7 診療所の少女
漆黒の夜闇の中で、炎の柱が渦巻くように天に昇っていく。一瞬の静寂ののち、あたり一面に広がっていたはずの森林は勢いよく燃え始めた。
夜の闇を煌々と照らす炎に囲まれながら、実に涼しい顔でその男は立っていた。
この近辺を新たな根城にしていた魔獣の一団は、おそらく先ほどの攻撃で根絶やしにされたのだろう。数日に渡りこの魔獣討伐を指揮していたエルムは、目の前で繰り広げられた圧倒的な魔力量による一掃攻撃を呆然と見つめることしかできなかった。
これが、当代随一と呼ばれる最強の魔術師の力なのかと。
いつだったか、彼の上司がぼやきながら言った言葉を思い出し、背筋に悪寒が走った。曰く、あの男1人いれば魔術師団は必要ないのだと。たった1人の力が国を守るのなら、その逆もあり得る。あの男はたった1人でもこの国を滅ぼすことさえできるのだ。
攻撃を仕掛けていた当の本人、ウィルフレッドが、まるでことのついでのように右腕を振ると、今度は燃え盛る炎を落ち着かせるように、天から大量の水が降ってきた。
呆けていたエルムを始め、同じ隊の隊員全員がその水を盛大に被ってしまう。
「どわあああ!」
金縛りのように動けなくなっていた体に浴びせられた恵みの雨で、エルム達はようやく我に帰る。ウィルフレッドの放った攻撃魔法の圧倒的な強さに呆気に取られていたのは、エルムだけではなかったようだ。
「あ、すいませーん! まさか偉大なる隊長殿に限って、ボーッとしていて回避できないなんて、そんなダサいこと起きるわけないと思っていたんですー!」
エルム達の様子を遠目に見ていたウィルは、よく通る澄んだ声で、嘲りを含めた謝罪の言葉を叫んだ。昨日この隊と合流した際に、散々若造扱いされ、掃討作戦の立案に関わらせてもらえなかったことに対する意趣返しもあったのだ。
一方、自身の子供と同じくらいの年頃の若者に、明らかに馬鹿にされたエルムだったが、憤慨する気力すら起きてこなかった。逆立ちしてもあの男には敵わない、それが骨の髄まで沁み渡るには十分な光景だった。
先ほどまで青々と茂っていた森林は、見るも無惨な焼け野原になってしまっていた。
「それじゃあ、僕はこれで任務終了ってことでー。後片付けと原状回復、よろしくお願いしまーす!」
爽やかな笑顔で面倒ごとをエルムに全て押し付けたウィルフレッドは、そのまま森を出ようと足を進めていた。慌ててエルムはその背中に声をかける。
「おい! 待て、ウィル! まだここの任務は終わってないぞ!」
「僕、次の仕事があるんで~。お疲れ様で~す」
小隊長であるエルムの静止も聞かず、ウィルフレッドはヒラヒラと後ろ手に手を振り、振り返ることもなくその場を去っていった。
上官の指示に従わないなど、入団して間もない新米でも知っている常識を尽く無視する若造の背中を、エルムはなす術もなく見送るしかなかった。
月の明かりすら届かない森の中の峠道は、足元も覚束ないほど暗く、常人であれば進むことを躊躇う道中だった。
しかし、ウィルフレッドにとってはさしたる障害にもならない。真っ暗な峠道を歩いていたはずの彼の体は、一瞬にしてその場から消え去り、その次の瞬間に降り立ったのは、ポルカの中心部にほど近い路地裏だった。繊細な魔力操作と常人では一日分に匹敵する魔力を消費してしまう転移魔法を、息をするように日常生活で使いこなせる者は彼ぐらいしかいない。
とにかくさっさと任務を終わらせ、この退屈な片田舎から脱出して王都に帰るのだ。
昨日、ポルカに着いたばかりの彼の脳内を占めているのはただそれだけだった。王都で誰かが帰りを待っているわけでもないが、こんな田舎町にさしたる娯楽もないと踏んでいる彼は、退屈から逃れるためにも王都への帰還を切望していた。
魔獣掃討の任務はつい先ほど終わらせた。追加の任務も早々に片付けてしまいたい。噂の真偽を確かめるためにも、まずは情報収集だ。
隣国との交易窓口でもあるポルカは、田舎とはいえ、商人や出稼ぎの労働者の出入りが多いことから、朝方まで営業する飲み屋が数軒ある。しかしそれは通常の場合である。隣国へのアクセスがなくなったここ最近では、夜中まで営業している店はほとんどない。
既に夜半過ぎということもあり、大通りの店は全て閉まっていた。
「さすがにこの時間じゃあ、どの店も閉まっているか……」
やれやれと肩を落とし、脳内に閉まってある引き出しから、ポルカの街中の地図を引っ張り出してくる。
大通りから外れた裏の通りには、大っぴらには営業できないようなグレーゾーンの店があるものだ。迷いのない足取りで路地裏に入り込み、いくつかの角を曲がったところで、一軒のしなびたバーの明かりを見つける。
「おっ、見ーつけた」
ウィルフレッドは機嫌よく、更に言うと足取りも軽く、その店の扉を開けた。
すると、店内にいた客の数人がこちらに視線を向けてくる。全員、男だ。そしてどの客にも着飾った化粧の濃い女が侍っている。その一瞬の邂逅で、彼はこの店の趣旨を十二分に理解し、笑みを深めた。
「よう、お客さん。一人かい?」
カウンターのすぐ手前に立つ図体の大きな男が声をかけてきた。風貌からしてこの店の店主だろう。まっすぐその男の元まで近寄り、さっさとカウンター席に腰を掛ける。カウンターには他の客はいなかった。
「ああ。ついさっき大仕事を終えたばかりなんだ。キッツイのを一杯、頼むよ」
「この時間にか? そいつはお疲れさん」
店主は背後の棚から埃の被った年代物の蒸留酒の瓶を取り出し、雑に放り投げてあったかのようなグラスに注ぎ込むと、ウィルフレッドの前に差し出した。
「あんたもしかして、魔術師団かい? その制服」
「あー、頼むから俺が来たことを誰にも言ってくれるなよ? 隊長にバレたら懲戒もんだからな」
その隊長をつい先ほど濡れ鼠にしてきたことはおくびにも出さず、ウィルフレッドは肩をすくめた。
話し方や態度を平民の男に見えるように注意深く振る舞う。平民への擬態は、この数か月で王都の酒場や賭博場を出入りしたことで十分身についている。
「そうするとなんだい、そろそろ魔獣討伐、ってやつは終わるのかい? にいちゃん」
「まあ……そうだな。王都から強力な助っ人が来たらしいからな」
「そりゃあ助かる! 大通りのガラーンとした雰囲気、見たか? この街はお隣との行き来が無くなっちまったらただの田舎町だからな。俺たちにとっては死活問題よ」
ふーん、と店主の話を話半分で聞きながら、出されたグラスにとりあえず口をつける。確かにある意味で「キツイ」。全力ダッシュからのストレートアッパーを食らったかのような、全く含みも旨味もないアルコールのピリリとした刺激だけが舌にのり、ウィルフレッドは思わず眉をしかめる。酒を楽しみに来たわけじゃない、と内心で自らを慰めたのだった。
「――ところで店主、『ポルカの聖女』ってのを知ってるか?」
これ以上この安酒を飲みたくない一心で、ウィルフレッドは早急に本題に入ることにした。
「『ポルカの聖女』ぉ? なんだそりゃ」
「……知らないのか? 王都で噂を聞いたんだが……」
店主は首を傾げるばかりで、有用な情報を持っているようには見えなかった。
ハズレか、と見切りをつけたウィルフレッドが席を立とうとすると、強烈な香水の匂いと共に、厚化粧をした女が突然隣に座ってきた。
「いやだ、おにいさん。そんなガキの話はやめて、夜にふさわしいお話をしない?」
無遠慮にもウィルフレッドの腕に手を絡ませ、豊満な肉体を押し付けてくる女に、不快感がそのまま出ないよう、ポーカーフェイスを繕う。
「……ガキ? あんた、『ポルカの聖女』って誰のことか知ってるの?」
努めて冷たくならないよう、最大限の配慮で薄く微笑んでみせたウィルフレッドに対して、女は何を勘違いしたのか、彼の美貌にぽっと頬を赤らめると、更にその体を寄せてきた。
「この町の診療所のガキのことよ。聖女なんて、周りがチヤホヤ言っているだけね」
「診療所?」
「ああ、あの嬢ちゃんのことか」
女の話を聞き、ようやく店主が合点がいったと話し始めた。
「夏の初め頃だったかな。乗合馬車の停留所で馬車の積荷が崩れて人が下敷きになってよ、そりゃあ大騒ぎになったんだ。そん時に何か不思議なことが起こったってのは聞いたことがあるぞ」
「どーせ、その場にあの子がいて助けるのを手伝ってたとか、そういう話でしょ? だって、下敷きになった人は元気だったらしいじゃない。大した事故でもなかったのよ。それをみんなが騒いじゃって……」
「だってよう、あの嬢ちゃん、いつも楽しそうにお遣いしてて……可愛らしい子なんだぞ」
「はっ、気持ち悪っ。いい歳したおっさんが!」
「なんだとぉ?」
客を放っておいてやんのやんのと言い合いを始めた二人を尻目に、ウィルフレッドは今得た情報を整理していた。
夏の初め頃の積荷の事故。そしてその場にいた少女。王都の噂が目立ち始めたのは夏の終わりだから、時系列としては辻妻が合う。もしも、その診療所の少女が「ポルカの聖女」だとして、この二人の話ではただの噂に過ぎなかった、ということになるが――。
彼の思考は、目の前の上客を逃さないようキツく体を寄せてきた女により中断を余儀なくされた。
「ねえ、お兄さん。あのガキのことはもういいでしょう? アタシと夜のお話、しましょう?」
「悪いけど俺は――」
「あなたみたいに素敵な人、アタシ会ったことないわぁ。特にその銀髪、とっても素敵……」
うっとりと恍惚の表情で彼を見上げた女は、銀髪の男のその青い瞳に浮かぶ鋭利な殺気に当てられ、一瞬で表情を凍り付かせる。
ウィルフレッドは口端だけクッと上げると、彼としては最大限に配慮したつもりの静かな声で言葉を発した。
「俺はねえ、あんたのような頭空っぽのやつを見ていると、心底羨ましくなるんだよね。さぞかし生きやすいんだろうな。……いっそのこと、本当に空っぽにしてやろうか?」
恐怖で凍りついたように動けなくなっていた女は、ついには全身を震わせ始めた。拘束の緩んだ腕を引き抜くと、もはや彼女の様子に一瞥もくれぬまま、ウィルフレッドは金だけカウンターに置くと、さっさと立ち上がった。
「ごちそうさん」
店主の答えを聞く素振りも見せず、ウィルフレッドはそのバーから足早に出ると、さっさと夜の闇に紛れるように、その場を去った。
今夜は雲一つない月夜だ。
街灯の明かりすら入らない真っ暗闇の路地裏を歩いていると、既に明かりの消えた店の窓が目に入る。ほのかな月明かりがうっすらとウィルフレッドの姿を映し出していた。色彩のない姿でも、その銀色が月明かりを反射し、煌めいている様は容易に想像できた。
――忌々しい。
一つ舌打ちをついたウィルフレッドは、パチンと指を鳴らす。次の瞬間、彼の銀髪はその輝きを失い、ありふれた栗色の髪に変化していった。
身の内から湧き出る苛立ちを隠すことができなかった。
最初からこうすべきだったのだ。田舎町だからと油断し、素の髪色を晒してしまった。この王国内に銀髪の男など一人しかいないというのに。強大な魔力と引き換えに神から押し付けられた不幸の烙印を身にまとう男なんて。
次話はまた主人公視点に戻ります。