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第一話:スポイラー

 「物語ってのは喪失から始まるんだ。たとえば平穏な日常、かけがえのない居場所、地位、名誉、財産、肉親、最愛の人、そんなところだろうね」


 稀代の宮廷戯曲家であり、敬愛する師であり、なにより心からの盟友であるウルティナは蒸留酒の残りをうまそうに煽りながら言った。


 その日は冬のはじめにしては珍しく、身体の芯から凍りつくような冷たい雪がしんしんと降っていた。なにもかもが寝静まったあとの王城の片隅。決して他人に知られてはいけない隠れ家のような酒蔵。持ち込んだ燭台の灯りだけがやわらかく闇を照らしている。


 物語というのであれば、このような空間こそ何かの始まりを予感させる。


 「何故かって、そりゃあ聴衆は可哀想な主人公が好きだからさ。自分より無力で、みじめで、どうしようもない人物なら安心して見ていられる。この人物はあんたよりも格下で、あんたを脅かすことはないってな。幕が上がって、まずは聴衆の心の壁を取り払わなきゃいけないだろう? その場合、不幸は失うよりも多くを与えるのさ」


 とにかく俺はウルティナの話を黙って聞いていた。一言一句を漏らさぬように。


 まるで出来の悪い子供を諭すような語り口だと思った。ウルティナはにやりと笑い試すような視線を俺に向ける。お前の喪失は無価値ではないとウルティナは暗に伝えようとしているのだ。失敗ではない。喪失には意味があり、肯定すべき事柄なのだと。


 これはウルティナの癖だ。直接言わずに何かを悟らせるような物言いをする。初めて会った時こそめんどうくさい奴だと思ったが、いまとなってはそのやりとりも心地よい。


 「もちろんそれだけじゃ駄目だ。弱さがあり、それでいて強くなきゃいけない。その場において何者にも揺るがされない完結した……ゴホッ」


 ウルティナが咳きこんだ。口元からは黒ずんだ血があふれ出す。

 おもわず握ったウルティナの手は死体のように冷めたかった。嘘だろ。いや、嘘じゃない。目を背けることなどできない。これから死にゆくものの姿だ。ウルティナの命はもう長くない。ふいに景色が色褪せ、なにもかもが遠くのことのように感じる。


 肝心なときに言葉が出てこない。何を言えばいい。何を伝えればいい。思い切って好きだと言ってしまえばいい。しかし、言ってどうする。それでウルティナが助かるわけじゃない。こんな時になっても躊躇している。俺はただ黙ってウルティナの話を聞くことしかできなかった。


 「まあ、何だ、お前は負けんなよ」


 ウルティナは青い顔で油汗をかき始めている。そろそろ呼吸が苦しそうだ。ウルティナの腹からは相当な量の血が染み出している。蒸留酒で傷口を洗い、きつく止血したがその程度ではどうにもならなかった。


 もはや俺にできることは何一つないのだ。



=========


 どうしようもなく取り返しのつかない失敗をしてしまったとき、あんたならどうする?


 失敗を認めず、意地汚く、諦め悪く、それをひっくり返すような起死回生の一手を捻り出す。あるいは全てを受け入れてぼけーっと天井のシミでも数えながら座して死を待つか。俺はそのどちらでもない。物語が幕を閉じるその瞬間まで、あらゆることはただの過程だ。取り返しのつかない失敗も、まあひとつの起伏に過ぎない。そう考えることで適切な心のバランスを保つことができる。俺はいつだったか必要に迫られてこの方法を思いついた。


 別に不幸を自慢したいわけじゃない。それでも恐らく他人よりストレスの多い日々を過ごしていた結果、俺にはいくつかの傾向が生まれた。トラウマを避けるための多重人格だとかそんな大層なものじゃない。ただの愛すべき傾向にすぎない。


 ひとつがマチズモ。彼は積極的で、社交的で、かなりの負けず嫌いだ。ボートの部品で例えるならエンジン。その勢いはガソリン尽きるまで衰えることを知らず、しばしば浅瀬に座礁する。また残念なことに、ハンドルの操縦者はだいたい陸に置き去りにされている。


 もうひとつがハメツ。こいつはどうしようもないクズだ。来るべきリスクに備えてなにもしない。頑張って、本当に努力して何とかなりそうだというタイミングで積極的に何もしない。「何もしない」をすることで効率よく破滅に導いてくれる。そして破滅が確定した瞬間、仕事は終わったと言わんばかりに引っ込んでいく。


 そして最後に俺だ。マチズモが暴れ、ハメツが荒らした残骸を、俺が汗水たらして必死に片付ける。帳尻を合わせる。ボロ切れを継ぎ合わせて、なんとか服やズボンの形に整える。


 俺はいま誰だ? 見栄を張ってでもかっこよくありたい? ノー。ということはマチズモではない。このまま流れに身を任せて何もしたくない? ノー。やはりハメツでもない。


 俺が俺であることを確認し、ため息をつく。俺の意識が強いということは、全てがはちゃめちゃになってしまったパーティーのあとにいるということだ。ご馳走も、美人も、楽しげな音楽も何もかも去ってしまった残りカスに俺はあてがわれている。どうしようもない閉塞感に苛まれる。マチズモ、ハメツ、俺。いつのまにか抱えさせられた連中と、一生愉快なタンゴを踊り続けなければならない。物陰からハメツが顔をのぞかせ、いっそ気が触れそうになったところ、理不尽を悟ったマチズモの反骨精神がムクムクっと起き上がって何とか立ち直った。


 ひどい嵐だった。正直、運が悪かったとしか言いようがない。それは経験したことがないほどのひどい嵐だった。俺にできることは何もなく、ただ暗い船室の隅で小さくなって激しい波風に揺さぶられていた。


 ガス灯はとうに消えて、窓のない船室からはいまが朝なのか夜なのかも分からない。

 自分が起きているのか夢を見ているのかも分からない。


 それからあまりの飢えに耐えられなくなり目が覚めた。船内は不気味なほど静まり返っていた。とにかく今は空腹だった。


 食料を求めて船内を歩き回るが、まあとにかくひどい惨状だった。頭を打ち付けたのか血を流して倒れている人がいる。生きているのか死んでいるのか分からない。床には燭台から落ちたロウソクの延焼したあとが黒く残っているし、おおよそすべての装飾が本来あるべき場所から解き放たれていた。


 ふと陽の光が見えたような気がして甲板に上がると、雲一つない青空が果てしなく広がっていた。

そういえば空腹に気を取られて意識が向いていなかったが、いつのまにか強い揺れもおさまっていた。

甲板の積み荷はなにひとつ残っていなかった。気付けば何もかもが散らかった中心で俺は大の字に寝転がっていた。


 俺は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろうと考えていた。それでも時々訳のわからない光源を見つけて寄り道をしたりもする。人は余暇を持て余しているときが一番幸福だとも言う。実際のところ、どうだろうか。座り込んだ俺はひたすら同じ言葉を繰り返している。言葉はどこに辿り着くでもなく宙に浮いている。


 それから船は南国の島に辿り着き、俺と幾人かの生き残りは白い砂浜に降り立った。


 積み荷は何も残っていない。桟橋には何もない男と気狂いの女が取り残される。どうしようもない。あまりにどうしようもないが、それでも人生は続く。カンカンに照った太陽が「日はまた昇るんだぜ、この世はまるで出来の悪いヴァルハラみたいだな」と呪いのように囁いた。

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