本当の戦士
「よーし、友哉ー! いくぞー!」
良太は軽く助走をつけて、握ったボールをこちらに投げる。五十メートルの距離は、捕手である良太には苦でもなんでもない。涼しい顔で、僕の返球を待っている。
僕も、肩を慣らすために、無理のない程度に投げる。変に力を入れてしまうと、コントロールが乱れたり、肩を痛める原因になってしまう。これまでに、大きな怪我を負ったり、極度のスランプに陥ったりしたことはないが、これからは高校野球だ。中学野球とは、色々と勝手が違う。
「じゃあ、一旦休憩な~。水分摂ったらノックするぞ~」
石崎先輩の言葉に、僕たちはキャッチボールをやめ、ベンチに戻る。ベンチと言っても、簡素な長椅子がいてあるだけである。ちょっとばかり重いものを乗せてしまえば、派手に崩れてしまいそうな木の椅子だ。開田監督は、そこにどっかと腰を下ろして、僕らの練習を眺めていたようだ。監督は今、石崎先輩と何やら会話を交わしている。監督の朗らかな表情に対して、先輩の険しい表情は崩れない。それはもはや、鬱陶しいと感じているようにも見えた。二人の性格を考えると、反りが合わないことも多いのだろう。
僕は嘆息して、視線をベンチに落とす。
「お?」
ウォーミングアップの時と、若干その景色が変わっていた。
先ほどまで監督がいたであろうスペースのすぐ横には、十五リットルのウォータージャグとコップが置かれている。皆、飴玉に群がる蟻のような勢いでコップに手を伸ばし、お茶を飲んでいた。その傍らで、葵が疲れた顔をして、両腕をぷらんぷらんと揺らしていた。
「これ、葵が?」
僕の言葉に反応して、葵が姿勢を直す。それでも腕はまだ痛むようで、うーんと伸ばしている。
「まあね。一応マネージャーやから、まずはすぐにでもできることを、って思て。マネージャーっていうと、『お疲れ様。はい、これどうぞ。』って言ってタオルとか渡すイメージやろ? それに少しでも近づきたいから。にしても、いやー、重かったわ」
ははは、と笑いながらしきりに腕を解している。
葵の言うとおり、確かにマネージャーのイメージと言うと、マンガやアニメにあるようなシーンを想像してしまう。だが、その実情は選手と共に「戦う」一人の戦士なのだ。
僕は、マネジメントは寧ろされる側なので、決して詳しいわけではない。でも、葵がマネージャーをする、と決意した日に、少しだけ調べてみた。様々なサイトや、ネット上の知恵袋を見ているうちに、その苦労が少しずつ分かってきた。
先ほどの葵がやっていたようなドリンクやタオルの準備、試合時のスコアラーや、相手チームの監督、そして審判への接待など。中学時代、僕らの野球部にはマネージャーと言う存在がなかったので、触れることもなかったのだが、かなりハードだと思う。僕の想像になるが、もしかしたら僕ら選手よりも大変かもしれない。気苦労も重なることだろう。人と接するのは得意な葵だが、この時僕の中にわずかな不安が生まれたのも事実だった。
だから、先ほど葵に言った「お前ならやれる」という言葉は、選手として出場することはできない彼女の気持ちに共鳴した、僕の願望なのかもしれない。
「しかも、お茶を買いに走ることになってしもたからなー。そこのコンビニまで全力疾走したんやわ」
マネージャーも結構大変なんやなー、と葵が苦笑して呟く。
走れば往復十分程度しかかからない、学校近くのコンビニ。だが、任務を司って走ると、その景色は大きく変わって見えたことだろう。
「お疲れ様……!」
ポンッと葵の肩をたたく。反動で、一粒の汗が葵の頬を伝っていった。
「友哉もねっ。ほら、急がないとノック始まってまうよ。早う飲んで! コップ洗うんは私がやるからさ」
僕は急かされるがままにお茶を飲んだ。程よく冷えている麦茶が体の中を潤していく。いつも飲んでいるものときっと商品は同じはずなのだが、気のせいだろうか。何だか、味が違うように感じられた。
バットを片手に持った開田監督が、ゆっくりとバッターボックスに立つ。
ノックは開田監督によって行われる。葵はノッカーである監督にボールを渡すため、その横で待機している。
「じゃ、一球目、行くぞ~。どこに飛ばすかわからんから、ちゃんと守っとけよー」
軽く球を宙に上げて小さく打つ。カコン、という金属音が響き、力のない打球がセカンドを守る支倉の前に転がった。素早く前進して捕球、無駄のない動きで一塁の貴浩に送球する。
「支倉、うまいなー。頼りにしてるぞー」
監督の言葉に「ありがとうございまーす」と小さく答える支倉。その表情に変化はない。ただただやる気のなさそうな、辛気臭い顔だった。
でも、綺麗なプレーを普通にできるというところは、尊敬に値するかもしれない。
「次、いくぞ~」
再びゴロが転がる。今度は僕と石崎先輩のいるショートに向かって転がってきた。捕球するのは石崎先輩だが、万一、後逸してもいいように、小さく腰を落として構える。
「……ふんっ!」
だが、僕の行動など必要ないと嘲笑うかのように、石崎先輩は華麗に捕球、送球した。
ゴロ処理の基本である、体の正面での捕球。そして、一塁手が辛い体勢にならないように的確に送球する技術。それが石崎先輩には完璧に備わっていた。一塁でボールを受け取る貴浩のミットは全く動いていない。僕も、中学三年間は基本的にショートを守ってきたが、あれほどまでにまっすぐな送球をしたことは数えるほどしかない。そんなことを涼しい顔でやってのける石崎先輩に、僕はただ舌を巻くことしかできなかった。
「おい、楠木、ぼけっとすんなや」
その石崎先輩の忠告で意識を戻す。散漫になってしまった心を一度二度、小さく深呼吸して落ち着ける。
「じゃ、次~」
今度も僕の方向だ。
これが、高校野球のノックで初めて僕が捕る球。そう思うと、少し鼓動が速くなる。僕をめがけて転がってくるボールを無心で見据える。さっきの石崎先輩の時よりは勢いがあるが、大したことはない。そんな僕でも簡単にとれるレベルの打球だ。
「……あっ」
僕が捕球体制に入ろうと腰を低くした途端、ボールの軌道が変わった。グラウンドなので、小石にでも引っかかったのだろうか。それとも、ボールの回転のせいだろうか。
何にせよ、僕の差し出すグローブからは大きくずれてしまっている。野球ではよくあることなので、今更あわてることはない。冷静に、臨機応変に対応することが重要だ。
バックハンドに切り替えて、難無く白球をグローブに収める。体制を立て直し、できるだけ素早く一塁に送球した。
「ナーイス!」
ファーストで僕の球を捕球した貴浩が声を上げる。
「楠木~! 今の良かったよ~! ナイスプレー!」
監督も称賛してくれる。
バックハンドとは、逆シングルとも呼ばれる捕球方法の一つだ。打球を自分の正面で捕ることができない時によく使う。グローブを持つ手と逆の側で捕球し、捕球後はそのまま前に押し出して、送球する。捕球が難しい、後逸する可能性もあるなどのリスクも伴うが、強い送球ができるので、必要な時には使う価値があると思う。
僕自身、バックハンドで捕ったのは久しぶりだったので、小さな高揚感が生まれる。でも、自分のプレーを自画自賛している暇はない。こうした一瞬の心の緩みが、大量失点につながるケースは多い。高校野球なら、その影響はとても大きい。
そしてまた打球が舞う。今度はセンターを守る柴田に向かっている。監督のノックの能力が素晴らしいのか、柴田はほとんど動くことなく捕球体制に入る。
「……あっ」
思わず、だらしない声が出てしまった。柴田は、簡単に捕れるであろうその打球を零してしまった。握りが甘かったのか、タイミングを誤ったのか定かではないが、ボールは柴田の足元をてんてんと転がっている。
「おい! 柴田!! 何やっとんや!!」
僕の背後から、石崎先輩の叫び声が放たれる。柴田はあわてて、落ちたボールを拾い、一塁に送球した。貴浩がゆっくりと捕球し、後ろに置いてある籠にボールを放る。
ボールとボールがぶつかり合う音が、僕らのところにまで聞こえた。
少しの時間、気まずい空気が流れる。葵は、監督にボールを渡すべきか否か迷っているのか、石崎先輩と柴田とを交互に見て戸惑った表情を浮かべている。
「まぁまぁ、石崎。まだ入部して時間経ってへんのやし、仕方ないやろ。そうカリカリすんな。ミスは誰にだってあるよ」
監督の穏やかな声が、静寂を保つグラウンドに響く。どうも、この監督は本当にそう思っているようで、「ミスをしてしまうのは当たり前」と考えているようにすら窺える。普通の野球部なら、初練習だとか、新入部員だからといって不必要な慈悲は与えたりせず、さっきの石崎先輩のように怒号を轟かせることだろう。
「…………ちっ」
隣で舌打ちをする音が聞こえた。不承不承ながらにショートの定位置につく先輩。今度はライナーが飛んでくる。がっし、としっかりと捕球する。そして一塁に送球する。この一連の動きが、先ほどと比べ、かなり敏速になっている。
その大きな背中は何も語らない。先輩がいま、何を考えているのかはわからない。
だから、僕は発せられることのないメッセージを感じ取る。流れる一筋の汗にも、その想いは強く凝縮されている。苛立ち、嫌悪、諦念……。誰にも悟られることなく渦巻く、数多の負の感情。
そして僕は確信する。
僕の憶測は、間違っていなかったと。