夜空に咲く花びらと彼女の笑顔
とりあえず僕らは、人ごみから逃れようと、必死に歩いた。いや、正確には歩いたと言うよりも、押され続けた、と言った方が良いかもしれない。前に進もうと思えば押し返され、押し返されたかと思えば、後ろから押される。そんな押し競饅頭のような状態の中を進み続けた。
十分ほど経って、ようやく僕らは少し空いた場所に出ることができた。混み合っているのは橋の上と露店の辺りだけなので、それ以外の場所は比較的広く使える。休憩スペースのように開放された場所で、僕らは荒い息を吐いていた。
「ご、ごめん、友哉! 私が遅れたせいで!」
頭上から街灯が、僕らを照らしている。葵の顔にだけ泥がかかったかのように、黒ずんでいた。
「謝らんといてーや。僕が見失ったんが悪いんやし、葵は歩きにくかったんやから、しゃーないって。それよりも、早いとこ合流しよ」
僕は携帯を取り出して、良太に連絡を試みる。だが、何コールしても、良太が電話に出る気配はない。
「私が言うんも何やけど……。この混雑と騒々しさなんやし、着信音、聴こえへんのんちゃう? 仮に気づいたとしても、満足に話せんと思うよ」
遠慮気味に抑えられた口調で葵が言う。
「……ま、そうやね。じゃあ、どないしよっか? 貴浩んとこに戻る?」
言いつつ僕は再び橋へと視線を向ける。そこは相変わらず、蟻の群れのように人がごった返しており、こちらに来る人、向こうに行く人が交錯していた。
「戻りとーないな……」
葵がぽつりと漏らす。僕も同感だった。折角ここまで苦労して来たのに、また何もせずに戻るのはあまりにも無駄骨すぎる。
「じゃ、何か買っていこか。花火が上がるころになったら、少しは落ち着くと思うしね」
僕たちがいる場所から露店のまではそう距離はない。赤や黄色の光は、目と鼻の先にある。
「よっしゃ、友哉! 行こっ!」
そう言いながら、葵が手を差し出してくる。一瞬、何だろう? と考えたが、すぐに気づく。僕たちまではぐれてしまっては、また合流するのが困難になる。二度とはぐれないようにするために、繋ぐのだと理解した。
僕たちは再び固く手を取り合い、光で照らされた場所へと進んだ。
「おー、やっぱうまい!!」
フランクフルト、焼きそば、たこ焼き、綿あめにかき氷……。そんなお祭りの定番と言えるであろう食べ物を貪りながら、葵はそう叫んだ。
今僕らは、露店からそう遠くない場所に腰を下ろしている。本当は貴浩のいる場所へと帰りたかったのだが、まだ混雑は解消されず、食べ物を持って歩くのは些か危険だと判断したためだ。歩いていても他人とぶつからないまでに緩和されたら帰る。良太と貴浩にはメールでその旨を伝えてある。
「普段家で食べとんのとはやっぱ違うわー! たまには違う味付けもええね!」
今度は焼きそばを啜りながら笑う葵。休む間もなく、次の一口を食べようとする。
「ソース、ついとるよ。この辺」
茶色く汚れてしまっている場所を自分の頬で示しながら、僕もつい笑ってしまう。葵は持っていたティッシュで軽く拭うと、少し控えめに啜り始めた。
僕たちは幼馴染として、良太、貴浩と共に小さいころから一緒に遊んだり、喧嘩したりしてきた。当然ながら、その中で、笑う状況は数えきれないほどたくさんあった。良太と昨日のテレビ番組について語った時も、貴浩の豪快さに辟易したときも、僕は笑った。だが、僕が一番自然な流れで笑えるのは、目の前の少女と話しているときだと思うのだ。今だってそう。僕は知らない間に笑みを浮かべてしまっている。それは僕が元々そういう人だから、もしくは相手が女子だから、とかいう理由もあるだろう。だが、小さなしこりのような感覚が拭い去れない。些細な違和感を覚えていた。
「ほらほら、友哉も食べなよ。全部食べてまうよー」
葵の呼び声と、何かの香りに誘われその方向に顔を向ける。すると、口の中に突如、熱いものが入れられた。
「うわっ、何!? 熱っ!」
口の中で冷ましながら呑みこむと、ようやくそれがたこ焼きだったと理解できた。口内の痛みに耐えながら、恨めしい視線を葵に向けると、無邪気に彼女は微笑んでいた。僕としては怒りの言葉の一つや二つ、投げかけたいところであったが、その笑顔を見ると、そんな気持ちは萎えていった。
「……普通に食べられるから。爪楊枝、貸して」
水を飲んで一息吐き、今度は自分でたこ焼きを口に運ぶ。今度は生地や小さなタコの食感を味わうことができた。
「うん、おいしいね」
「やろ?」
なぜか得意げに葵は言い、自分もたこ焼きを口に運ぶ。先ほどの僕みたいに、口の中ではふはふさせながら、ようやく飲みこんだ。
「はは、やっちゃった」
照れくさそうに笑いかけるその姿は、この状況を心から楽しんでいるように見えた。実際そうなのだろう。けれども、仲間とはぐれて、まだ元の位置に帰られるかわからない状況で、ここまですべてを忘れたかのように楽しめる葵の性格には、感心すらしてくる。少し前までの、はぐれてしまったことに責任を感じて沈んでいた葵とは別人のように思えた。
「あっ、そろそろ時間なんちゃう?」
葵がそう言うのを待っていたかのように、会場にアナウンスが響き渡る。間もなく打ち上げなので、みなさんでカウントダウンしましょう、と女性の声がかかる。僕らの周りに座っている人からはもちろん、橋の上の数えきれない人の群れからも、歓声が上がる。
カウントダウンが始まる。僕も小さな声で数を数えながら、その瞬間を待っていた。隣の葵は元気よく数えている。会場のボルテージは、一つ数字が減る度に増えていく。みんなの視線が漆黒の空へと向けられる。今日は暗い空を遮る雲は一つとして確認できなかった。そんな大空に、これから闇を照らす大輪の花が誕生する。
ゼロ! とみんなが叫んだ瞬間に、高い音と共に一輪の花が開く。どよめきや拍手が沸き起こる。僕らは、様々な色に変化するそれを、食い入るように見つめていた。
「綺麗ー……」
葵のつぶやきが、破裂音と重なって届く。そこには、数多の色を瞳に映す葵の姿があった。繊細に輝く花火の色に負けぬ色を、彼女は持っていた。
「うん……。ホンマに綺麗……」
僕の言葉は誰にも聞かれることなく消えた。花火のように白煙を残すことなく、小さな存在として消えた。僕にはそれでよかったと思える。それが何のために発せられた一言なのか、僕自身すら、わかっていないのだから。
中学の時、夏休みの自由研究のために、花火を調べたことがある。ほんの些細な記憶なので、今の今まで忘れていた。だが、葵と並んで眺めているうちに、それは靄のように僕の体の中を這いまわった。
その記憶とは、花火の歴史についてだ。花火は、一七三三年、両国花火大会をきっかけに日本に広まった。現在の隅田川に架かる両国橋の近くで行われたと言われている。
徳川吉宗が、一七三二年に起こった享保の大飢饉やコレラの流行によって死んだ多数の民を弔いと悪霊退散のために花火を打ち上げたのが、民衆にとっての楽しみへと変化した。
今、僕らはこうして、花火を夏の風物詩として、夏の到来を感じさせてくれる娯楽として見ている。けれども、花火の起源は、誰かを楽しませるためのものではないのだ。
死者、誰かとの別れ、悪霊……。今も昔も変わらない。誰かとの別離は、きっと悲しかったことだろう。僕らにも、いつか必ず、別れの時はやってくる。ただ、それはこの世とあの世、という言葉で区別される別れではない。一時期だけ、遠くに行く。それだけのことだ。ひょんなことで再会できるかもしれないし、同窓会で会える。寂しさの中にも、必ず希望のようなものが残るはずなのだ。
(でも……なぜだろう……?)
空に広がる花火から視線を落とす。さらさらと流れる川面に、光が映っていた。空に上がるそれよりも、輪郭があやふやになり、形を保てない姿。それはまるで、大火に燃やされて萎んだ一輪の花のようだった。
無性に恐怖が込み上げてくる。僕も花のように萎んでゆく。僕が差し伸べる手は届くことなく、空を切る。その景色に希望があるはずがなく、望みが絶たれた世界のみが見える。僕はどうやら、孤独を感じているようだ。大切な人が遠く去ってしまうかもしれない。僕にはそんな、色あせた世界が見えていた。
「……えっ?」
僕は突発的に手を伸ばしていた。今度の僕はきちんとつかみ取ることができる。柔らかいけれど、少し硬くなっている葵の手に触れた。優しくて、温かな感触が、今はとても安心できた。
葵の驚きの声は、アナウンスと、歓声と、花火の音に掻き消される。僕はそのまま目を瞑って俯いていた。湧き上がる恐怖に抗うべく、力を籠め続けた。
「…………痛い」
葵はそう言いながらも、空いている片方の手で、僕の顔を上げてくれる。ゆっくりと上げられた僕の視線と自らの視線を合わせて、優しく笑んだ。
「少しだけ、力を緩めてくれると嬉しい」
言われた通りにする。すると葵の方からも握り返してくれた。
「何か、悪い夢でもみたような顔しとんな。もしかして、ちょっと寝とった?」
「……そうかもしれへん」
先ほど見えた風景は、もしかしたら夢だったのかもしれない。この喧騒の中で眠られるとも思えないのだが、今はそういうことにして片づける。
「ほら、ポカリ。キャップ開けたるから、零さんようにな」
「ありがと」
葵から受け取り、少しだけ飲む。そういえば、マネージャーの葵が最初に作ったドリンクもポカリだっただろうか。
「……ありがとう」
どしたん? と言いたげな葵の不思議な顔から目を逸らし、再び夜空を見上げる。
また一つ、大きな花が優しげな光を放って咲き、消えていった。
家に帰った後、僕は浴衣に描かれていた燕の意味を調べた。
『恋を運ぶ』だった。
これにて第1章完結です。
第2章もよろしくお願いします。




