36 交渉成立
「僕らのこれからの関係について、お互いの認識のすり合わせが必要じゃない?」
告げられた言葉の意味がすぐには分からず、疑問符を浮かべながらウィルを見上げた。
至近距離でウィルの青い瞳に見つめ返される。その瞳に見間違えようもない熱がこもっていることに嫌でも気付いてしまう。
「あの時……、エリックと僕が訓練室で話していたこと、聞いてたんだろう?」
「……え」
最後の魔術訓練になるはずだったあの日、勝手に盗み聞きしていたことをズバリ指摘され、思わず口ごもる。
けれど、最早、この人を相手にして隠しておけるわけもないのだと思いなおし、やむを得ず小さく頷いた。
「……今更、ただの弁解になるだけなんだけど、『治癒魔法士だから大切だ』って僕が言ってたのは、まだ君本人に伝えていないことをエリックに言いたくなかったっていう僕の勝手な都合で……詰まるところ、かっこつけてただけなんだよ。……結果的に今すっごいダサいことになってるけど」
顔をしかめながら言葉を続けるウィルの目元が、次第に赤く染まっていくのが見えた。
紅潮したウィルの珍しいご尊顔に不覚にも見惚れていたら、ぎゅっと手を強く握られ、反射的にびくりと体を揺らしてしまう。
「君が好きなんだ」
ウィルはまっすぐわたしだけを見つめて言った。
冗談だとか、またからかっているだとか、そんな言葉も出てこないくらい、ウィルの瞳から、繋いだ手から、疑いようのない熱を感じる。
「『治癒魔法士』だから大切なんじゃない。馬鹿がつくくらいお人よしで、後先考えずに突っ走る向こう見ずで、一度決めたら梃子でも動かない頑固な君だから、守りたいと思ってた。これからも、守りたいんだ。そんな君が……どうしようもなく愛おしいんだ」
瞬きを忘れたわたしの瞳は、ただ目の前の青い瞳を吸い込まれるように見つめ返していた。
馬鹿とか向こう見ずとか頑固とか、およそ誉め言葉とは思えないような言葉の羅列なのに、それが堪らなく嬉しいのだと心が叫ぶ。
わたしを、治癒魔法士じゃないただのわたしを、ウィルが見ていてくれた証なのだ。
じわりと視界が滲む。ウィルの言葉が渇いた砂漠に染み込む優しい雨のように降り注ぐ。
ああ、いつだってこの人は、一番欲しい言葉をくれるんだ。
「――僕の自惚れじゃなければ……君も同じ気持ちなんでしょう?」
ウィルの形の良い眉が少しだけ下がり、乞われるように見つめられた。
――わたしも。
感情の大波に飲まれたわたしは、浮かんだ言葉を口に出すことができず、くしゃりと顔を歪めた。
応えなきゃ。気ばかり急いて何も出ない。喉から嗚咽しか出てこない。
なんとか頷いた拍子に、ぽろりと涙が零れ落ちた。
「アシュリー、僕らのこれからの関係なんだけどさ……」
ウィルの手が頬に触れた。きめの細かい滑らかな指が頬を伝う水滴を優しく拭ってくれる。
「師匠と弟子とか同僚とかそういうんじゃなくて……恋人、とかどう?」
「こい……びと……?」
「うん。……あ、君のことだから変な勘違いをしないように言っておくとね、恋人っていうのは相思相愛の男女の特別な関係で――」
「……っもう、流石にわかります……っ」
ウィルが恋人の定義を大真面目に語り始めるから、何だかおかしくなってしまい、吹き出しながら言葉を遮った。泣き笑いの状態で見上げると、甘く蕩けるような笑みを浮かべたウィルと視線がかち合う。
じゃあさ、と形の良い唇が囁く。
「恋人特権が欲しいんだ。君に触れても良い特別な権利を、僕にちょうだい?」
「――わたしも。……わたしも欲しい……っ」
「――っしゃ、交渉成立だ」
ウィルの嬉しそうな声が聞こえてきたと思ったら、次の瞬間には彼の腕の中に閉じ込められていた。
突然のことで緊張して身を竦めてしまったけれど、すぐ近くで脈打つウィルの心音がわたしの鼓動の速さといい勝負だということに気付き、少しだけ緊張の糸がほぐれる。
おずおずと両手を彼の背中に回した。すると、競うように更に強く抱きこまれる。
思いを受け止めてもらった安心感と高揚感が同時に身体中を渦巻き、駆け巡っていく。
感情に突き動かされるまま、ウィルのがっしりとした胸板に顔を押し付け、彼の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
愛おしさで胸がぎゅうと切なくなる。苦しい。
……好き。きっと本人には聞こえていないだろうけれど、小さな声で吐き出すように呟いた。
「――おい、押すなよ」
「いやいや見えないからさ……」
「ちょっ! やばいって……!」
「なっ……うわああああ!」
賑やかな叫び声が聞こえてきた。
その次の瞬間、すぐ後ろで何人もの知った顔が雪崩を打って廊下に投げ出されてきた。
突然の闖入者に驚き、抱きついていたウィルの体から飛びのく。頭上で舌打ちが聞こえたような気がして見上げると、ウィルが端正な顔を歪めて不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「……早いわ。もうちょっと空気読めよ」
「へっ……? はっ……?」
ウィルは何食わぬ顔で、驚いて目を瞬かせているわたしの肩を自然に持つと、廊下に投げ出された第一部隊の同僚たちに冷たい視線を送っていた。
よく見ると彼らの背後は下の階に続く階段で、状況から推測するに、階段の柱を壁にして覗き見していたのだろう。かつて人の会話を盗み聞きしたわたしが人のことは言えない……言えないけれど……、恥ずかしいわ!
「どうせ団長かメイナード隊長が、今からこの辺に来れば面白いものが見れるとか何とか言ったんだろう?」
「さっすがウィル!」
「よっ! 名探偵!」
「いやー、ほんと、良いもん見れたわー」
「観劇みたいに感動的だったよなー!」
口々に感想を言い合っては笑顔で拍手を始めてしまった彼らを前に、一体どんな顔をすれば良いやら分からなくなったわたしは必死でウィルの後ろに隠れようとするけれど、彼の手がガッチリと肩を掴んで離さないから動けない。なんてことだ。
「アシュリー! 良かったねー!」
「ベティ!」
群衆を掻き分け現れたベティが、満面の笑顔で抱きついてきた。
「先輩たちが楽しそうに団長室に行くって言うからついてきてみたんだよ。来て良かったー!」
「わたしは良くない……!」
「ウィルフレッド様は計画通りって顔してるよ? アシュリーはもう自分のものだって言いふらす手間が省けた、くらい思ってるんじゃないの?」
ウィルに聞こえないようにベティがこっそり耳元で囁いた。
2人してウィルを見上げると、確かに悪い顔をしている。わたしたちは顔を見合わせて吹き出した。
「――ウィルフレッド様。あたしの大親友をまた泣かせたら、今度は百合展開が待ってますからね」
「……百合?」
ベティが自信満々にウィルに告げた言葉の意味がよく分からず首を傾げていると、言われた当人は「肝に命じるよ」と軽く首をすくめた。
「外野がうるさくなったな。……そろそろ潮時か」
ウィルが一言そう呟くと、更に強く肩を抱き込まれ視界が彼の胸元でいっぱいになった。
その次の瞬間、ざわついていた群衆の声が掻き消え、耳元を冷たい風が吹き抜けていった。
ウィルの体から離れ、周囲を見回すと、さっきまで本部棟の最上階にいたはずが、中庭に転移していた。
恥ずかしい場面を目撃されていた現場から連れ出してもらってホッと安堵する。
とはいえ、この人も共犯だったな……とジトリとウィルを見上げた。
「……いつから気づいてたんですか?」
「ん? そうだな……君が泣き始めちゃったくらいからかな」
「それならそうと言ってくれれば……」
「えー? これでもあの場では我慢したんだよ?」
「我慢……?」
疑問符を浮かべるわたしを先ほどとは一転して機嫌良さそうに見つめながら、ウィルがまたわたしの頬に指を滑らせる。
残っていた目元の水滴をすくうと、そのまま形の良い親指が唇をなぞるように触れてきた。
「――っ!」
「ここ。塞いじゃおうかなって思ったけど、我慢した僕を褒めてよ」
妖しく笑みを浮かべる蠱惑的な眼差しに射抜かれる。
た、食べられちゃう……!
生存本能がウィルと距離を取れと叫んでいるのに、がっしり腰に腕を回されて動けない。
ああ……万事休す。
それもそのはず。最強の魔術師様に身も心も捕らえられたわたしが、抵抗なんてできるわけがないのだ。
「ねえ、アシュリー。僕ら恋人になったんだから、あの時のキスのやり直しがいるよね? 僕は初めてのキスが人工呼吸なんて嫌だよ?」
「えっ……えっ、今?」
「ああ、大丈夫だよ。こんなところで魔力のやり取りはしないから。それはまた今度。誰も邪魔が入らないところで、ね」
「また今度ってそん……っ」
ああもう我慢できない、とウィルが囁く声が最後に聞こえた。




