8 バートン診療所の「アン」
バートン診療所に住み込みで働く「アン」は、気立ての良い娘だと、ポルカではもっぱらの評判になっていた。
バートン医師の妻のサラが、妊娠中で思うように動けないために急遽雇った少女で、ついこの間の夏の真っ盛りに18歳の成人を迎えたばかりの年若い女性だ。
サラの代わりに炊事洗濯等の家事をこなし、合間を縫って、診療所の助手も買って出ている。医療の心得はないので、診療所にやってくる患者の氏名や症状を聞き取ったり、診療代金の収受を受け持ったり、いわゆる雑用の業務だけだ。その中には、時たま常連の患者とのおしゃべりも業務に入っている。同じ話を繰り返す老人の話を遮らず疎ましがらず、誠実に耳を傾ける彼女を、町の年寄り連中は当然のことながら可愛がるようになった。
診療所のアン、ことアシュリーが、バートン診療所に身を寄せてから、既に数ヶ月が経っていた。
アンという名前は、サラに名前を聞かれたアシュリーが咄嗟に口からついて出た偽名だ。あの積荷の事故で助けた女性の娘と同じ名前なんて、我ながら苦しいとアシュリーは思っていたが、すんなり信じてもらえた。……と、いうことにしておく。
朝食の準備でかまどに火を入れながら、アシュリーはふと、キッチンの窓に視線を送った。このキッチンを使うようになってから数か月、何度も見た風景だ。町並みの遠くに見えるのは、隣国との境にある峠だ。
昨夜、あの峠のてっぺんで、大きな炎の柱が立ち上がり、そして一瞬にして消えた光景をぼんやりと覚えている。あれはやはり、夢だったのだろうか。今、朝の光に照らされている峠の木々たちは何食わぬ顔で風に揺られていた。
あの峠で魔獣の出没が未だに落ち着かないから、アシュリーはこのポルカから隣国へ渡ることができないでいるのだ。早く討伐が完了してほしい。そんな思いをこの数日は毎日抱えていた。
「おはよう、アン」
物思いに沈む彼女の背中に、明るいお日様のような声が降ってきた。サラだ。
「おはようございます、サラさん」
「いつもありがとう。でも、もうこんなに早く起きなくていいのよ? 最近は私も、朝調子が良いんだから」
「何言っているんですか、油断は禁物ですよ。それに私、料理が好きなんです。やらせてくださいよ」
サラは、出会った当初よりも少し膨らんできたお腹を圧迫しないよう、ゆったりとした部屋着を着ていた。つい最近まで、食べ物を見たり匂いを嗅いだりするだけで吐き気をもよおしていた彼女は、少し痩せたような気がする。どうしたものかとジムと共に気を揉んでいたアシュリーだったが、この数日は今までが嘘だったかのように食欲の権化と化していた。
「今朝も体調は大丈夫ですか?」
「うん。もうピークは過ぎたと思う。あとは産むまで二人分、食べるわよ!」
拳を突き上げて陽気に応えるサラに、アシュリーは自然と笑みが溢れていた。ふとした瞬間にこれからを不安に思い塞ぎ込んでしまいそうになる彼女を、サラの明るさが何度となく掬い上げてくれていた。
「お、女性陣はおそろいか。おはよう、サラ、アン」
盛大に寝癖をつけたまま現れたジムを見て、サラとアシュリーは顔を見合わせ、同時にぷっと吹き出してしまう。この家の大黒柱であるジムは、優秀な医師ではあるが、時たま見せる隙がとてもチャーミングだ。身長も高くがっしりとした体型に強面の顔が相まって、第一印象こそ怯えてしまっていたが、今ではすっかり心から信頼している雇い主だ。
ジムには初対面の時に一度「治癒魔法」について尋ねられたが、あれから一度も触れられていない。
「いつものことながら感心するわ。アンは料理も手際が良いのねえ」
ダイニングテーブルに並べられた朝食を前に、サラは感嘆の声を上げた。
ワンプレートに焼きたてのパンケーキ、サラダ、目玉焼き、カリカリに焼かれたベーコンが乗っている。
「母が早くに亡くなったので、家事全般は私の仕事でしたから」
サラの目の前の席に座りながら、アシュリーは答えた。
サラやジムには、平民の家庭で育ったように素性を偽っているが、子供の頃に母が亡くなったと少しの真実を混ぜて話してある。
貴族令嬢であるアシュリーが家事全般をこなすことができるのは、亡き母親の遺した「自由に生きろ」という遺言が発端だ。いつか家を出て自分の力で生活できるよう、幼い頃から、時間を見つけては使用人から炊事洗濯の手ほどきを受けてきたのだ。この診療所に身を置き始めてからは、更にその熟練度が増したようだ。
「診療所の経理関係も助かっているよ。俺もサラも計算は苦手だからな」
アシュリーの淹れたコーヒーを美味しそうに啜りながら、ジムが横から話に加わってきた。
「買い物も昔から私が行っていて、お金の計算は慣れているから……昔から計算は好きだったんです」
貴族としての基礎的な学習は家庭教師から全て習っており、診療所の日々の会計程度なら難なくこなすことができている。平民の女性では普通ではなかったかとアシュリーは少し冷や汗をかいていた。
「買い物といえば……そうそう。昨日ね、大通りの商店の方に聞いたんだけど、アンのことを『聖女』とか言って王都で言いふらしている輩がいるらしいわよ?」
「聖女ぉ? なんだそりゃ」
「聖女? なんですかそれ?」
サラの突然の話題に、ジムもアシュリーも同じような顔をして素っ頓狂な声を上げる。
「王都に遊びに行っていた人から聞いたらしいの。いま王都では、ポルカに聖女が現れて傷ついた人を癒しているんだって噂になってるんだって! どうも夏の初めにあった積荷の事故とアンのことを絡めて話しているみたいなの。商店の方もね、『確かにアンちゃんは聖女みたいに優しくてよく気がつく良いお嬢さんよねえ』なんて、笑ってたわ」
面白おかしく話をするサラに笑いかけられ、アシュリーはぎこちなく微笑み返した。
きちんとした微笑みを浮かべていられただろうか。彼女によってもたらされた話題は、アシュリーの背筋をヒヤリとさせるには十分過ぎた。
アシュリーがあの事故で一人の女性を治癒魔法で助けた場面を見た者はおそらく複数いたが、幸か不幸か、「治癒魔法」に気付いた者は誰もいないようだった。ジムを除いては。
その証拠に、この診療所で働き始めてからこれまで、治癒魔法で病気や怪我を治してほしいという患者は現れなかったし、話題にも上らなかった。
アシュリーは不思議なこともあるものだと首を傾げていたが、全てジムとサラが周囲に説明していた結果だ。「彼女は事故に遭った女性を介抱していただけであり、極度の緊張状態のために気絶してしまっただけなのだ」と。
そうとは知らないアシュリーは、サラの話題で、言い知れない不安を抱いていた。
やはり治癒魔法を使ったところを見られていて、なおかつそのことが発端で、王都で噂にまでなっている。たかだか噂程度で国が治癒魔法士を探しにこんな辺境まで来るわけがないし、ましてや、父親が噂の少女と家出した娘を結び付けてここまで追いかけてくるわけがない。早くなる動悸に気付かぬふりで目を逸らし、アシュリーは深くため息をついた。
「アン? 大丈夫?」
「あ……ごめんなさい」
しばらく物思いに耽っていたようで、朝食を食べるペースが落ちていたようだ。
「ごめんね。嫌よね、自分のことが知らないところで噂になってるなんて。無神経だったわ、ごめんなさい」
サラがその形の良い眉を下げながら申し訳なさそうに言った。慌てて頭を横に振る。
「いいえ、違うんです。なんとなく今朝は……その、寝不足で。ちょっとぼーっとしちゃっただけなので」
いつも気にかけてくれているサラを不安にさせないように、アシュリーは必死で言葉を紡いだ。その様子を見ていたジムが横から話しかける。
「今日は診療所も休みだし、アンも家のことはいいからゆっくり過ごすんだぞ」
「でも……」
「ちゃんとした休み、久しぶりじゃない? 部屋で休んでてもいいし、どこかにお出かけしてもいいのよ?」
「急患が来た時は遠慮なく手伝い頼むからさ、な?」
雇い主二人からの休め休めの圧力に耐え切れず、アシュリーはいつの間にか頷いており、なぜか給料で自分の新しい服を買ってくるという約束までさせられていた。
物欲の乏しいアシュリーは、今までもらっていた給料を何に使うこともなくただ貯めていた。毎日同じような服ばかり着ている彼女に何度となくサラから苦言が呈されていたが、ここぞとばかりに新しい服を調達してこいとの指令が下ったというわけだ。
「それではその……行ってきます」
2人揃ってニコニコと満面の笑みを浮かべて見送ろうとしているジムとサラを前に、アシュリーはなんとはなしに気恥ずかしい気持ちになっていた。
普段は汚れてもいいように飾り気のないブラウスとスカートにエプロンを着けて過ごしているが、早速お出かけするんだからと、サラに手持ちの服を並べさせられ、一番状態の良かったワンピースを着ることになったのだった。
家出をする前から、社会勉強と言い訳を並べて幾度となくお忍びで市中を歩いていたが、その時に愛用していた「裕福な家庭のお嬢様風」ワンピースだ。レースの丸襟がついた若草色のワンピースで、見る人が見れば繊細な手作業で作られたものだとわかる。
「本当はついて行きたいんだけど、急患があったらジムの手伝いをしないと行けないから……。ああ、それにしてもかわいらしすぎて大丈夫かしら。不審者に拐われないといいんだけど」
「サラさん、私、これでも成人しているんですから。小さい子供じゃないんですよ」
「サラの言うとおりだ。アンは少し世間知らずなところがあるからな。大通りだけで買い物するんだぞ。裏の路地には絶対に入るなよ。分かったか?」
「ジム先生まで……」
成人したてとはいえ、一人で国境を越えようとしていた自分に対して心配しすぎだと、アシュリーは内心呆れて雇い主二人に苦笑いを向けた。
「お休みをいただき、ありがとうございます。しっかり楽しんできます」
軽く一礼を残し、一足しかない靴で足取り軽く診療所から歩き出した。
診療所が面している石畳の通りを歩きながら、なんとなく空を見上げてみる。
朝から雲ひとつない青空が広がっており、夏の終わりが近付く前触れなのか、少しだけ風が涼しく感じた。
ああ、もう夏も終わるんだな、という感慨と少しの焦りが一瞬だけ胸に去来する。その直後、今朝のサラやビルの心配そうな表情とにこやかに送り出してくれた姿を思い出し、アシュリーはふるふると軽く首を振った。心中に広がる曇り空を晴らすように。
まずは今日の任務として彼らに言い付けられた洋服を調達するか、と脳内で作戦を立てていると、突然、ぬっと影が差し、目の前に壁が現れた、かのように感じた。
慌てて、足を止める。どうやら壁ではないらしい。
見上げると、壁のようにそびえ立つ長身の男性と目が合った。
「こんにちは、お嬢さん」
繊細な絹糸のような栗色の髪をサラリと揺らしながら、その男性はアシュリーを覗き込むように首を傾けた。こちらに向けられた瞳は、つい先ほど見上げていた空の青さと同じくらい澄んでいて、驚いて目を丸くするアシュリー自身の姿まで映り込んでいるかのように感じた。
次話からアシュリーとウィルフレッドで交互に視点が代わっていきます。