32 沼の底でみる夢 ≪ウィル視点≫
暗く深い沼の底へなすすべもなく落ちていく感覚だった。湖面ははるか遠く、暗い。息もできない。
視界を覆いつくす闇の中で、母の声が聞こえた気がした。
――なぜ貴方の髪色は銀色なのでしょうね。
もう顔すら覚えていない母の言葉だけが、いつまでも耳の奥に染み付いている。時には哀れみを、時には憎しみを浮かべて、彼女はいつも、この銀髪を嘆いた。
父は自分と違う髪と瞳の色をした子供を自分の子と認めず、僕を疎んだ。
不貞を疑われた母は、原因となった僕を愛することもできず、次第に心を病んでいった。
父にも母にも愛されない可哀そうな子供は、不幸にも強大すぎる魔力を持っていた。感情の赴くままに攻撃魔術を撒き散らす子供を、使用人の誰もが恐れた。接触は最低限に、なるべく目を合わせることなく、腫れ物に触るように。
そこにいるのに、存在を認めてくれる者などいない。僕は誰にも望まれていない。物心がつく頃には、それが世界の全てだったのだ。
この窮屈で鬱屈とした世界の外へ、バランティーニ侯爵様が連れ出してくれた。
僕に居場所を与えてくれた。帰ることのできる家を。僕の存在を認めてくれる居場所を。
侯爵様が弟子だと連れてきた子供を、魔術師団の団員たちは受け入れてくれた。
ジェイコブは僕に体術を教えると言って、公爵家の肩書も関係なく何度も投げ飛ばしてきたし、僕の魔力量の多さに目をつけたエリックは、人を実験材料のようにして無茶な要求をしてきた。子供相手に褒められた態度ではないが、それでも僕は、人として扱ってもらえることに安心していた。
初めて安心できる場所を見つけて安堵していた僕は、偶然聞いてしまった社交界の噂に愕然となった。バランティーニ侯爵が僕を養子にして後継に据えようとしている、と。侯爵家は実子のセドリックが継ぐことになっている。ただの噂だ。でも、僕の存在が侯爵家に余計な不和をもたらしてしまうのは火を見るより明らかだった。
居場所を与えてくれた侯爵様に迷惑をかけたくない。魔術学院の入学と同時に、勝手に入寮を申し込んで、侯爵家を出た。また、一人になった。
誰にも歯向かいません。
脅威にはなりません。
国の役に立ちます。
強すぎる力を持つ僕は、敵を作らないよう振る舞わなければならない。いつしか、「理想的な最強魔術師」の仮面を被ることが染み付いていった。
そんな理想的な姿で振る舞っても、命を狙ってくる者は後を絶たなかった。
初めて人の命を奪った時、僕はもう引き返せない道の途上にいると気づいた。何をしてもどこに向かおうとも追ってくる、「お前は要らない」という声と、一生、戦い続けなければならないのだと。
仮面の下で、僕の内側は次第に空虚になっていった。一体、なんのために生きているのか分からなくなった。
虚空を掴んでいた右手に、じわりとほのかな熱が灯った。
右手を起点とした熱は次第に体中を巡り始める。そこでようやく僕は、ひどく凍えていたことに気付いた。駆け巡る熱は、誰よりも何よりも大切で、愛おしい人の魔力だった。
……アシュリー。
僕が何者かも知らない君は、ただ僕の魔術に目を輝かせ、感嘆の声を上げていた。恐がることも、怯えることもなく。
君が僕に生きる意味を与えてくれた。命乞いをするように生きてきた僕が、ただ一つ望んだ。君の平穏な日常を守りたいと。
だというのに、独りよがりな僕の思いを吹き飛ばし、君は再び僕の前に現れた。平穏が欲しいのではない。自分の望んだ道を歩きたいのだと。魔術を教えてほしいと。
――「ウィルさんみたいな銀髪に、わたしもなりたいです」
誰よりも僕自身が疎んできた、この身に降りかかる不幸の根幹である銀髪を綺麗だと笑い、僕のようになりたいと言う。
そのまっすぐな言葉が、含みのない笑顔が、僕の心を掴んで離さない。
……死にたくない。君にまだ伝えていないんだ。
唇に柔らかな感触を感じた。鼻腔をくすぐる甘い香りとともに、唐突な多幸感に襲われる。
重しを置かれているかのように錯覚してしまうほど、瞼が重い。次第にうすぼんやりと視界が開けてきた。
「ウィルさん……!」
吐息がかかりそうなほどの至近距離に、僕の女神がいた。
頭に霞がかかったようで記憶が混濁している。先ほどまで感じていた唇の感触と、この距離。
これは夢だろうか。……いや、夢に違いない。恋愛経験値ゼロの彼女が自分からキスするなんて。……どうせ夢なら、もう少しだけ欲張ってもいいか。
「アシュリー……もっと」
「へっ……ぁ」
都合の良いことに左腕がやすやすと動いた。彼女の柔らかな栗色の髪に触れながら、今度はこちらから唇を寄せた。柔らかな感触は、やはり先ほど感じたものだ。
次第に体中の感覚が研ぎ澄まされていく。彼女の柔らかな髪も唇も、漏れる吐息の艶やかさも、夢とは思えないほど現実味がある。夢。……夢?
……これ、本当に夢か?
完全に霞が晴れた。改めて目を覚ました僕は、ハッと我に返り体を起こした。
先ほどまでアシュリーを見上げる位置だったはずが、いつの間にか彼女を見下ろしている。どうやら夢中になりすぎて押し倒してしまっていたみたいだ。ご丁寧に彼女の両手に自分のそれを絡め、床に押し付けている。
アシュリーと目が合う。
煽情的な瞳と半開きのままの濡れた唇を無意識に目が追ってしまった。勘弁してくれ。またもたげてきた内なる本能をタコ殴りにして、慌てて謝罪の言葉を口にしようとした瞬間、アシュリーが艶やかに笑った。
「……良かった」
それだけ呟くと、アシュリーの濡れた睫毛が閉じられた。
「アッ……アシュリー!」
力なく横たわる彼女の姿が、クリスに睡眠薬を盛られて眠らされていた姿に重なる。そこでようやく、今が戦いの真っ只中だったことに気付く。正直、あの男に訳の分からない魔術で攻撃されてから記憶が飛び飛びだ。たしか、彼女がクリスに腕輪を投げつけていたような――。
周囲を見渡すと、大きな爆発が起きたようだ、ソファやテーブルなどの大型の家具まで吹き飛ばされ、壁面まで多くの傷が見える。壁にもたれかかるように動かない人影が見えた。服装から察するにクリスだろう。邪魔が入らないのなら奴の生死はどうでもいい。
ひとまず危険がないことを一瞬で判断し、アシュリーに向き直った。
傷はない。脈も呼吸も安定している。ひょっとして、魔力切れだろうか。
「……僕が魔力をもらいすぎたんだな」
詰めていた息を吐きながら呟いた。
クリスが放った魔術で随分と魔力を奪われたはずだが、今の僕はピンピンしている。アシュリーが必死に魔力を注いでくれたんだろう。もしかすると、彼女の行動が無ければ命が危なかったのかもしれない。
目を閉じたまま穏やかに呼吸するアシュリーを見つめた。
「僕が君を守るはずが……君に助けてもらってばかりだ」
ため息を吐いたその瞬間、応接室の扉の向こう側から、何人もの足音と大声が聞こえてきた。扉はクリスの魔術によって氷漬けになっていたが、扉の向こう側から火炎砲が放たれたのだろう、扉自体が勢いよく燃え上がった。黒い煙の向こうから真っ先に現れたのは、予想通り、ベティだ。
「アシュリー!」
僕に抱きかかえられ気を失っているアシュリーを視界にとらえ、ベティが悲痛な声で叫んだ。周囲には目もくれずに一直線にこちらへ向かってくる。その後ろからは何人かの第一部隊の隊員が続いた。
「意識を失っているだけだ。命に別状はない」
「よかっ……良かった……っ」
僕の説明に安堵したのか、ベティはその場にへたり込んだ。アシュリーを見送った彼女自身もまた、ずっと気が気ではなかったのだろう。
「ウィル、無事か。お前のことだから心配はしてなかったが……」
「アシュリーのおかげで、なんとかこの通り」
最後に入ってきたのはメイナード隊長だった。僕の言葉とアシュリーの状態に僅かに目を見張る。
ベティと隊長に簡単に何が起きたのかを説明した。クリスの目的。未知の古代魔術。そしておそらく、アシュリーの機転でクリスを戦闘不能にしたこと。
「――まさか腕輪に自爆装置がついているとは思いませんでした。あの偏屈な研究者が意図的に入れたことは間違いありませんが。最悪なことに理由には心当たりがあります。……まあ、後ほど裏をとりましょう」
「分かった。それは任せる。で、なんだってアシュリー嬢が魔力切れを起こしているんだ?」
「魔力を奪われて生死を彷徨っていた僕に魔力を渡しすぎたんでしょう。……過剰にもらいすぎました。何故かは分かりませんが……その、気付いたらアシュリーが経口で魔力譲渡をしてくれていて……僕もつい、本能のままに……」
「はぁ!? 馬鹿かお前は!? 同意のない経口での魔力摂取は犯罪だぞ!?」
案の定、隊長は目を三角にして僕をにらみ上げてきた。きっとアシュリーを抱きかかえていなければ胸倉をつかまれていただろう。
隊長の叱責は当然だ。本来、経口での魔力譲渡はごく親しい男女が睦事の中で行うものであって、そんな関係にない僕らがするものではない。何故かというと、媚薬のような効果があるからだ。
魔力を求める生存本能と媚薬効果で、僕がアシュリーから魔力を奪い過ぎたのだろう。
「もちろん、アシュリーが目を覚ましたらきちんと謝罪します」
「当然だ」
「――それにしても、彼女が経口での魔力譲渡を知っているのが不思議で。僕は手を使う普通の方法しか教えてないのに……。あの様子だと媚薬効果は知らないようでしたけど」
「あの! ……犯人、たぶんあたしです」
僕と隊長のやり取りを側で聞いていたベティが、申し訳なさそうにおずおずと片手を上げた。意外な人物の自白に、隊長と顔を見合わせた。
「アシュリーと知り合ってすぐの頃で……あの子ってばこういうお色気方面が本当に慣れてないみたいで、面白くてつい、『人から人へ魔力を渡すのに一番効率的なのはキスだ』、って冗談を……」
「なるほどな……それでアシュリーはわざわざキスを」
「おいおい、ちゃんと正しい情報を与えてあげるべきだろう、ベティ」
「すぐに冗談だよって教えてあげようと思っていたんですけど、そのあと色々あって……その、忘れてました……。すみません!」
「いや、よくやった。ありがとうベティ」
「やかましいわ!」
冗談半分、本気半分でベティに礼を言うと、隊長に頭をはたかれてしまった。この人は見てくれが軽薄そうなくせに貞操観念が貴族そのものだから、少し頭が固いのだ。
内心で呆れていると、隊長はそんな僕の心中を知る由もなく、少々強めに肩を叩いてきた。
「それよりな。言っとくが、ウィル。団長はそれはもうお怒りだったぞ。お前の今までの自由奔放な行動なんか目じゃないほど、今回の単独行動は危うかったんだ」
「……自覚しています。現に死にそうになりましたし」
「殴られる準備だけはしとけよ」
団長、ジェイコブの馬鹿みたいに重い拳を思い出し、今からすでに憂鬱な気分になってきた。
しかし不思議なことに、胸のどこかが暖かくなる。団長は単に“最強の魔術師”の心配をしていたのではなく、僕という弟分の心配をしてくれていることを、今の僕はよく知っているのだ。




