16 【閑話】父になれなかった哀れな男
アシュリーが家出をした1年前に遡ります。
あの夜、スタンレー伯爵家の長子が密かに屋敷を出立した夜、伯爵家の書斎では1人の男が物憂げに窓の外を眺めていた。
彼の書斎からは屋敷の裏口など見えるわけもなく、娘が1人抜け出し、乗合馬車に飛び乗っている光景すら見えるわけもなかった。それでもなお、男はその報告がもたらされるまでは頑として窓の外から視線を外さなかったのだ。
「先ごろ、お嬢様が王都を出られました。乗合馬車の方向からして、行先はポルカかと」
「そうか。――護衛の者は?」
「配置についております。万事つつがなく」
家令がもたらした情報に頷きで返し、男は執務机に向き直った。そこに立てかけられた写真を一瞥し、深くため息をつく。
これで良かったんだろう。これが君の望みなのだろう。
娘によく似た栗色の髪の女性は、何も答えはしない。もうこの世にはいない妻の笑顔はこの写真の中にしかないのだ。
唐突に襲ってくる極度の喪失感は、何度も味わったはずのものなのに、今夜はどうにも普段とは違うようだった。
これが娘を永遠に失った喪失感だとは、認めたくはなかった。
スタンレー伯爵は、物静かな紳士だ。
かつては魔術師団に所属する優秀な魔術師だったが、結婚と同時に伯爵家を継ぐ際に魔術師団を辞し、王宮勤めになった。長期間の出張もある魔術師団ではなく、王都から離れる必要のない王宮勤めに転職した理由は、最愛の妻と離れたくないという超個人的な理由だと一部の者は知っていた。
妻のシェリーはもともと線の細い夫人で、なんとか娘を出産したのち、第二子の妊娠が判明した際には、命に関わるお産になるだろうと言われていた。しかし、彼女は無事に後継ぎとなる男子を産み、母体も一命を取りとめた。その代償として、ベッドから起き上がれなくなってしまった。
そしてついに、2人の幼子を残し、死地へと旅立ったのだ。
最愛の夫に、子供たちの未来を託して。
「――旦那様! お嬢様が、ポルカにて魔力を解放してしまいました……!」
「国境が封鎖されてしまい、隣国へは足止めを食らっているようです。バートン診療所という平民の家に一時的に身を寄せているそうです」
「どうやら魔術師団が噂を聞きつけて動いています。王都から派遣された魔術師がお嬢様に接触したようです」
「お嬢様がポルカを出て……王都へ向かっています」
伯爵の娘、アシュリー・スタンレーが王都の屋敷を家出した夜から、秘密裏に運ばれてくる彼女の情報に伯爵はその都度頭痛を引き起こされ、今日の報告でついには頭を抱えてしまった。
魔力の解放に至る経緯を聞く限り、やはり我が妻の血は争えないと伯爵は嘆息したが、極めつけは王都に戻ってくるとは。痛む頭を起こし、情報をもたらした家令に鋭い目を向ける。
「王都へ向かっているというのはどういうことだ。魔術師団に拘束されているのか」
「いえ。護衛の者によりますと、接触していた魔術師はすでにお嬢様から離れており、お嬢様は単身で向かわれている、と」
「……なんだと」
王都へ向かっているというのは、彼女の意思ということか。
治癒魔法の能力は隠したまま、隣国で平民として生きていく。それが妻、彼女にとっては母との約束ではなかったのか。
「旦那様。王都に戻られ次第、保護いたしましょうか」
「いや……よい。もしあの子が屋敷に帰ってくるのなら、受け入れてやれ。もし他に行くところがあるのなら……もうよい。放っておけ」
「……しかし」
「シェリーから託された願いは叶えてやれなかったが……母の願いとは別の道を歩くことを決めた娘を、今更父とも呼べぬ男が引き止められると思うか?」
伯爵は、まだ何か言いたげな表情を浮かべる家令を黙殺し、監視だけは続けるよう申し伝え、書斎から退出させた。
ふと、目の前の写真に目を向ける。頭の痛いことが続くここ最近の習慣と化していた。
「私はあの子の父にはなれなかった。……すまない、シェリー」
シェリーは伯爵の全てだった。
彼女を永遠に失った時、彼の命もまた潰えたのだ。
母親を突然失った幼い子供たちが、父親の存在を欲していたことには気付いていたが、彼はその思いに応えることができなかった。
息子の出産が寿命を縮めた。
娘の魔力封じのせいで命を落とした。
我が子らを前にして怨嗟の言葉が出てしまわないよう、できる限り接触を避けた。その結果、伯爵は父親としての役割を完全に喪失してしまったのだ。気付けば、後戻りなどできないところまで来ていた。
暑い夏の盛りが終わり、まもなく秋の訪れが近づき始めてきたある日、スタンレー伯爵家は一人の客人を迎えた。
「旦那様。バランティーニ侯爵が到着されました」
面会依頼を受けた数日前から、彼の用件は大体予想がついている。
伯爵は先ほどまで目を通していたアシュリーの近況についての報告書を書箱にしまい、鍵をかけた。
席を立つ彼の後ろ姿を、物言わぬ妻の写真がそっと見送った。
伯爵が応接室に入るやいなや、老いてなお存在感を放つ初老の紳士がすっくと立ち上がった。
彼は従者1人を連れているのみで、国の重要人物が随分と身軽なものだと伯爵は訝しがった。
「お久しぶりです。侯爵様」
「お主と王宮以外で顔を合わすのはうん十年ぶりではないか。久しぶりじゃな、ライオネル」
簡単な社交上の挨拶を交わし、しばらく当たり障りのない会話が続いたが、話題がまもなく行われる魔術師団員の任命式に差し掛かった頃、侯爵が動いた。
「今年、我々は新たに治癒魔法士を迎えた。――お前のことだ、もう既に把握しておろう」
「何のことでしょうか……と言いたいところですが、それでは話が進みませんな。――アシュリーのことでしょう」
「……ライオネルよ。端的にこちらの要望を伝える。彼女の今後の進路をただ見守るだけにしてくれんだろうか」
上位の者からの要求にしては予想よりも穏当な要求に、伯爵は片眉を上げた。
「アシュリーは我が娘ですが、何故他人のあなた様から『見守ってほしい』などという言葉をかけられるのか、理解に苦しみますな。魔術師団が自由に彼女の処遇を決められるようにするため、口を出すな、という意味でしょうか。それとも、彼女の治癒魔法の能力を侯爵の政争の具にするとでも?」
「何を馬鹿なことを――」
「ええ、本当に。あの能力がもたらす災厄を全く理解することなく解放して……。母親の遺言にも従わず、魔術師団に唆され良いように取り込まれた、愚かな娘だ」
伯爵の言葉にいち早く反応したのは、侯爵の従者だった。たまらず一歩踏み出した従者を、侯爵は片手で制した。
「すまんな。従者の躾がなっとらんもので」
「いえ、結構」
「……のう、ライオネルよ。わしはただ、彼女が何の気負いもなく彼女の実家にいつでも帰ってこられるようにしたいだけなんじゃよ。お主がただ一言、これより彼女の行く末に関与しないとそう確約してくれるだけで、彼女は安心する。父親に見つかったが最後、望まぬ縁談を押し付けられると彼女は頑なにそう思い込んでおるようだ」
当然だ。そのように仕向けたのだから。
侯爵の言葉は、伯爵に娘が伯爵邸を出た当時のことを思い起こさせた。
アシュリーが望まぬ縁談を準備しているかのように息子のライアンに匂わせると、案の定、姉思いの彼はアシュリー本人にそれを告げた。そして彼女は家を出た。父親の駒にならないために。
しかし実のところ、縁談の準備などしておらず、アシュリーが伯爵家を出る最後の一押しを演出するための企てだったのだ。
妻と娘が交わした約束を守ることこそが、伯爵の願いだった。
それが叶わなくなった今、娘に縁談を一方的に押し付ける気などないのだ。侯爵に乞われるまでもない。
……だが、思いのうちを素直に披露する気など、この男には更々なかった。
伯爵は、クッ……と喉の奥で笑いを噛み殺し、口端を歪めた。
「ついに耄碌しましたか、侯爵様。随分と生温いことを仰る。アシュリーにとって邪魔な存在である私を追い払うことなど、あなたなら造作もないことでしょう。……既に握っているのでしょう。私が禁書庫に無断で入り禁書を閲覧し、禁忌魔法である『魔力封じ』を妻に行わせた証拠を」
伯爵の啖呵に侯爵はひどく傷ついた表情を浮かべ、一つため息をついた。それからもう一度伯爵に目を向け、彼の瞳に宿る不退転の決意を読み取った。
「禁忌魔法は処分の対象じゃ。……なにも、弁明はせんのか」
「……あるとすれば、ひとつだけです。国を裏切った罪は私だけのもの。この家にも、妻や子らにも関係のないことです」
静かに答えた伯爵は、目の前に置かれていた紅茶に口をつけた。
その表情は凪いでいた。今しがた失脚が確定したばかりというのに、全て予想通りとでも言いたげな、穏やかな表情だった。
「お主がその物語を望むのなら、乗ってやらんこともない。だがな、お主が私欲のため、いたずらに国を乱すために、こんなことを起こしたとは陛下もわしも思ってはいない。これだけは忘れてくれるな」
「……私欲ですよ。ごく個人的なね」
妻が望んだ。
だから叶えてやりたかった。
伯爵の行動原理は常に明朗だった。
話は終わったとばかりに立ち上がった伯爵は、具体的な沙汰はまた後日知らせるよう一方的に言い残し、一礼して去っていった。
「……やけにあっさりとした幕切れですね」
「そういう男なんじゃよ」
従者の呟いた一言に返事をしながら、侯爵もまた、苦い思いを飲み込むように目の前の紅茶を飲み下すのだった。
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