第五話 西園寺行成
俺は目の前の光景に、ただ唖然とするしかなかった。
目の前の人物も、この世の終わりの様な顔をしたまま固まっていた。
如月 薫。
芹華の付き人だ。以前からどことなく怪しい感じはあったが、しっかり芹華のためにその身を尽くしていたし、俺たちは信頼もしていた。
その如月が、芹華の服をはむはむしていた。
俺は引き攣る口元必死に動かして喉から声を絞り出す。
「何をしているんだ?」
たっぷり時間をおいてから、如月は高速の土下座を俺にお見舞いして叫んだ。
「申し訳ございませんでした!」
お、おお……。
段々俺は状況を呑みこめてきた。
冷静な口調で如月を追及する。
「質問に答えろ。なんで、そんなことを、していた?」
視線に力を込めて問う。
如月はまたたっぷり時間を置いてから、土下座の姿勢のまま観念したように口を開いた。
「つい……やってしまいました」
「は?」
「私は、ろ、ろ……!」
如月は顔を真っ赤にしながらひたすら「ろ」という単語を繰り返す。
「なんだ?」
俺が訊き返すと
「ロリコンなんです!」
といった。
結論から言うと、如月は解雇した。当然だ。
如月も全く弁解や抵抗することなくただひたすら「本当に申し訳ございませんでした」と言いながら去って行った。
信頼していた如月が「ロリコン」という理由でやらかした。
だから新しく雇われることとなった吉岡雅也という男も警戒せざるを得なかった。
しかも吉岡は顔合わせの時に芹華を見て、一瞬だけ気色悪い顔をしていた。
にやつきながら廊下を歩いているのを見たこともあるし。
更に俺の警戒を強めるきっかけとなったのが、芹華が友達を家に招いていた日だ。
俺が学校から帰ってきて自室へ向かう途中、芹華が部屋から顔を真っ赤にしながら出て行くのを目撃した。
おもわず呼び止めて「どうした?」と訊いても「な、なんでもありませんわ!」と言って走り去って行った。
更に芹華の部屋から、しれっとした顔で吉岡雅也が出て来る。
これは怪しい。
おもわず呼び止めて追及してしまうのも仕方ないだろう?
大切な俺の妹を傷つけたら容赦はしない。
吉岡は俺にビクビクしながら必死に身の潔白を示していた。まるで殺し屋に脅されてるみたいな顔をしやがる。失礼だな。
俺は学園で、吉岡について親友の有栖川京也に話していた。
「あー、それは確かに怪しいかもな」
「だろ?」
「にしても、行成ってつくづく芹華ちゃんの事大好きだよなぁ」
「そうか? 家族として当然の愛情を注いでるだけだ」
妹に近づく危険因子は即刻排除し、手を出そうものなら地獄の果てまで追いかけるつもりだ。
うむ、当然だろう。
「京也には兄弟がいないから分からないんだ。普通はこんなもんだと思うぞ」
「はいはい」
京也は軽くあしらって話を続ける。
「でもさ、その吉岡って人ビビっちゃってるんじゃないの? 行成って敵と認識した相手には容赦ないし。殺し屋みたいな顔するもんね」
殺し屋って……そんな顔した記憶は今まで一度もないんだがな。
「まあ、もうちょっと優しい目で見てやりなよ」
「……善処する。多分」
「まあ難しいかもしれないけど、行成はもうちょっと人を信頼してみたらどうだ? みんながみんな、裏切者ってわけじゃないし」
その言葉に、俺はもうすでに家を去った兄の顔を思い浮かべる。信頼する……か。
「それも善処する。多分な」
「おう」
京也は俺の返答に、優しい笑みを浮かべて答えた。
その日、家に帰ると吉岡がいつもにようにビクビクした目とは打って変わって、力のこもった瞳で話しかけてきた。
「お嬢様の事で少し伝えておきたいことがあります。この後、少しだけお時間いただけないでしょうか」
芹華の事か……。
まさかとんでもない事を言うつもりじゃないだろうな。それこそ「ロリコンなんです。どうかお嬢様をペロペロさせていただけないでしょうか」とか。
吉岡は俺が思考を巡らせている間もしっかりと覚悟を決めた瞳で俺のことを見据えている。
うん。そんなとんでもないことは言いそうにないな。
京也も言ってたことだし、話はちゃんと聞こう。
「いいだろう。俺の部屋までついてこい」
言うと吉岡はホッとしたような表情を浮かべて「ありがとうございます」といった。俺、そんなに怖がられてたのかな。
うーん、ちょっと冷たくし過ぎてたのかもしれない。
部屋に着くと、吉岡は率先してドアを開ける。
俺は中に入り、ブレザーを脱いでネクタイを緩めた。ソファに座って話すように促がすと、決意を固めたような表情をして吉岡は語り出した。
吉岡は冷たくされる理由が分からなかったが、如月が関係していると判明したと言った。
如月。その名前を聞くと嫌でも顔を顰めてしまう。
吉岡の西園寺家への忠誠心の強さが語られる。嘘には見えない。まだ仕え始めてからの期間はたかが知れているというのにすごいな。
流石、天才執事だ。
「しかし如月という人物が起こした不祥事のせいで私まで敵視されるのは納得いきません」
俺はその言葉に思わず眉が動いてしまう。
その言葉では、上下関係を気にして気を遣った言葉ではなく、吉岡の本心が語られている。
確固たる気持ちがひしひしと伝わってきた。
「失礼を承知で言わせていただきます。行成様に敵視されるのは心外です」
驚いた。
「心外です」なんて今まで従者の誰にも言われたことがないし、クラスメートや教師にだって言われたことが無い。
それを吉岡は言った。
俺はすぐに表情を引き締めなおす。
「そうか」
取り敢えずそれだけ言って、頭の中を落ち着ける。
こいつの事を信頼するべきか。まだ疑いを持ち続けるべきか。
人なんて簡単に裏切る。如月にしても、あの兄さんにしても。
俺はもう一度吉岡を見据える。
その目を、こいつの信念を、信頼してもいいのだろうか。
信頼する価値はあるのだろうか。
すぐに答えは出なかった。
京也の言葉を思い出す。信頼する事。
少しは、この男を信頼してみよう。今まで冷たい事ばっかりしてきた償いってわけでもないが、信頼する価値はある。と信じる。
「分かった。今まで疑って悪かった。これからは吉岡の事を少しは信頼してみるよ」
そう告げた瞬間、吉岡は一気に気が抜けた顔をして
「ありがとうございます!」
といった。
信頼してみるとはいえ、「少しは」だ。
まだ完全に信頼したわけじゃないので釘を刺しておく。
「それだけ決意を表明しといてないとは思うが、芹華に妙な事したら容赦しないからな」
「は、はい。承知しております」
吉岡の顔が再び引き締まった。
その後、吉岡は部屋を後にして仕事に戻った。
にしても、如月の事は誰に聞いたんだろう。聞きそびれてしまった。まあ、それは今度でいいか。
そろそろ夕食の時間だ。俺は部屋を後にする。
食卓につくと、既に芹華と母さんが席についていて、吉岡が配膳をしていた。
どうやら今日は珍しく父さんが一緒に夕食を食べるようだ。もっとレアなことに桜山さんもいた。
「いただきます」と唱和し、食べ始める。
夕食を食べ終わり、吉岡が用意したお茶を飲みながら芹華と母さんで談笑する。ちなみに父さんと桜山さんはすぐに仕事へ戻ってしまった。
「あ、そうだ。芹華さん、行成さん」
談笑していると、思い出したように母さんが言い出した。
「明後日の土曜日は、西園寺家主催の大事なパーティーがあるから予定を開けて置いてね」
パーティーか。あんまり好きじゃないんだよな。
高校一年生ともなると、西園寺家の御曹司である俺とお近づきになろうとしてくる良家の女性たちが増えてくる。その女性たちに愛想笑いを振りまきつつ逃げるのは中々に疲れる。
俺が憂鬱な気持でいると、芹華が話しかけてくる。
「お兄様、エスコートしてくださいますか?」
上目使いで確認してくる天然あざと可愛い妹に呆れつつ、俺は「もちろんいいよ」と言って頭を撫でてやった。
そんな俺たちを見て優しく微笑んでいる母さんに向かって、芹華は期待したような顔で訊いた。
「お母様、吉岡さんは来るの?」
「いいえ、今回は吉岡さんは家で留守番しててもらうわ」
母さんの言葉を聞いて、芹華はあからさまに落胆した様子を見せた。
……吉岡め。芹華にそんなに好かれていやがるのか。
俺は近くで慎ましく佇んでいる吉岡をじとーっと軽く睨んでやった。
あ、気まずそうに目を逸らされた。
やっぱりまだ警戒が必要かもしれない。