1 アシュリーの目覚め
幼い少女の笑い声が耳元に飛び込んできた。いつの間にか閉じていたまぶたをハッと開く。
乗合馬車の小さな窓に無意識に目線を動かすと、どこまでも続く小麦畑が飛び込んできた。青々と繁る麦穂が初夏の風に吹かれて揺れる様は、大地の生命力をそのまま映し出したかのような光景だった。
王都から出たことのないアシュリーにとって、それは圧倒的な説得力を持って、ここが王都から遠く離れた田舎町であることを示していた。
「すみません。子供が……」
先ほどアシュリーの意識を現実に引き戻してくれた少女の母親が、申し訳なさそうに眉を下げていた。彼女の隣には4歳くらいの可愛らしい少女がちょこんと座っており、その手にはウサギのぬいぐるみが握りしめられていた。
一瞬、何の謝罪か理解できずキョトンと目を瞬いたアシュリーだったが、一拍遅れて、この可愛らしい少女の声が彼女の眠りを妨げた、と思われていることにようやっと気付き、慌てて頭を横に振る。
「大丈夫、大丈夫です!」
子供の笑い声は好きだ。4歳下の弟の小さな頃を思い出すから。思わず頬を緩ませて、その少女を覗き込む。
「ウサギさん、可愛いね。お名前は?」
「……アン」
「アンちゃん? 名前も可愛いのね」
見知らぬ女性に話しかけられ、少し照れたように母親の陰に隠れながら答える様子も、弟にそっくりだった。王都の実家に一人残してきた彼を思い、少し胸が痛む。
「もうすぐ、終点ですね。ポルカって町でしたっけ。お二人もそちらに御用で?」
胸の痛みに気付かぬ振りをして、努めて明るい声音で母親の方に話しかけた。
「ええ。夫が隣国の出稼ぎから帰ってくるので、迎えに」
「そうですか! 良かったね、お父様に会えるのね」
母親から女の子に目線を戻すと、はにかむような笑顔で大きく頷いてくれた。
「おねえさんは?」
「ん?」
「おねえさんもポルカ、いくの?」
「えーっと……」
曇りのないまっさらな瞳に見つめられながら行き先を尋ねられ、アシュリーは多少の気まずさを飲み込み呟くように答えた。
「おねえさん、おとなりの国に行くの。国を出るのよ」
国を出るというか、家出をして亡命するところなのだけど……と声には出さず、心の中だけで答えた。
これから久しぶりに父親と会うのだとウキウキしている少女に対して、父親から逃げるために家出している、などと間違っても伝えられない。
「まあ、隣国に? 女性一人で国境を越えるのは心配でしょう」
「本数は少ないですが、ポルカで隣国行きの馬車が出ているので大丈夫ですよ。……それに、隣国には親戚もいますし」
女性の一人旅を善意から心配してくれる母親を少しでも安心させるためだが、堂々と嘘をつけるほど場慣れしていないアシュリーの答えは、尻すぼみになっていた。
そんな彼女の心中までは伝わらなかったようで、その母親は顔を曇らせながら口を開いた。
「もしかして……知らないのかしら。最近、国境沿いで魔獣が増えてきているっていう話」
「え」
「危険だからって隣国と往復している馬車が運行を止めるかもしれないそうよ。だから夫も慌てて帰ってくることになったの」
「ええっ?」
開いた口が塞がらない、とはまさにこのことだ。
いくら王都で乗合馬車の運行情報を集めたとしても、こういう生きた情報は地元に着かなければ得られない。まさかここまできて、計画が頓挫する可能性が出てくるとは。
顔を青くしながら頭を抱えるアシュリーに、母娘が心配そうに声をかけている内に、乗合馬車はポルカで一番大きなロータリーに到着していた。
隣国からの馬車が到着する停留所で父親を待つという母娘と別れ、アシュリーはロータリーの中心にある乗合馬車の事務所へと足早に向かった。隣国行きの乗合馬車の運行状況を確認しなければと、片手で持てるだけの小振りなサイズのボストンバッグ一つを抱え、行き交う人々の間を器用に縫って歩く。
王都から遠く離れた小さな町だが、隣国との定期的な乗合馬車の便がある町はここだけだ。先ほどの母親の話を裏付けるように、一時的に人の往来が増えているのか、思った以上に人が多い。周囲の人々が交わす会話からも、「魔獣が――」「隣国に行けなくなる――」などと不穏な言葉が耳に入ってくる。
どことなく町全体が不安に包まれている。ポルカを取り巻く現実の情勢がそうさせているのか、自身の焦燥感がそう錯覚させているのか、冷静に判断できるほどの余裕がアシュリーには当然あるわけもなかった。
人の波を超え、ようやく事務所の扉の前まで辿り着けた、その時だった。先ほど乗合馬車から降りた方向から、耳をつんざくような轟音と複数の悲鳴が聞こえてきた。
一体、何が起きたのか。アシュリーを含め周囲の人間が一斉に足を止めた。
彼女の周囲にはすぐに状況を把握できた者はおらず、皆が一様に音のした方に顔を向け、首を傾げていた。次第に人から人へと情報が伝播していき、アシュリーのすぐ前に立つ中年の男性の元に情報がもたらされた。曰く、馬車の積荷が崩れ、すぐ側にいた子供をかばって母親が下敷きになってしまったのだと。
アシュリーは息を飲み、その瞳を大きく見開いた。
まさか。いや、そんなばかな。さっき、あの母娘と別れたのはどこだったか。まさか。
いつのまにか足は勝手に事故現場へ向かっていた。頭の中で同じ問いがぐるぐる回り続ける。人違いだと信じたい気持ちを打ち消すように、アシュリーの直感が警鐘を鳴らす。
事故現場に近づくにつれ、小さな慟哭が聞こえ始めた。
「――おかあさぁぁん! おかあさぁん!」
その声は紛れもなく、アシュリーに照れ臭そうにはにかんでくれた少女のもので、今日、出稼ぎから帰ってくる父親と久しぶりに会えるのだと笑顔を見せてくれたあの子の声で。
そして、少女を守るように腕を伸ばしたままの体勢で横たわる女性は、アシュリーの一人旅を心配してくれていた、あの母親で。
声にならない悲鳴が喉元までせり上がった。
心臓がドクンドクンと脈打つ音が、やけに大きく耳元で聞こえてくる。
――「おかあさま! おかあさま!」
遠く記憶の彼方で、少女が肩を震わせて泣き叫ぶ声が聞こえた気がした。真っ白なリネンのベッドに横たわる母の手を握りしめ、その体温が次第に奪われていくのを感じながら、ただ母を呼び続けた、幼い日のアシュリーだ。
周囲の大人が母親に縋りつく少女を引き離し、母親の体の上に折り重なるように崩れた積荷を協力して撤去し始める。
怒声が飛び交う喧騒の中で、アシュリーは過去と現在が入り混じった感覚に眩暈を起こしながらも、ふらふらとその輪の中に足を進める。
――「アシュリー。私の可愛いお姫様」
久しく思い出せなかった母の声が、すぐ耳元で聞こえた気がした。
――「あなたの力は封じたわ。これで、あなたは自由に生きていける。……でもね」
記憶の中の母は、いつも儚い笑みを浮かべていた。ただ、あの時、秘密の話をした時だけは、その瞳には強い光が宿っていた。
――「あなたが誰かを助けたいと強く思った時、おまじないの言葉を唱えてね。大丈夫。強く強く心から助けたいと思ったら、きっとあなたの力が誰かを助けるから。恐がらないで、アシュリー」
「――おい! 近寄るな! 危ないぞ!」
野太い男性の怒鳴り声と共に、肩を掴まれたアシュリーはハッと現実に引き戻された。
すぐ足元には、助け出された母親が横たわっている。その顔は血の気が完全に引いて真っ青になっていたが、彼女の口元に耳を近づけた男性が大きく叫んだ。
「まだ息がある! 早く! 誰か医者を呼べ!」
慌てて数人が駆け出した。その背中を見送りながら、アシュリーは母の言葉を思い出していた。
誰かを助けたいと強く思った時。今、あの言葉を唱えれば、彼女を救えるのだろうか。
迷ったのは一瞬だった。何故自分が生まれ育った家を出なければいけなかったのかも、何故父や国から逃げなければいけないのかも、目の前の瀕死の女性を助けられることに比べれば、些末なことだ。たとえそれが、自分自身を追い詰めることになったとしても。
アシュリーは唇を震わせながら、記憶の箱から取り出したその言葉を静かに紡いだ。
「覚醒」
アシュリーが『おまじない』を唱えた瞬間、彼女の全身は目も眩むほどのまばゆい光で包み込まれた。