いずれ持つ大きな力
「じゃあ、新一年生は、前に!」
バックネット前に集まった僕たちの前で、開田監督は今朝に出会った時と同じ表情、同じ雰囲気で高らかにそう言った。監督が現れてすぐ、挨拶もロクに済ませていない中だったので、僕は少し驚く。普通、挨拶をしてからやないか……と疑問符を浮かべるが、葵を始めにぞろぞろと出ているので、僕も駆け足で向かう。
「えー、今年は五名の新一年生が、この野球部に入部してくれました。では、簡単な自己紹介をお願いします」
ここに来て初めて知ったことだが、僕たち三人のほかにも同じクラスに入部希望者がいたようだ。一人はぼけっとしていて、眠たげな表情を浮かべている。体格は僕と同じくらいだ。もう一人は、どちらかというと小柄で、サルのような顔つきの生徒だった。あまり覚えていないが、二人とも僕が声をかけた生徒かもしれない。
横一列に並んだ僕たちを監督がちらっと見る。早く言え、ということだろうか。お決まりの行動のように、僕たちは顔を見合わす。こういう時は誰から先に言うかで軽く揉めるものだ。目で「誰か行けよ」と言い合う僕らを見て、葵がやれやれとため息を吐いて、一歩前に出た。
「えっと、一年一組の木ノ下葵です! マネージャーとして入部しましたが、中学時代には二塁手もやったことがあります。こんな性格の私に、選手のマネジメントという大役が務まるかどうかわかりませんが、精一杯やりますので、よろしくお願いします!」
一気に話し終え、そしてぺこりとお辞儀をする。僕らの間からパチパチと疎らな拍手が起こる。深く一息吐いてから元の位置に戻った葵は、「ホラ」と口を動かして、隣に直立している良太を促す。良太は何も言うことなく、すっと一歩前に出た。
「同じく、一年一組の山本良太です。中学校の時は捕手やってました。よろしくお願いします」
簡素な自己紹介をして、葵同様お辞儀をしてから戻った。隣に立つ男子生徒が「暗い奴」と、陰口をたたいたのが聞こえた。本人に聞こえた様子はなく、澄ました顔でじっと前を見つめている。良太は暗いんじゃなく、静かなんや、と心の中で彼の声を塗り替える。これから共に暮らしていく中で、そのことに気づいてくれるだろうか。
続いて、次の新一年生――サル顔の生徒――が一歩前に出る。
「え、えと……。一年一組、柴田亮輔です。中堅手です、よろしくお願いします……」
必死に耳を傾けないと、聞き取れないような声だ。前に立っていた貴浩や石崎先輩も、つい前のめりになってしまっている。
「お前、もうちょい声出さんとあかんぞ」
石崎先輩の厳しい声が飛ぶ。その声に、柴田はおびえたような表情を浮かべ、「……すみません」とまた蚊の鳴くような声で言った。まだ何か言いたそうな顔をしていた石崎先輩だが、貴浩と監督に止められて渋々ながら戻っていった。
そして、落ち着くや否や、僕の隣に立っている生徒が話し出す。さっき良太を悪く言った、眠たげな顔をしている生徒だ。
「えーっと、同じく一年一組の、支倉俊介でーす。セカンドやってまーす。よろしくお願いしまーす」
変に間延びした、聞いていてなんだか、もどかしくなるような低い声だった。お前も十分暗いやないか、と誰にも聞こえないように毒づく。この二人を見ていると、中学時代、声だしとかはどうやっていたんやろう、と思ってしまう。かたや聞き取れない大きさ、かたや癖のある変な声……。正直、想像がつかない。
そして、僕の番になる。少し緊張はしていたが、余計なことを考えているうちに落ち着いたようだ。すらすらと、思いつくことを口に出す。
「一年一組、楠木友哉です。中学の時は、木ノ下葵と一緒に二遊間を組んでいました。高校でも遊撃手をやれればいいなと思っています。あと、一応投手もできるので、よろしくお願いします」
そう言って、頭を下げる。変わらず、小さな拍手を送られる。元の体制に戻ると、貴浩と石崎先輩と、目が合った。貴浩は白い歯を見せて笑い、石崎先輩は無言で目を逸らす。相も変わらない二人だなぁ、と僕はつい笑ってしまう。そうすると、石崎先輩にジロッと睨まれた。
「まぁ、そういうわけで、新人が入ったから、先輩も頑張ってね~。じゃ、二人も自己紹介して」
今度は先輩二人が挨拶する。
貴浩はエネルギッシュに、自分のプロフィールを述べた。一塁手の彼は、守備はそれなりに上手なのだが、バッティングにおいては、併殺打が多いという難点がある。ダブルプレーとは、一言で言えば一度のバッティングで二つのアウトを取られてしまうというものである。攻撃側にとってはチャンスを潰すことになり、守備側にとってはピンチから脱する最も理想的な形だ。貴浩は、バッティングの際、よくも悪くも思い切りが良いので、もったいないプレーをして苦言を呈されることも少なくはなかった。だからこそ、彼は打つ時には打つ。中学の練習試合の時には、一面のグラウンドで同時に二つの試合が行われることも多かったのだが、貴浩の打球がノーバウンドでもう一方の試合の中に飛び込んだこともあった。打たれたピッチャーはマウンドに呆然と立ち尽くし、僕らも簡易なベンチでその白球の行方をただ眺めることしかできなかった。そんな驚きの空気が漂う中、悠然とダイヤモンドを一周する貴浩の姿を、僕は今でも覚えている。
そして最後を飾るのは石崎先輩だ。巨体をずんっと前に出し、ぶっきらぼうな口調で簡潔な自己紹介をした。それを聞いて初めて知ったのだが、石崎先輩は僕と同じ、ショートを守っているらしい。また、これも僕と同じく、投手も熟せるのだそうだ。僕が先発に対して、石崎先輩は抑えだが、僕と石崎先輩は似通っているところが多いなー、と密かに思った。
「じゃあ、練習始めよっか~。部長、よろしく」
「今日は今学期の初練習ということで、そんなにハードにやる予定はない。とりあえず、高校の練習に慣れてもらうことを目的にする。まず、ウォーミングアップに外周五周な」
石崎先輩の言葉に僕らは「はい!」と返事する。柴田と支倉の声は、あまり聞こえなかった。
この学校の外周は大体四百メートルほど。体を温めるために走るにはちょうどよい距離だと言える。僕らは一列に並び、石崎先輩を先頭に、掛け声を出しながら走り出す。
走っていると、ひっそりとした風を感じる。枝から解き放たれて道路に落とされた桜の花びらは、自動車に踏まれ続けたためか、黒く汚れている。沈黙するそれは、微動だにせず、その場で眠っている。その真横を、僕の真っ白な靴が駆けてゆく。それくらいの振動では、花びらは動かない。もっと大きな力でないと、生き返ることはない。
石崎先輩の大きな掛け声が、走る僕の鼓膜を震わせた。僕も負けじと声を張り上げる。
「イッチニ―、イッチニ!」
「ソーレ!」
「イッチニ―、イッチニ!」
「ソーレ!」
僕、良太、貴浩、柴田に支倉のこれまで揃わなかった「ソーレ!」が初めて重なる。それは既に四周目の後半だったのだけれど。纏まった僕らの声は、とても大きく聞こえた。人数は去年よりも減ったはずなのに。一部の部員のやる気は、とても低いと思ったのに。それは一種の、不思議な『音楽』かもしれない。他の運動部の掛け声が、まるで歌声のように聴こえたこともあった。これまで幾度となく聞いてきた声も、境遇や環境が変わるとこんなにも違って聞こえるものなのだろうか。間違いなくそれらは悪化したはずだが、この一瞬はもしかしたら忘れられないかもしれない。
まだ僕たち個人の力は小さいけれど。近い将来、巨大な桜の樹でさえも動かせるような、そんな力を見せることができるようになるのだろうか。
考えながら走る僕の頭上で枝葉がさわさわ、と揺れた。背伸びすればすぐに手が届いてしまう高さにあるそれらは、とても細い。けれど、その一本一枚には、厳しい環境を生き抜いてきた生物たちの想いが籠っている。簡単には折らせない。誇らしげに靡きながら、そう伝えていた。
ダッシュやストレッチで体を解したあと、次にキャッチボールを行うため、僕らは一旦部室へ引き返した。今日はグローブまでは持ってきていないため、部にもともとあったものを使わせてもらうことにした。暗い室内に入り、置いておいたお茶を飲む。
「なぁなぁ、友哉」
僕と同じく、部室に戻ってきた葵に声をかけられる。先ほどのウォーミングアップの時間、葵はずっと監督から話を聞いていた。マネージャーの仕事について質問でもしていたのだろうか。葵にとっても新境地になるので、色々不安なことはあるのだろう。
「練習中とかにさ、声出すやん? さっきのランニングもそうやけど、ほかにもノックとかの時な。あれって何でなん? 私、中学ん時から疑問やったんやけど」
「知らずにやっとったんやな」
僕の指摘にうっと顔を歪ます葵。まぁ、無理もない話か。僕だってその理由を知ったのは結構最近だ。昔は、ただ声出さなあかんと思うから出してた、ということもあった。
「やっぱり普段から声出しとると、アウトカウントの確認とか簡単にできるやろ? それに、相手のチームにプレッシャーを与える効果もあるな。たまにおったやろ、こっちが耳塞ぎたくなるような声出す学校」
葵が記憶を巡ってあぁー、と頷く。相手チームの声が大きいとやはり威圧感を感じる。そして、そのような学校は大抵、送りバントや足を絡めた攻撃が得意なのだ。
「攻守のリズムを作ったり、ほかにもいろいろ……。イップスを防ぐため、っていうんもあったな」
「……いっぷす?」
「試合の時とかに、緊張で筋肉が強張って本来の動きができなくなってしまうことだよ。声を出すんと出さへんのとでは、そこらへんが大きく変わってくるみたいやから。それが原因で野球人生が終わってしまう人もおるらしいしな、頑張って声出さんと」
僕はグローブを左手に嵌め、捕球面にポンポンと拳を当てる。そのたびに砂が舞って、思わずむせる。
ふと、誰かが名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
「ほら友哉、先輩が呼んどるよ」
葵に手招きされ、僕は再びグローブを深くはめ込み、部室を出た。ほんの少しの間いただけなのに、外の光がとても眩しく思える。地面に転がっていたボールをつかみ、右手に持ち返る。
「そういや、さっき監督と何喋っとったん?」
葵も、偶然そこにあった白球を持って手で弄ぶ。
「んー? 大したことはしてへんよ。ただ、マネージャーの心得、聞いてただけ。私に務まるのかなー?」
戸惑ったような笑みを浮かべて、葵は空を見上げた。高いのは秋の空だが、春の空も十分高い。今日もゆっくりと風に流されて、白い雲がふわふわと漂っていた。
向こうで、良太がグローブを嵌めた左手を振っている。
「お前ならっ、うまくやれる……よっ!」
答えながら僕は手にしていた白球を投げる。青い空と、白い雲の狭間を縫って、大きな放物線を描いた。良太は一歩も動くことなく、僕の投球を受け取る。
「ナイスボール!」
良太が一言添えて投げ返す。そのボールも、ぱすん、と音を立てて収まる。
葵はそんな僕らをしばらくの間、座って見つめていたが、やがて立ち上がった。彼女の高校野球生活にも、始まりの鐘の音が、鳴り響く。