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甘き死よ、来たれ  作者: まど
彼女の死は誰かの幸福たりえるか
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プロローグ


 「貴方は何故、生きることが尊い事だと思うの?」


 「分からない…それでも蔑ろにされていい命なんて無いと思う」


 「それは貴方の価値観だわ、生を受けた全ての人間にとって、その価値観が正しい物かどうかなんて誰にも断言できないと思わない?」


 「そうかもしれない…だけど…」


 遠くで眼下に広がる街並みを上下に分断するように私鉄が走っていくのが見える。


【夕方】が終わり、【夜】を迎え始める時間、空は少しずつ表情を変える準備を始め、その境界線を淡く、弱く、赤く照らし出そうとしている。


 「幕引きを止めようとする人は、よく生きてれば良いことが有ると言うじゃない?」

 

 子供とも大人とも言えない不思議な雰囲気のその女性は、少しバツがわるそうに微笑んでみせる

 

「私、あのやりとりが本当に理解出来ないの…だってそう思わない?死のうとしている人の人生に、この先良いことが有るか無いかなんて、どうして本人でもない赤の他人が言い切る事が出来るのかしら。そもそも、自らの人生を自らの意思で終わらせる事って、そんなに悪いこと?大人は子供に散らかした物を片付ける様にしつけるのに、散らかりきってどうにもならなくなった人生を片付ける事は咎めるのね…」


 「遊び終えた玩具と人生じゃ全然違う。終わらせてしまった人生を【おもちゃ箱】からもう一度取り出すことは出来ないじゃないか」


 「確かにそうね、でもね、大切にしていた玩具でも、おもちゃ箱にしまったきり、永劫出さなくなる日がいつか必ず来るじゃない?歳を重ねたり、他の物に興味を持ったり、理由は様々だけど…どれだけ大切に思っていた物でも、所有者にとっての価値が失われれば、それはいずれ廃棄されるわ。私はね、いいえ、私の命はね、とどのつまりそういう状態なの」


 「そんな…、周りの人や残された人の気持ちはどうなるんだよ」


 「残していく人や周りの人に気後れする様な人は自ら死を選んだりしないわ、結果的に親や近しい人に迷惑をかけるケースは多々有るだろうけれど、そんなことはとっくに天秤にかけていて、【それでも】と思うから出来る選択なの」


 「耐えられない何かから逃げる手段として死を選ぶなんて…あんまりじゃないか…」


 「そうかしら?逃げ切れる事は確定しているのだもの、【あんまりだ】なんて言えないわ、さっきも言ったけれど、死が悲劇だと言うのは万人に共通の価値観ではないと思うの。人にとってそれは解放であったり、達成であったり、到達であったり、幸福であったりする物なのよ」


 先ほどとは逆向きに電車が横切っていく。空の境界は暗みをまして、濃紺と赤の境界は泣きだしそうな紫色を滲ませていた。


 「だから君は人を殺すのか?」


 「あら、随分な言いようね、殺すなんてそんな…私はただ肯定するだけ、何も言わず、人が必死に絞り出す言葉を聞いて、そしてそれをただ肯定するだけ。誰かに何かをする様に言ったことは無いわ」


 「どんなスタンスだって、人の死に介入していいわけがないだろ!」


 「あら、貴方は生きろと直接に人に指示するのに?私なんかよりよっぽど人の死に介入していると思うのだけれど…」


 「詭弁だよ…」


 「どうかしら?そうかもしれないわね…」


 そういって彼女は、笑っているとも悲しんでいるとも言えない表情を浮かべ、すっかり紫に染まった空を見上げた。


 「綺麗ねぇ…、ねぇ、貴方はクラシックは好き?」


「?」


「私はね、ベートーヴェンが好き…想像した事は有る?天才と呼ばれて幼い頃から音に触れ、また音を生み出してきた人間の耳がどんどん聞こえなくなっていく…皮肉な物よね、世界で一番音に愛されて、愛され過ぎたベートーヴェンは、突然音を取り上げられてしまうの…ピアノ第14番、ムーンライトソナタを作曲した時、彼の耳は既にほぼ聞こえて居なかったらしいわ、彼は翌年遺書をしたためる事になるのだけれど、いったいどんな絶望の中で、彼はあんなに美しい旋律を作り上げたのかしら…」


「何が言いたいんだ…」


「迷いの無い、後悔のない、絶望のない、そんな【幸せな人生】では決して生み出せない物がそこにはあるわ…もちろん【幸せな人生】であるが故に得られるものも有る。私が言いたいのはね、そこに優劣なんて無いって事なの…生きる事と死ぬ事も同じ、対岸に有るその2つは、決してどちらかが善で、どちらかが悪であると定義されるべきではないわ」


彼女は朧に浮かび上がった月に向けて下から撫であげる様に右手を伸ばすと【でも…そうね…確かに、この景色をみれなくなるのは少し寂しいと思えなくもないわね…】と呟いいて肩を落として見せた。


 山の様に鬱積していた彼女への言葉は、彼女の優しい溜息に遮られて行き場を失ってしまった。

それはまるで、締め切った部屋で吐き出す紫煙の様にゆらゆらと、心の中をゆっくり巡り続けた。

 どれくらいそのままで時間が過ぎただろうか、頬をかすめる風が少し冷たくなってきた頃、彼女は突然視界から消えた。最後に彼女が絞り出すような声で『ありがとう、またね』と呟いたのが確かに聞こえた。

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