で体を起こし、会話をする余裕さえあった。

「無事で本当に良かったわ。ねえ、もう絶対に夜の山には登らないでね。きっとまだ山の中に仲間が潜んでいるわ」

「ああ、だが……」

 私は沈んだ声で気のない返事をした。「アンティを死なせてしまったよ」

 その後妹はあれこれと慰めてくれたが、どれも私の心には染みなかった。家から持ってきた薬と食糧を妹に渡し、早々に彼女の家を辞した。


 いくらか遠回りをすれば、あの恐ろしい山を通らずに家に帰ることができる。だが、私はもう一度あの山に登る決意を固めていた。どこかに、勇敢なアンティの亡骸が必ずあると信じて。私の忠実な友を、あの憎いトロルの好きにさせたくはない。

 最初のうち、空は晴れていた。だが、山に入ってしばらくすると、また分厚い雪雲がじわじわと青空を侵食していた。

 また、吹雪になるかもしれない。私は足を早めた。悪い予感は的中した。じきに、最初の雪が肩に舞い降りた。

「アンティ!」

 私はアンティを呼びながら、あちこち探し回った。昨夜アンティが落ちたのは、どの谷間だったろうか。一度、積もった雪に隠れた小川に足を突っ込んだ。流れが思いの外激しく、引きずり込まれそうになった。

 少しでもアンティのてがかりがないかと雪の上を調べていた時、奇妙な足跡を見つけた。人の足跡にそっくりだが、異様に大きい。私の足の倍ほどの大きさがある。

 耳元で、誰かがけけと笑った。

「二度と来なけりゃ、お前は見逃してやったものを」

 私はさっと振り向く。後ろにはもう誰もいなかった。だが、どこからか視線を感じる。

 

 見上げると、樹上であの目が光っていた。

 私は恐怖で固まってしまった。トロルだ。驚くほどの素早さで私の上に飛び降りた。逃げる間もなく組みつかれ、私は悲鳴を上げた。土色のかぎ爪が私の喉に食い込む。トロルは長い髪を振り乱し、大きな口を開けた。真新しい肉の破片が見え隠れする口から、よだれがだらだらと滴り落ちた。


 もう駄目だ。目を閉じ、全身の力を抜く。トロルは私を生きたまま食べるつもりに違いない。せめて長く苦しみませんように。そう神に祈った。

 

 地響きがした。異変を感じて、私はうっすらと目を開けた。トロルも訝しんで後ろを向いていた。

 何か、重くて強いものが近づいてくるようだ。雪崩か、もっと大きなトロルか。そう勘ぐったのは、目の前のトロルが折角の獲物である私を放して逃げ出したからだ。

 私も体を起こした。雪煙で何も見えない。迫り来るものは私の前で止まった。再び死を覚悟する。

 視界が収まるまで、「それ」は待っていた。強い鼻息が聞こえる。私ははっとした。これまで何度となく聞いた音だ。

 そこにいるのが誰か理解した瞬間、私は飛び上がった。私の危機を二度も救ってくれた、愛馬のアンティが立っていたのだ。

 アンティは全身傷ついていた。かぎ爪の跡や、歯形が至る所に残り、血が滲んでいた。だが、私がアンティを抱きしめると、彼は満足げにいなないた。

「すまなかった……ありがとう、アンティ」

 私は心から彼に謝った。昨夜アンティに助けられながら、彼を見捨てて自分だけ山を降りたこと。疲れているアンティを振り回したこと。アンティは耳を動かし、歯を鳴らしておやつを要求した。

 妹の家を出る際にもらった、ベリーの砂糖漬けをアンティにやった。彼の好物だ。雪がちらちら降る中で、私はアンティを再び抱いた。

「山を降りよう。あのトロルが戻ってくる前に」

 そして、もう二度とこの山には来ない。トロルは今でも、三度目の機会を狙っているに違いないのだから。


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― 新着の感想 ―
アンティは生き延びていたのですね。 よかったです。 とても良いお話だと思いました。
拝読しながら、いっしょになって寒さに凍え、いっしょになっておそろしさに震えるような心地になる、すごい描写に圧倒されました。 くどくどしく書き込まれているのではないのにも関わらず、あっというまに物語の世…
手に汗握る展開で、目が離せませんでした。 アンディと主人公が無事で本当に良かったです。 アンディを失ってからトロルのいる山へ向かう主人公に共感しつつも、トロルの怖さに私だったらへっぴり腰だろうなと苦笑…
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