2 治癒魔法
アシュリー・スタンレーは、代々優秀な魔術師を輩出するスタンレー伯爵家の長子として生まれた。
スタンレー伯爵家は領地を持っていない。多くの貴族がそうであるように、領地を経営し、その収益で家を維持するのではなく、魔術師を輩出する一族として魔力を王国に提供することで報酬を得ていた。スタンレーの家に生まれる者は、すべからく誰もが魔力を有していたのだ。
魔術師の家系に生を受けたアシュリーがその魔力を開花させたのは、彼女が5歳の頃だった。そして、稀少な能力が開花したのも同じ時期。彼女の母、シェリーだけがその瞬間を目撃していた。
「おかあさま、きょうのおかげんはいかがですか?」
5歳のアシュリーの日課は、病に伏せがちな母親を毎朝見舞うことだった。元々体の弱かったシェリーは、数ヶ月前に弟を産んでからは更に体が弱くなり、ほとんど毎日ベッドの上で過ごすようになっていた。
シェリーの部屋は常に窓が開いており、いつも気持ちの良い風が吹き込んでいた。窓際に置かれた花瓶に、メイド長から預かった摘みたての花を生けるのも彼女の仕事だ。
「まあ、アシュリー。私の可愛いお姫様。レディの言葉を使えるようになったのね」
「だって、リリィがうるさいんだもん。アシュリーはもう5さいだから、レディのことばをつかえるようにならないといけないんだって!」
「ふふ。アシュリー、レディは『うるさい』なんて使いませんよ」
「……あ」
しまった、と口を押さえる幼い仕草に、シェリーは目を細めた。
少しずつ成長を重ねていく我が子の姿に嬉しさを抱きつつも、もう少しだけこの幼い姿を見守っていたいという我儘な思いも生まれてくる。
いずれにせよ、自分自身に残された時間はわずかで、成長する姿も幼い姿も、見守ることは叶わない。胸の内に去来する痛みをただ見つめることしかできないのだ。
「おかあさま。リリィに、おいのりのことばをおしえてもらったの。きいて?」
アシュリーは、青みがかったガラス玉のような大きな瞳を輝かせて、おもむろに胸の前で両手を組んだ。
そして、お世話係のリリィについさきほど教えてもらった言葉を思い出しながら、目を閉じる。
「たいようのかみ、ファーネスさま。つきのめがみ、ディアーナさま。ふして、おんねがい、もうしあげ、たてまつります。おかあさまのびょうきが、よくなりますように」
幼子が一生懸命に難解な言葉を捻り出す様を微笑ましく眺めていたが、次第に、シェリーの表情は驚愕に強張っていく。
目を閉じたままのアシュリーは気づいていなかった。祈りの言葉を紡ぐたび、彼女の全身を金色の眩い光が包み込んでいく光景に。
アシュリーが全ての言葉を言い終え、自信満々に目を開くと、目の前の母が驚きに目を見開いている様子が飛び込んできた。
自分がお祈りの言葉をきちんと言えたことが、息も忘れるほどの驚きになるのかと首を傾げる。
「おかあさま?」
「アシュリー……あなた、まさか」
頭の上に疑問符を浮かべたままのアシュリーをそのままに、シェリーは小刻みに震えながら自身の額や首に手を当てる。
「熱が……下がっているわ」
昨日から苦しめられていた熱が下がっていることに愕然となる。これは偶然ではない。アシュリーを包み込んでいた金色の光の残滓が、自分自身の体に残っているのを感じる。
魔力の開花だ。
加えてこの子は、どんな病も怪我も治癒できるという稀少な能力、「治癒魔法」を使えるのだ。
衝撃が落ち着いたところで、シェリーの脳裏には、遠い昔に彼女の祖母から聞かされた曽祖母のエピソードが思い起こされていた。
シェリーの曽祖母は、数十年に一度現れるという治癒魔法の使い手、治癒魔法士だった。王国から手厚く庇護され、傍目には成功した人生のように思われた。しかしその実、逃亡の危険があると王国から常に監視がつけられ、移動も制限され、更には望まない戦争への従事を強いられ、ついには心を壊してしまったという。
この子も同じ道を辿るというのか。
その答えに至った瞬間には、もうシェリーの心は決まっていた。
母が元気になったと無邪気に喜ぶ心優しいわが子を、アシュリーを守らなければ。彼女を縛りつけるどんな権力からも。この子が自由に生きられるように。
一方で、そんな母の決意に幼いアシュリーはもちろん気付いてなどいなかった。
ただ、自分のお祈りが母の熱を下げたという結果に、将来への希望を持てた。もしかすると母は元気になってくれるかもしれない。5歳のアシュリーにとって、それはこの上ない希望だった。
そして、希望を奪われるのは人の世の常だと、5歳にしてアシュリーは神の無情さを知ってしまう。
毎日毎日、神様に祈った。母の病気が良くなるように、元気になるように。神様にそのお祈りが届いていなかったのか、それとも届いていたとしても叶えてもらえなかったのか。神の思し召しは人の身では計れない。
アシュリーがまもなく6歳の誕生日を迎える直前、シェリーは我が子の魔力を治癒魔法の能力ごと封じ、そのまま二度と目を覚ますことはなかった。
今、わたしがやっていることは母の思いを踏みにじることになるのだろうか。
目の前に横たわる女性に、一心不乱に魔力を注ぎながら、アシュリーは漠然とした不安を抱えていた。
アシュリーがおまじないの言葉を唱えた瞬間、体の奥深くに封じ込められていた魔力が猛烈な勢いで湧き上がってくる大河のようなうねりを感じとった。今まさに治癒を必要としている女性の体に両手をかざし、湧き上がってくるその魔力を手のひらから注ぎ込んでいく様を想像する。
「太陽の神ファーネス様、月の女神ディアーナ様。どうか、どうか、お救いください……」
これが正しい方法なのかは分からなかった。なにしろアシュリーは魔術について教えてもらったことなどないのだから。縋るような思いで、神へのお祈りをつぶやく。
「――ヒュッ――フゥ……」
突然、弱々しい息づかいだった女性の体が大きくしなると、深い息が吐かれた。
そして水の中から出てきた後のように、必死で空気を取り込むような呼吸を数回繰り返したかと思うと、カッと目を見開き、上体をいきおいよく起き上がらせ、叫んだ。
「アン! アン! どこなの!」
周囲の大人たちが驚愕で動けない中、アンと呼ばれた少女が涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら母親の元に走ってきた。
「おかあさん! おかあさん!」
「ああ……良かった。良かった……アン。怪我はないのね」
「お、お、おかあさん……ごめんなさい……! ごめんなさい……!」
目の前で母娘が互いに泣きながら抱き合っている光景を見つめながら、アシュリーは、安堵と疲労が大波となって一気に押し寄せてくるのに気付く。
「アン」はぬいぐるみの名前ではなく、少女の名前だったのか。
人は疲労がピークに達すると、どうでもいいことが頭を巡るのだなと一人納得したのち、アシュリーは意識を手放した。
とにかくゆっくり眠りたい気分だった。久しぶりに思い出した母の声を忘れないうちに、夢でもいい、会いたいと。