よん
澄み渡る青空。ポカポカとした陽気。そして、陰鬱な教室。聞こえてくるのは秒針の音と鉛筆の音、そしてため息だけだった。
「あと十分ー」
静寂を破る担任の声に反応する声はない。目の前の、誰だっけ? 本田くん? あたしの前に座ってる本田くんなのにもう、あたしから見えるのは腰の部分じゃない?
それくらい頭を抱えてる。ちなみになんだけど、あたしは頭も抱えてないし、鉛筆の音も立てないし、ため息もつかない。もう終わってるから。
カンニングされないようにプリントを裏向けて置いてある。だって、簡単だし。名前を書き忘れてないかぎり、満点だと思う。
「聞いてないんですけどー」
チャイムが鳴り、帰ってきた喧騒の中であたしたちは給食を食べる。班に分かれて食べるんだけど、あたしの班にはしほちゃんがいた。
「あたしもだけど」
「でもあんた百点でしょー?」
「なんでよ」
「いーーーーっつもじゃなーい!!」
机を合わせたら斜め向かいになるはずのしほちゃんは、声とともにあたしの顔に迫ってきてた。いやまぁ、確かにね? このくらいだったら使うまでもないし。
「でも詩帆、一番になりたいの?」
「えー? なりたくなーい」
「でしょ? 任せられるんだから任せたらいいじゃないの」
「……なんでなりたくないの?」
なれないならまだしも、なりたくないって。なんで? 向上心ゼロなの? だから取れないのよ。
まぁ、のんびりとしたこの空気を味わっておきたいっていうのはわかるけどね。
「もうちょっとしたらさー、卒業式ってあるじゃーん?」
「……卒業式って三月じゃないの?」
まだ十月なんだけど。あたしもしほちゃんも、ゆきちゃんもいっちゃんもまだ半袖じゃない。
「式自体はね」
あくびをしながらのんびりと答えてくれたのはいっちゃん。あたしの隣に座ってた子。ゆきちゃんは給食当番だからこの場にはいない。
「みなさい」
「優等生様には先輩方にお言葉を贈る重大な義務があるのですー」
「はぁ?」
口を尖らせて明らかに不満気なしほちゃん。……表情と内容が一致してないと思うんだけど。やりたいのかやりたくないのか、どっちの顔なの?
「何よそれ……。っていうかなんでそんなの知ってるのよ」
「逆になんで知らないの? 天才なんでしょ?」
「知る……いやいや、天才でも無理なのは無理よ」
「いっちゃん聞いた!? 否定しないよ天才ってとこ!」
「いいじゃないの、天才様で。仲良くしてたらカンニングさせてくれるかもよ」
「させないわよ……」
無難な会話は続く。でもあたしの心臓はバクバクバクバクとけたたましいほどの音を立てていた。なんで知らないの? とか普通に聞かないでくれない!? 普通に答えちゃうじゃない!!
「変わってほしいの? しほちゃん」
「そんな罰ゲームいりませーん」
「ならなんなのよ今の会話は……」
「ふーんだ、先生と先輩に付き合って遊べなくなっちゃえ! ……って、そう言えば……」
まるですねていたのは演技だったみたいに、表情をコロコロ変えるしほちゃん。今の表情はまったくの無。そしてそこからニヤニヤと微笑みだして、……え、嘘でしょ?
「きゃーお似合いよーっ」
「どっから出てきたのよ!!」
やっぱり来た!! 両手を頬に当てて、軽く左右に振りながら、聞き飽きた言葉が襲ってくる。いや、確かに先輩だけど!! 限らないじゃない大多数の中で!
「お似合い?」
「いっちゃん見えない? 上の階に伸びてる赤い糸が」
「……え、あなたあの先輩好きなの?」
なんで話通じるの!? っていうかなんで相手特定できてるの!? こんなのほほんとしてるいっちゃんなのに!!
「しほちゃんの妄言よ」
「えー? 好きなものも共通だしー、帰り道も共通だしー、それでいてどっちも天才だしー」
「お似合いじゃないの」
「似合ってないっ」
あいつ天才なの!? あんなのなのに!? 人っていうのはほんと見かけによらないらしい……。
「いいじゃんいいじゃん、天才から天才に贈る言葉なんて、やっぱりお似合いよーっ」
「……代表から代表?」
「そのとーり!!」
「天才やめるわ、あたし」
「あー、それだけはやめた方がいいよー」
ハイテンションだったはずのしほちゃんが、急に真面目な顔になった。あまりにも突然で、あたしの頭はまだ理解が追いついていない。
「なんで?」
「あれ」
いっちゃんがそう言って指を伸ばす。その先にいたのは……誰?
「誰?」
「崎谷さん」
「……誰?」
「先輩が好きなんだって」
「ライバル登場ー、ってわけよっ」
……末長くお幸せに、って感じなんだけど。そもそもあいつ彼女持ちだし。なんであたしが落ちたらダメなの? 聞こうとしたところで、給食が持ち込まれてきた。
あたしたちの班は窓際の一番後ろ。いっつも最後に並ぶはめになる。ゆきちゃんに給食を盛られている前に、崎谷さんは立っていた。……一個前の班なの!? あたし今初めて存在知ったんだけど!?
もっとクラスメイトと関わりを持った方がいいのかもしれない。でも別に、この班じゃなくなるかもって考えたら、あたしはずっとこのままでもよかった。
一方的なものだったとしても、数少ない癒やしの時間を手放したくはなかった。
「うわっ…」
「あっ」
「げっ」
つつがなく終えた1日は、帰宅することで完成する。学校が終わったとしても、山を越えたら谷がある。
寄り道せずに帰れたら一番いいのはわかってるけど。そんなわけにもいかないのが日常ってやつだし。
「…知り合い?」
自動ドアを潜り抜けて買い物カゴを取り、インスタントラーメンの売場に直行したところだった。思わず悲鳴を上げてしまったその先には、あや先輩と…誰だっけ? なんとか先輩が、並んで歩いていた。
「こんにちは、あや先輩」
「うん、こんにちは」
「…こんにちは」
「ちゃんと帰れたのね」
あたしには笑顔を向けてくれたあや先輩だけど、…某でいいや、某で。某先輩に向ける視線は、眉間にしわを寄せ、物を見るようなのを向けている。それを交互に見合わせてるから、…なんか、怖いんだけど。
「なんだよ…」
「あたしが先に質問したんだよ」
「え…ごめん聞いてなかった」
「この子と知り合いなの?」
「あたしの後ろをつけてきてたの」
「ばっ、がぁぁっ!!」
某先輩は困ってたみたいだったから、助け船を出してみた。嘘偽りなく。するとあや先輩は、某先輩に飛びかかった。そして首を締め上げる。
「何してくれてんだてめぇはぁぁーーーーーーっ!!」
「ぎっ、ぶ…、ギブギブギブギブ…」
……何かが起こりそうな気はしてたんだけど、はるかに斜め上だった。なんなのこの状況。何がどうしてこうなったの? 某先輩も手首掴んで抵抗してるのに、全然外れそうにない。そもそもあや先輩そんな口調の人だったの? 恋敵のあたしにも優しかったのに。
「いやいや……死んじゃうわよ」
「大丈夫? 何もされなかった?」
……首を絞めながら振り返った顔はあたしを心配するような顔。……なんか、持ち上がってるんだけど。
「……手首を掴まれて、引っ張られて……」
「ぐえああぁぁぁーーーーーーっ!!!」
うわ、凄い凄い。あや先輩もしかして、悪いやつらと戦ってたりする? 普通じゃないわよ、これ。
「ぐむっ、が……げ……」
「……死ぬわよ、その先輩」
「いいのいいの、害虫に存在意義なんてないからね、あたしにとっては」
「いやいや冗談よ……。助けようとしてくれたのよ、あたしを」
「……こいつが?」
あまりにも不憫だったから、思わず助け船を出していた。目の前で死なれたら気分悪いしさ。でもこれ効果あった? なんか、全然信用してない目で絞めあげてるものを見てるんだけど。
「まぁ役には立たなかったけど」
「だろうねー」
……そこは納得するのね。あははって笑ったあや先輩が手を離すと、某先輩は顔面から地面へと落ちた。かわいそうに。どうでもいいんだけど。
「痛い……」
「自己紹介? 今更じゃないの?」
「何年付き合ってると思ってんだ!!」
うわなんか、漫才が始まった……。でも立ち位置がなんか違う。地に伏して見上げる某先輩と、腕組み仁王立ちで見下ろすあや先輩。なんでやねん! ってできないし、そもそもどっちがボケなのかもわからない。
「お使い? お母さんに頼まれたの?」
「……ま、そんなとこね」
でもあたしに話しかけてくる時のあや先輩は、やっぱり優しそうな顔をしていた。
「よし、じゃ夕飯当ててあげる。今日は何を買うのかなー?」
「当てるも何も……カップラーメンだけど」
何言ってるの? そう思いながら答えていると、あや先輩の表情が変わった。視線はあたしを捉えているけど、あたしに向けたものかどうかはわからない。自惚れかもしれないけど。
「あたしのうち、来ない?」
「はい?」
「夕飯、一緒に食べよっか」
……なんで? あたし、カップラーメンが食べたいんだけど……。でも、断れるような空気じゃなかった。あたしに向いてるのかどうかもわからない視線は、優しいものじゃなかったから。
「はぁ……」
「よし、ならあたしのうちにレッツゴー! なんならゆーちゃん呼ぼっか?」
「それは要らない」
それはない。それだけは絶対にない。っていうかこの人、距離感ってのがわからないの? あたしでもわかるのに。……毒盛られる!? でも、あいつ呼ぶって言ってたし……。いざとなったら使えばいいだけだけど。さすがにそんな機会、二度とはないでしょ。
「久々だな、ってか、前は結局あいつと一緒に食べたのか?」
「さ、ほら」
いつの間にか起き上がっていた某先輩の問いかけは、どう考えてもあたしに向けたものじゃないと思うんだけど。他にはあや先輩しかいないし、でもあや先輩は答えずにあたしの手を引いてくるし……。
「またかよ!」
少し歩いたところで絶叫が聞こえてくる。またかよ、ってことは、何回かあったやりとりなのね。
「俺むしろ良い事してただろ!? 仲間に入れてくれよ!」
「……この子襲わないって誓える?」
「当たり前だろっ!」
……まぁ一応、あたし外見だけじゃなくて中身も小学生だから、襲ったら捕まるし。……あの先輩に襲われたら良いんじゃない? あれ? めっちゃ良くない? この案。あいつ逮捕されるじゃない。逮捕されてよ、一刻も早く。
「襲ったら俺が死ぬわっ」
「は?」
……あ、そっちね。多分これはあや先輩じゃない。中学生を投げ飛ばした、あの時のあたしに向いてる。あたしたちが並んでるから、どっちを見てるかはわからないけど。
「言ったでしょ、火事場だって」
「火事場? ……泥棒?」
「そんなわけないでしょ……」
でもそれは今のあたしに向いているわけじゃない。訝しげな視線が正しいのも確かだけど、もう二度とできないのも確かなんだから。
「ま、いいけど。好きにしたら?」
「なんでこんな扱いなんだ俺……」
吐き捨てて歩き始めるあや先輩。引きずられるあたし。そしてなんか、ぶつぶつ言いながらついてくる某先輩。嫌なら帰ったらいいのに。ついてくるからそんな扱いなんでしょ。なんで……、……って、好きだから? もしかして、好きだから?
「……」
「ん? なんだよ?」
もう一度振り返ると、某先輩は仕方ないな、って表情を浮かべていた。意味わかんないんだけど。わかんないからこそ……深く考えない方がいいのかもしれない。そこまで踏み込んであげる理由をあたしは持っていなかった。
家に帰ってやることは、まず部屋に入ってランドセルを消す。宿題はとっくに終わってるから問題なし。そしていつもはお湯を沸かし始めるけど、今日はどうしよう。気まぐれで買ってみた紅茶でも飲んでみようかな? でもまぁなんか、いいや、別に。取り出したやかんも消す。これで部屋に残ってるのは、机、テレビ、そしてあたし。それ以外は何一つない空間。
「……美味しかった、か」
美味しかった? って、あや先輩は聞いてきた。聞かれたからあたしも答えるしかなかったけど、あたし的にはカップラーメンの方が美味しかった。食卓に並んでいたのは奮発されたわけでもない平凡な和食だったから。でもあたしは美味しかったって答えていた。何の迷いもなく。ごはんを少なめに盛られた某先輩が抗議していたのも、あや先輩がやっぱり楽しそうにあたしに話しかけてくるのも、速攻食べ終わった某先輩がおかわりしてたのも、それをずーっとあや先輩のお母さんに見られていたことも。一人でボーッとテレビを見つめて啜るラーメンの方が美味しいはずなのに、何回聞かれてもあたしは美味しかったって答えてた。……なんか、変な感じ。