ある山で
真冬の夜に山を超えようとしたのが大間違いだった。
私は今、愛馬アンティと共に、豪雪の中で遭難しつつある。アンティは強靱な体の素晴らしい馬だが、かきわけてもかきわけても降り積もる雪にとうとう屈し、一歩も動かなくなってしまった。
疲弊しているのは、私も同じだ。厚い毛皮の外套さえも貫く寒さに敗北し、アンティの背中の上でうずくまった。私の忠実なアンティは、私を振り落とすこともなく、一緒に寒さに耐えてくれている。毛皮も手袋もはめていない彼の方が、よっぽど寒い思いをしているというのに。
目を開けていると、雪が次々と飛び込んできて、白い目隠しを被せる。そのため、自分が森の中にいるのか、開けた野原にいるのか、もう頂付近まで来たのか、はたまた我が家に引き返せる距離にいるのかさっぱり分からない。
ああ、私は何と愚かだったのだろう。そもそも、あの暖かい家を出るべきではなかったのだ。この山を越えた先に住んでいる妹が病気だからといって。彼女には心強い友人も、賢い主治医もいると手紙に書いてあったのに!
このままだと、妹より遙か先に、自分が天国へ行くことになりそうだ。私は忌まわしい想像を追い払うために、長いうなり声を上げた。アンティが耳を神経質に動かす。そして、ゆっくりと雪の波に沈んでいった。私は凍りついた手でアンティのむき出しの肌に触れ、きつくこすった。
アンティも私も限界を迎えつつある。だが、生きて山から帰るためには、決してここで眠ってはいけない。アンティの顔を叩いてやると、彼は閉じかけた瞳をはっと開いた。彼の長い睫毛に、氷の粒が何十もついていた。
アンティが、また耳を動かした。
吹雪が少し弱まったようだ。真っ黒な空から降りてくる雪が、いくらか少なくなった。
私は少し安堵し、アンティの首を抱いた。
その時、私の耳にも聞こえた。
誰かが、私達を呼んでいる。
遠くから、声が聞こえる。一定の間隔を開けて、夜と冬の闇の中を、声の限りに叫んでいる。
私の胸に希望が灯った。
「アンティ」
愛する友の耳元で囁く。喉が凍りついて、自分の声とも思えないほどかすれた声で。
「きっとあれは、救助隊に違いないぞ!」
私はアンティから降りて、進路を妨げる雪を必死にかきわけた。しばらくすると、遙か前方に、ぼんやりとした光が見えた。
私は精いっぱいの声で叫んだ。
「我々はここだ!」
すると、すぐに返事がきた。
「おーい」
もう、わっと言って駆け出したいような気分だったけれど、雪の中を進むのは難しい。だが、明かりは着実に、こちらに近づいてくる。助かった。喜びで全身に力が入る。
「アンティ、もう少しだ! 頑張れ!」
次の瞬間、アンティは身震いし、私の手を振り払った。
「どうした?」
「おーい」
明かりの主が近づいてくる。アンティは雪の中でもがき、いなないた。
「アンティ、落ち着くんだ」
私はアンティをなだめながら、明かりの方に目をこらす。そして、妙なことに気がついた。
明かりは二つある。しかも、ランプの光のような輝き方じゃない。丸い二つの光が、こちらへ向かってまっすぐに、だんだん近づいてくる。
「何か……おかしいぞ」
そう呟く私に応えるように、アンティは軽くいなないた。目の前の何かは、相変わらず「おーい」と繰り返しながら、また一歩ずつ雪を踏みしめながらこっちに来る。二つの光は一瞬だけ明滅した。
私はやっと気がついた。あれは、瞬きだ。大きな二つの光は、目だ。
吹雪はいつの間にかぱったりと止み、月さえ雲の間から覗いていた。私とアンティの目の前で、「それ」の顔がはっきりと見えた。
この世のものとも思えぬ異形がそこにいた。ぎらぎらと飢えた光を放つ二つの大きな目。丸太のように長く太い鼻。にやりと裂けた口から覗く、大きな牙。
私は恐怖のあまり動けなかったが、アンティはずっと勇敢だった。雪の中から飛び上がって、「それ」に襲いかかった。だが、その怪物はさっとかわし、アンティの背中にかぶりついた。
「ああ……!」
アンティが雪の上に倒れ、そのまま怪物と共に転がった。雪原が崩れ、アンティたちの姿は見えなくなった。駆け寄ると、ぽっかりと広い空間が開いていた。雪に隠されて気がつかなかったが、そこに地面はなかったのだ。
空は晴れ、雪がまた降り出すことはなかった。私は危機を脱した。だが、同時に親友を失った。
「兄さんはトロルに会ったのよ」
妹はそう言った。私がようやく山を越え、妹の家に辿り着いた後のことだ。妹の容態はすっかり落ち着いていた。ベッドの上で体を起こし、会話をする余裕さえあった。
「無事で本当に良かったわ。ねえ、もう絶対に夜の山には登らないでね。きっとまだ山の中に仲間が潜んでいるわ」
「ああ、だが……」
私は沈んだ声で気のない返事をした。「アンティを死なせてしまったよ」
その後妹はあれこれと慰めてくれたが、どれも私の心には染みなかった。家から持ってきた薬と食糧を妹に渡し、早々に彼女の家を辞した。
いくらか遠回りをすれば、あの恐ろしい山を通らずに家に帰ることができる。だが、私はもう一度あの山に登る決意を固めていた。どこかに、勇敢なアンティの亡骸が必ずあると信じて。私の忠実な友を、あの憎いトロルの好きにさせたくはない。
最初のうち、空は晴れていた。だが、山に入ってしばらくすると、また分厚い雪雲がじわじわと青空を侵食していた。
また、吹雪になるかもしれない。私は足を早めた。悪い予感は的中した。じきに、最初の雪が肩に舞い降りた。
「アンティ!」
私はアンティを呼びながら、あちこち探し回った。昨夜アンティが落ちたのは、どの谷間だったろうか。一度、積もった雪に隠れた小川に足を突っ込んだ。流れが思いの外激しく、引きずり込まれそうになった。
少しでもアンティのてがかりがないかと雪の上を調べていた時、奇妙な足跡を見つけた。人の足跡にそっくりだが、異様に大きい。私の足の倍ほどの大きさがある。
耳元で、誰かがけけと笑った。
「二度と来なけりゃ、お前は見逃してやったものを」
私はさっと振り向く。後ろにはもう誰もいなかった。だが、どこからか視線を感じる。
見上げると、樹上であの目が光っていた。
私は恐怖で固まってしまった。トロルだ。驚くほどの素早さで私の上に飛び降りた。逃げる間もなく組みつかれ、私は悲鳴を上げた。土色のかぎ爪が私の喉に食い込む。トロルは長い髪を振り乱し、大きな口を開けた。真新しい肉の破片が見え隠れする口から、よだれがだらだらと滴り落ちた。
もう駄目だ。目を閉じ、全身の力を抜く。トロルは私を生きたまま食べるつもりに違いない。せめて長く苦しみませんように。そう神に祈った。
地響きがした。異変を感じて、私はうっすらと目を開けた。トロルも訝しんで後ろを向いていた。
何か、重くて強いものが近づいてくるようだ。雪崩か、もっと大きなトロルか。そう勘ぐったのは、目の前のトロルが折角の獲物である私を放して逃げ出したからだ。
私も体を起こした。雪煙で何も見えない。迫り来るものは私の前で止まった。再び死を覚悟する。
視界が収まるまで、「それ」は待っていた。強い鼻息が聞こえる。私ははっとした。これまで何度となく聞いた音だ。
そこにいるのが誰か理解した瞬間、私は飛び上がった。私の危機を二度も救ってくれた、愛馬のアンティが立っていたのだ。
アンティは全身傷ついていた。かぎ爪の跡や、歯形が至る所に残り、血が滲んでいた。だが、私がアンティを抱きしめると、彼は満足げにいなないた。
「すまなかった……ありがとう、アンティ」
私は心から彼に謝った。昨夜アンティに助けられながら、彼を見捨てて自分だけ山を降りたこと。疲れているアンティを振り回したこと。アンティは耳を動かし、歯を鳴らしておやつを要求した。
妹の家を出る際にもらった、ベリーの砂糖漬けをアンティにやった。彼の好物だ。雪がちらちら降る中で、私はアンティを再び抱いた。
「山を降りよう。あのトロルが戻ってくる前に」
そして、もう二度とこの山には来ない。トロルは今でも、三度目の機会を狙っているに違いないのだから。