海が呼んでいる
夜の海に浮いていたのは、人だった。
「え!? うそでしょ……!」
わたしはバッグを地面に放り、そのまま海へと飛び込んだ。
「ちょ、先輩!? 何してるんですか――」
一緒に歩いていた後輩の声に、端的に返す。
「人が浮いてる! 助けなきゃ」
人らしきものが浮いているところまで泳ぐ途中、長いブロンドヘアを見た。そして、それを見てわたしはすぐに(人魚だ)と思った。
この地には古くから伝わる人魚伝説が残っている。
船乗りたちは人魚の歌を恐れ、安全な航海を祈願した。
人魚は、歌によって人を惑わすことがあるのだと言う。そして、非常に美しい見目をしている。上半身が人間の女で、下半身が魚。それが人魚だ。
「先輩、大丈夫ですか!」
後輩の声にハッと我に返る。浮いていた人は、どうやら人魚が運んでいたものらしい。人魚が去ってから、ぶくぶくと沈みだしたので慌てて支える。近くで見ると二十代ほどの若者で、男性だった。
「人を呼んで来て!」
後輩にそう声をかけ、後輩が連れて来た釣り人たちによってその人はようやく海から引き上げられた。
救急車を呼んでいる間に処置をする。かすかだが呼吸はしていた。だが、脈拍が弱まっている。溺れてから時間が経っているのかもしれない。
夏とは言え、長時間海につかれば体温も下がる。
救急車が到着し、引き渡して状況を説明する。運ばれて行ったその人が助かることを祈った。
「しかしビックリしましたよ。先輩急に海に飛び込むんですもん」
「緊急性が高かったからね。わたしだってビックリしたよ」
濡れネズミのままでは家に帰れず、道中にある後輩の家に寄らせてもらい、服を借りた。
「でも、よく見つけましたよね。なんの音もしなかったのに」
「たまたまだよ」
後輩にはそう返したが、実を言うと違う。あの時、確かに誰かに呼ばれているような気がしたのだ。そして、その方角を見たら人が浮いていた。あれは、人魚が呼んでいたのかもしれない。
しかし、昔から船乗りたちを歌で惑わし溺れさせると聞いていた人魚が、人助けをするのだろうか?
不思議に思いつつも、その日は帰宅した。
翌日職場に着くと、すぐに声を掛けられた。
「昨日運ばれてきた患者さん、稲生さんが助けたんだって?」
ここは小さな島だ。病院はひとつしかないため、救急車で運ばれたら決まって同じ病院に着く。そして、その病院こそが看護師であるわたしの職場だった。
「大げさですよ。わたしは発見しただけです」
「でも、助かったみたいよ。良かったわよね」
「助かったんですね。良かった……」
どうも、釣りをしている最中に足を滑らせて海へ落ちてしまったそうだ。
何はともあれ、命が助かって良かったと思う。助けるのがわたしたちの仕事だから。
帰りに人魚にも声を掛けるか、と思った。あの人魚が何を思って彼を運んでいたのかは分からないけれど、少なくとも害する気持ちはなかったのだろうと思う。
それにしても人魚か。まさか本当に存在したとはね。
昔から大人が子供を怖がらせるために話す空想の生物だと思っていた。
綺麗なブロンドヘアだったな……。まるで日の光のように柔らかい明るさだった。
その日の仕事中は、人魚に気を取られ、ややミスが目立った。大丈夫かと心配されたが、まさか人魚のことを考えていたとも言えず、笑ってごまかした。
帰宅途中、昨晩と同じ場所で立ち止まる。海の方を見るが、波ひとつない穏やかなものだった。
居るのか居ないのかよく分からないが、周辺に人が居ないことを確認してから海に向かって声を掛けた。
「昨日はありがとう。おかげであの人、助かったの。あなたのおかげよ」
声を掛けてみたはいいものの、しんと静まり返った海に何をしているんだ自分は、と羞恥心がじわじわと湧いて来る。
「そ、それじゃあね」
踵を返して家に向かおうとすると、
「お礼は?」
鈴を転がしたような美しい声が聞こえた。振り返ると、そこには昨晩見た美しいブロンドヘアの、人魚が居た。
透き通るような白い肌に、ぷっくりとした赤い唇。白魚のような長い指に、目を縁取るまつ毛。その顔は、まるで西洋人形のように美しかった。
「助けてあげたのに、お礼もないの?」
冷たいそのまなざしにどきりと心臓が跳ねた。
「な、何が欲しいの?」
「そうね。魚がいいわ。美味しい魚を十匹ちょうだい」
さ、魚だと……? しかも、十匹も!
助けたのはあの男性であって、わたしは間接的に関わっただけに過ぎない。本来魚を用意するのはあの男性の方ではないかと思ったけど、不思議と目の前の人魚と関わりを持てるのはなんだか嬉しかった。
「す、スーパーの魚でもいい……?」
「新鮮ならいいわよ。でも、釣りたてが一番美味しいのよね」
そう言って、人魚はぺろりと唇を湿らせる。
つまり、わたしに釣れと。十匹も。
釣りなんて子供の頃に川遊びでやったっきりだ。今やってできるかと聞かれると正直怪しい。
「釣りには自信ないけど、いいわ。お礼だからね」
腹をくくるしかない。わたしは、今度の週末に魚を十匹釣り上げる約束を交わし、家に帰った。
なんて綺麗な人魚だと思ったけど、中身は案外そうでもないらしい。しかし、そのギャップが不思議と魅力的だった。
「さぁ、釣るわよ!」
「大きい声を出すと魚が逃げちゃうわよ」
たまに釣りをするという父親に色々と質問をし、装備を借りて来た。
娘が釣りに興味を持ったのかと喜んだ父親が「付いて行こうか!?」と言うのをきっぱり断り、一人で海に来ていた。
釣り竿の針先にエサを仕掛け、海に垂らす。そして、釣れるまで待つ。
しかし、待てども待てども魚は来ない。ただエサを垂らしてるだけでは魚は引っかからないのか。
やはり大人しくスーパーで調達した方が早いかもしれない……と人魚の方へ視線を向けると、片手にピチピチと跳ねる魚を持って食事中だった。
「いや、自分で捕れてるじゃん!」
思わず大きな声で突っ込んでしまった。
人魚はあぐあぐと魚をかじりながら、事も無げに言う。
「自分で捕ったんじゃお礼の意味が無いじゃない」
それはそうだけど……。てっきり、魚が捕れないから代わりに捕ってきて欲しいのかと思っていた。しかし、よく考えたら人魚は海で生活しているのだし、魚ぐらい自分で捕れるのだろう。
「それにしてもあなた、魚釣るの下手くそね」
うっ。自分で思っていてもいざ人から言われると中々堪える。しかし、釣り初心者なのだから仕方ないだろう。
「海に飛び込んで銛で突いた方が早いんじゃない?」
人魚は魚をペロリと平らげ、クスクスと意地悪げに笑う。
「しょうがないじゃない。釣りは初心者なんだから。十匹も釣るのは無理ね。スーパーの魚で我慢して頂戴」
「つまらないの。まぁいいわ。美味しくなかったら化けて出ちゃうかも」
手をだらりと下げ、脅かすように笑う人魚に、思わず聞く。
「海から出られるの?」
すると、人魚はしまったという顔をして、拗ねたようにそっぽを向いた。
「出られるわけ無いでしょ。足が無いんだから」
その声は、どこか怒っているようにも聞こえた。
何か地雷でも踏んでしまったようだが、人魚なのだから足が無いのは当然だろう。何が彼女の怒りに触れたのだろう。
「ふぅん。でも、いいじゃない。貴方には自由に泳げる美しいヒレがあるんだもの」
わたしは、子供の頃から泳ぐことが好きだった。絵本で読んだ人魚姫のヒレに憧れるほど。
早く泳げることは私にとって自信だった。いずれは水泳の選手になるのだと、信じて疑わなかった。
しかし、突然の事故によって足を痛めてしまい、以前のように早く泳ぐことは叶わなくなってしまった。
日常生活を送ることに支障はないけれど、あの日確かにわたしの夢は絶たれたのだ。
「海の中を自由に泳ぎ回れるなんて、とっても素敵」
羨ましい、とは言わなかった。あの日の夢は、もう諦めがついた。
何より、事故に遭い入院したことで、現場で働く看護師を間近で見ることが出来て新しい夢が出来たのだから、結果オーライと言うべきだろう。
人魚は、ぱちくりと瞬きをしたあと、その色白の頬を赤く染めた。
「変な人間」
「わたしの名前は稲生朱莉よ。貴方の名前は?」
「……イオ」
人魚――イオは、口元まで海につかり、ぶくぶくと泡を吐き出している。
「いい名前ね」
にっこりと笑ってそう言えば、イオはもう一度「変な人間」と呟いた。
「イオ、魚用意したわよ」
結局、あの日は一匹も魚が釣れなかった。そのため、スーパーで十匹も魚を買う羽目になった。
鮮魚コーナーの店員に「とびきり美味しいのをお願い」と言ってみたところ、張り切って身が詰まった美味しそうな魚を見繕ってくれた。これでイオが満足してくれるといいのだけれど。
しばらく海を眺めていると、やがてばしゃん、と水が跳ね、イオが顔を出した。
「美味しいの、選んでくれたんでしょうね」
「それは食べてからのお楽しみね」
これで気に入らなかったらどうしよう、と思ったが、そもそもお礼をするのはあの男性の役目なので、わたしが知ったこっちゃ無い。
イオに魚の入った袋を渡すと、中から一匹取り出し、ふんふんと匂いを嗅いでいる。
そして、そのままぽくりと噛り付いた。
「ふぅん。悪くないわね」
そう言いつつも、お腹が減っていたのかイオは次々と魚を平らげていく。
お気に召したようで何よりだった。
頭から尾の先までばりばりと綺麗に食べていくイオに、人魚は歯が頑丈なんだなぁとぼんやり思う。
人間のように骨が喉に刺さったりしないのだろうか。
しかし、魚の骨が喉に刺さって苦しむイオの姿はとても想像できなかった。
「朱莉は泳ぐのが得意なのね」
急に何の話かと思ったが、海に落ちた男性を助けた時にわたしが泳ぐ姿を見ていたのだろう。
「昔は水泳やってたからね。これでも選手目指してたのよ」
「どうして辞めちゃったの?」
イオの質問に、わたしは笑って答える。
「事故に遭ってね。足がダメになっちゃったんだ」
日常生活に支障は無いんだけど……と付け足すと、イオが何だか真剣な目でわたしを見つめてくる。
とうに諦めた夢の話だ。もう胸が痛むことも無い。
「人魚の血肉を食らえば足が治るって言ったら、朱莉は食べる?」
海のような深いブルーの瞳に見つめられ、わたしはああ、と昔祖母が話していたことを思い出す。
人魚の肉を食らった者は、不老不死になる――。
それも子供だましの嘘だと思っていたけど、人魚は実在したし、人魚の肉を食らえば不老不死になる、という話もあながち嘘では無いのかもしれない。
「要らないよ。もうとっくに諦めた夢だし。言ったでしょ? 日常生活に支障は無いの。だから、要らないかな」
何より、今こうして目の前で喋って、ものを食べる相手の血肉を食らおうなんて、到底思えない。
「……人魚の肉は不老不死になれるって、昔は人魚を狩る人間が多かった」
イオの声は暗かった。イオにとって、きっと思い出すのもつらい話なのだろう。
「あたしのパパやママも人間に殺されたわ。あたしは仲間を失くして、ずっと独りぼっちだった」
人は、時に残酷なことを平気で行う。
今でも人魚の話がこの地に言い伝えられているのは、こうした過去があったからなのかもしれない。
「人間は嫌いだった。あの日、あの男を運んでいたのは、覚悟を決めるためだった」
「……覚悟、って」
「人をこの手にかける、覚悟よ」
ブルーの瞳が揺れた。人に両親や仲間を殺された彼女は、覚悟を決める時間が無ければ人を手にかけることすら出来なかったのだ。
素手で泳ぐ魚を捕まえられる反射神経があり、魚の骨までかみ砕ける頑丈な歯を持っている人魚にとって、人の命を刈り取るなんて容易いことだろうに。
それでも、この優しい人魚は人の命を奪うのに覚悟が必要だったのだ。
「まぁ、朱莉を見つけてためらってしまったんだけどね。結局、人を呼んでしまった。あたしは弱い。パパやママを殺した人間を殺すことすらできなかった」
そう言って、イオはぽろぽろと涙を流した。
どうしようもないほど、優しい子なのだ。
わたしはたまらなくなって、海へ飛び込んだ。イオの元まで泳ぎ、そっと抱きしめる。
「あたし、人が嫌いなはずなのに。どうして、あの時殺せなかったんだろう」
「イオが、優しいからだよ。わたし、イオがあの時あの人を殺さないでいてくれてよかったと思った。優しいから、イオは殺した人のために苦しむと思うんだ」
だから、しなくてよかったんだよ。この手が血に濡れなくてよかったと、わたしは泣きじゃくるイオを抱きしめ続けた。
「ねぇ朱莉、また明日も来てくれる?」
「もちろん。また話しましょう」
こうして、わたしに人魚の友人ができた。とっても優しくて、綺麗な子。
わたしの言葉にイオは泣き腫らした目を細めて笑い、沖の方へ泳いて行った。
その日から、わたしは仕事帰りにイオの元へ寄るようになった。
その日一日のあった出来事をお互いに話すだけの時間だったけれど、とても尊いものだった。
患者に「ありがとう」とお礼を言ってもらえた、と話せばイオは「よかったわね」と自分の事のように喜んでくれたし、上司から嫌味を言われた、と話せば「朱莉は何も悪くないわ」と一緒になって怒ってくれた。
イオのそばに居ると、不思議と肩の力が抜けて自然体で居られた。
それはとても、心地の良いものだった。
こんな生活がずっと続くのだと思っていた。
しかし、穏やかな日常は長くは続かなかった。
「最近、人魚を見かけたんだ」
そんな噂が、島に広がるようになった。漁師たちが話す人魚、とはブロンドヘアの持つ美しい人魚だと言う。
イオのことだ。わたしと一緒に居るようになって、島の近くに留まることが増えたから目撃者が出たのかもしれない。
「捕まえてみないか? もし本当に人魚なら……」
そんな話が耳に入って、わたしはたまらず仕事を早退してイオの元へ走った。
イオが捕まってしまったらどうしよう。優しい子だから、抵抗もできず殺されてしまうかもしれない――!
急いでいつもの場所に向かったけれど、人魚の噂を聞き付けた島の人たちが集まっていて、海の様子は見られなかった。
近くに居た人の話を聞いたけど、今のところ人魚が捕まったという話は聞かなかった。
イオが島から離れていることを願い、その日は家に帰った。
家に帰ってからも落ち着かず、用も無くうろうろと部屋の中を歩き回る。
夜中になったら人が減るかもしれないと思い、わたしは零時を過ぎるのを待って家を飛び出した。
「イオ、イオ、居る?」
「朱莉」
海からイオが顔を出し、わたしは安堵のため息を漏らした。照明に照らされたイオの顔は、いつもより険しく見えた。
「よかった。無事だったのね」
「ねぇ朱莉。……あたしと、一緒に来ない?」
「え?」
イオが何を言っているのか、よく理解できなかった。
ブルーの瞳が、真っすぐわたしを見つめている。
「人魚だ! 人魚が居たぞ!」
不意に背後から声が聞こえ、振り返ると男が数人立っていた。
手には銛やロープなどが握られている。まさか、それでイオを捕まえるつもりじゃ――。
「どけ! 人魚は俺のモンだ!」
銛を持った男に勢いよく突き飛ばされ、わたしは尻餅をついた。手のひらを擦りむき、血がにじむ。
男たちは次々と海へと入り、「人魚はどこだ!」と荒々しい声を上げた。
血の気が引き、わたしは足が痛むのも無視して海へと駆け寄った。
「止めて! 逃げてイオ――」
「ぎゃあ!」
悲鳴が上がった。それは、海へ入って行った男の声だった。
「ぎゃあ! 俺の足が、足が――」
「いてぇぇぇ! 腕を持っていかれた!」
何が起こっているのか分からなかった。ばしゃん、ばしゃんと水しぶきが上がり、それと同時に男たちから悲鳴が上がった。
やがて、海から何も聞こえなくなった。
「い、イオ……?」
わたしはふらふらと頼りない足取りで海の方へと近寄ると、腕を何かに引っ張られ、海に落ちた。
擦りむいた手のひらに海水が染みる。
「朱莉、大丈夫?」
目を開けると、イオが目の前に居た。擦りむいた方の手首を握っている。そして、そのまま手のひらをゆっくりと舌で舐めた。
「な、何して――!?」
イオが舌を這わせると、じんじんと鈍く痛んでいた手のひらから、痛みが消えていく。
「これでもう大丈夫ね」
イオが笑う。その笑顔が、何だか恐ろしく見えた。
さっきまでイオを捕まえようとしていた男たちはどこへ行ったのだろう。あまりにも静かな海に、ぞくぞくと背筋が震えた。
「あの人たち、あたしを捕まえようとするばかりか、朱莉にまで乱暴するなんて」
「ね、ねぇ……あの人たち、どこ行ったの……?」
「朱莉が気にする必要はないわ。ねぇ、あたしと一緒に行きましょ? 二人で生きていくなら、もう寂しくなんてないもの」
イオはずいぶんと上機嫌だった。
混乱する頭で何とか言葉をしぼり出そうとするけれど、喉が詰まったように言葉が出なかった。
嬉しそうに笑うイオが、歌を口ずさむ。その歌は、今まで聴いたどの歌よりも上手だった。心が震え、勝手に涙が出てくる。
そして歌を聴いているうちに段々と思考に霞がかかったようにぼんやりとしてくる。
眠くも無いのにまぶたが下りる。そうして真っ暗になった世界で、イオの歌だけが聴こえていた。
「さぁ行きましょう朱莉。これからはずぅっと一緒よ」
手を握り、ヒレを動かし沖の方へと一緒に泳いて行った。