第一話 普通の人間
無駄に大きなタイピングの音、電子機器から香る独特の匂い、重力に逆らえないたるんだ上司の顔、安い缶コーヒーの後味、使い古したキーボードの手触り。五感すべてが不愉快である。入社4年目、怠惰な学生生活を過ごした末、行き着いた起伏のない、現代人の成れの果て。毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、同じ人と顔を合わせ、同じ作業をする。凹凸のない毎日を繰り返していた。そんな私でも、毎日、それなりに楽しいことはある。例えば、風呂上がりのビールがうまいだとか、週末の試合で、地元のサッカーチームが勝っただとか。しかし、ただそれだけの毎日だ。そして、私にはこの平坦で退屈な毎日から抜け出す、勇気もなければ行動力もない。昔からそうだ、"ふつう"から外れることが人一倍怖かった。だから身の程にあった高校、大学を受験して、身の程にあった企業に就職した。
なんていつになくネガティブな思考回路を働かせていると、いつの間にか退社時刻になっていた。いつもと変わらない9時8分発、特急列車に乗る。週末ということもあり今日は特に疲れていた。どうにか座ろうと女子高生とおばさんの間に少々強引に座った。うとうとしながら15分、電車に揺られながら帰路に着いた。
降車駅から5分歩くと、愛するマイアパートに着く。扉をあけてすぐスーツをハンガーにかけてYシャツを洗濯機に放り込み、短パン、Tシャツ姿になる。そして冷蔵庫からビールを取り出し思い切りよく飲む。至福である。体中の細胞が喜んでいるのがわかる。何故だか頰も緩む。こんな小さな幸せで満足できる自分の志の低さを感じながらも極楽を味わう。
さて、まるでロボットのように同じ日々を過ごす私だが、今週末にはちょっとしたイベントを設けた。遡ること数週間前、同僚がどうせ使わないからと言って鉄道の2日間乗り放題切符をくれた。鉄道は愚か旅行に行くことにも特に興味がない私は、正直いらないと思ったが、断れない性格と同僚の押しの強さに負けて渋々受け取ったのである。少々腰は重かったが、同僚から感想を求められたこともあり、渋々行くことを決意した。そしてちょうど丸2日休みが取れた今週末、私は小旅行へと旅立つ。
聴き慣れたiPhoneのアラームが鳴る。6時45分。いつもと変わらぬ時間に起きる。うつ伏せで寝るせいで毎朝、鏡に映る自分の顔は腫れぼったくて、不細工だ。
さて、2日間の旅行と言っても移動は常に電車であるため、荷物は最小限に。少し大きめのリュックサックに最低限の衣類とその他諸々を詰め込み、ささっと準備を済ませた。いつものように戸締りを入念にして、いつもと同じ通勤路を歩いて最寄の駅に向かった。
実を言うとこの旅、ほとんどノープランである。宿の予約は愚か、行き先も決めていない。決まっていることといえば景色が綺麗な田舎に行きたいということだけ。実に無計画である。最寄駅のホームで、いつもの癖で持ってきていたボールペンをカチカチといじっていた時に、私はふと思いついた。このボールペンを立てて自然に倒れた方向に進む電車に乗ろう。降車する駅は自由。降りた駅の周辺を散策する。私は紙にこの3つの事項を書き留め、今回の旅のルールに定めた。記念すべき旅の第一歩を決めるボールペンルーレット。倒れた方向は左。私が普段会社へ向かう方向とは逆方向だった。数分、電車を待っていると鈍行列車が4両編成でやって来た。都心部と逆方向に向かう電車ということもあり、車内は空席が多かった。私は、2人がけの座席の窓側に座った。いつもの癖で一瞬スマホを開きかけたが、こんな時くらい景色を楽しもうと思い、窓の外を眺めた。地方都市特有の都会でもなく田舎でもない景色が広がる。見慣れた景色だ。電車と並走するように走る車を眺めながら、ぼーっとしていると通勤とは違う安心感を覚え、気がつくと眠ってしまっていた。
遠くから声が聞こえる。どうやら私を呼んでいるようだ。囁くように話す声がとても心地くて、また深い眠りに落ちそうになった瞬間、肩をトントンと叩かれて現実に引き戻された。「お客さん、終点です。」目の前に初老の男がすこし顔をしかめながら私にそう話しかけた。私は恥ずかしさから「すみません」と車掌に一言謝って、足早に列車から降りた。迂闊にも寝てしまったことを反省しながら、スマホを開くと時計は10時30分を指していた。私は、2時間、一度も起きずに眠っていたのである。驚きと快眠による心地良さを感じながら改札機に、乗り放題切符を通し、駅を出た。さてここはどこなのかと少しドキドキしながら顔を上げると、目の前には真緑の木が生茂る山、遮るものがないどこまでも広がる青い空があった、、、続く