燕
近くを流れる小川を蛍が飛んでいた。黄色の淡く儚い光が、雪のようにふわふわと心許なく舞っている。川のせせらぎと同化して、夏が来たと思わせてくれる風景に僕らは和みを覚える。
「と、友哉っ……。足が、痛いねんけど……!」
すたすたと普段通りのペースで歩く僕の後ろを、壊れたロボットのような動きで追っている葵。彼女の足元は、いつもの動きやすそうなスニーカーではない。足の中心からかかとにかけて盛り上がった形をしており、歩くたびに木と地面が触れ合い、カコン、と音を立てる。
今日の葵は浴衣姿で、履物は草履。
時は八月十六日。学校は既に夏休みに入っており、そして今日は花火大会の日だ。地元を流れる河川と、そこに掛かる大きな橋の近くで、花火大会は行われる。僕たちは、貴浩たちと合流するために、石生駅へと歩を進めていた。
「……やっぱ、普段履き慣れてへんもんは、履くんやないな……」
「普通の女子高生は、草履とか履き慣れてへんと思うよ……」
僕のツッコミに対応できるほどの気力が残っていないのか、葵は痛みに顔を歪ませながら、僅かにうなずいただけだった。
「まぁ、そのうち慣れるやろ。けど友哉、できれば少しゆっくり目に歩いてほしい……」
流石に僕も、葵に痛い思いをしてほしいわけではないので、首を縦に振って了承する。
ちなみに、僕は普段の服装と何ら変わりはない。浴衣のレンタルや着付けが面倒だったことが最たる理由なのだが、中学時代だったかに聞いた言葉が、僕の意志を固めてくれた。
『男子で浴衣着てええのはイケメンだけ』
少し悲しくはあるが、これも運命なのだろう。実際その通りで、先ほどから横を追い抜いて行く人の中にぽつぽつと見かける浴衣姿の男性は、ほぼみんなが男前だった。そして、その傍らには彼女と思しき女性が高確率でいた。みんなが、これから夜空に咲く大輪の花に寄せる想いを胸に、会場への道のりを歩いている。
(ちょっと、羨ましいな……)
僕だって、普通の男子高校生並に、男女交際には興味がある。ただ、これまでは葵や瑠璃のように、友人としてしか、女子を好きになったことはなかった。「好き」という感情が、「生涯を共に過ごしたい」といった「愛」を含んだ「好き」に変化することはなかった。だから、今も隣で歩いている葵を、ちょっと男勝りな僕の幼馴染、としかとらえられていないのだ。一人の女の子として、恋愛対象として、彼女を見ることができていない。時々葵が見せる言動にたじろぐこともあったが、それは普段の印象とは違った印象を受けることによって湧く、驚きの感情に近い。だから、いつもしどろもどろしてしまうのだ。
「なぁ、友哉。この浴衣、どう思う?」
突然に話を振られ、僕は思わず返答に窮す。葵は自身の纏っている浴衣の裾の部分を少しだけたくし上げ、僕に見せる。薄い闇の中、彼女を照らすものは白い街灯だけだが、その落ち着いた水色の浴衣姿は、はっきりと確認できた。
「私としては、正直恥ずかしいねんけど……。浴衣着るん、初めてやし……」
「確かに、そうやね。中学校んときは浴衣着るんはまだ早い、って思っとったし」
「まぁ、まず浴衣とかに興味がなかった、っていうんもあるけどね」
言いながら、葵は少し僕の先に出る。
「で、どう? 友哉から見てこの浴衣。レンタルしたんやけど、選ぶん大変やったんやで」
僕を試すようにひらひらと袖を振る。
夏に求めたくなる「涼」をイメージしたのか、青色を基調につくられている。何かの鳥があしらわれていると思われる、水色の布地が、紺色の帯で締められている。街灯の光に照らされると、光の白と浴衣の青が混ざり合い、葵から清楚な雰囲気が醸し出される。僕の前で微笑む葵は、女子高生とは思えぬほど、大人に見えた。
「せやね……。普段とは真逆の奥ゆかしい印象があって、葵が葵やなく見える。でも、そういう所も良くて、似合ってるよ」
「普段と逆で奥ゆかしい、って……。多分私、褒められとるんやろけど、何か素直に喜べんわ。でもまぁ、ありがとっ。ちょっとホッとしたよ」
まぁ、普段が奥ゆかしくないんは自覚しとるけどな、と葵は照れ混じりの苦笑を浮かべる。
葵は嬉しそうだった。頬をわずかに紅潮させ、気まずそうに髪の毛を弄っている。僕らの周りにたくさんいた、同じ場所へ向かう人たちの姿は既に疎らになっており、僕たちだけが道中に取り残されていた。
「ちょっと急ぐ?」
「別にええやん。色々話しながらゆっくり行こ」
僕の問いを即断で一蹴した。腕時計を見ると、瑠璃たちと駅で待ち合わせている時間までは、一応余裕はある。ただ、僕の焦燥の気持ちが表れているのか、何となく僕は急ぎたかった。漠然としていて、その理由は正確には分からない。
「……わかった。葵の足も痛むやろし、ゆっくり行こか」
僕はもっともらしい理由をつけて、早くなっていた歩調を緩める。葵はお礼は言わずに、浴衣と適性が良さそうな微笑を返してくれた。
「そういやさっき浴衣を見た時に気づいたんやけど、何か鳥の柄ついてるやんな? それ何?」
葵の背後に行って確認すると、やはり数羽の鳥が、静止の世界で躍動している。水色の上に白で描かれたそれは、マリンブルーに映るカモメのように見えた。
「あぁ、これ? これは燕らしいよ。レンタル屋の人が教えてくれた」
「へぇ~。ちなみに、何か意味とかあるん?」
過去に読んだことのある小説に出ていた気がする。たとえば、牡丹と芍薬は「幸福」などの意味を表す。
「んー、どうなんやろ? 多分意味はあるんやろけど……。そこまでは私も聞かんかったしなぁ……。あと、お母さんがめっちゃコレ勧めてきて、断れんくてさ。だから半分流された形でこれになったんよ」
読んだ小説に書いてあったのは牡丹と芍薬のほかにも花が持つ意味が書かれていたが、ツバメは書かれていなかった。お母さんの推薦ならば、もしかしたら、何か特別な意味があるのかもしれない。
「どういう意味なんやろね。後で調べてみよか」
そんな会話をしつつ、十五分ほどかけて石生駅へとたどり着いた。駅では、山本の兄弟二人が、待ちくたびれた様子で座り込んでいた。僕たちの姿を確認すると、「遅いー」とか「めっちゃ待ったんやぞー」と不平をたくさん言われた。彼らもまた、僕と同様普段着だった。
「そういや、瑠璃は? 来てへんの?」
僕が周囲を見回しながら訊くと、
「あー、それなんやけど、来れへんようなったらしい。さっきメッセージ届いとった。何か家の用事が入ってしもたとかで」
と葵が答えた。
瑠璃はきっと浴衣で来るだろうから、どんな柄のものを着てくるのか、少し興味があった。だが、来られないのなら仕方がない。
「また来年行こ、って返したら、めっちゃ感激しとるような顔文字が送られてきたわ」
葵が少し悲しそうに言う。
「うーん……。とりあえず、行こか。瑠璃は残念やったけど、来年もあることやしな。時間もぎりぎりやし、ちょっと急ごか」
そう言う貴浩を筆頭に、僕たちは早足で歩く。途中、草履の葵が何度か転びかけそうになったが、よろけるたびに、僕は懸命に援助した。その甲斐あってか、会場に着くまで、葵がけがをすることはなかった。
結局、燕の意味が調べられることはなかった。
会場は人しかいなかった。屋台の周りを人が歩いているというよりは、人の周りに屋台があると言った方が正しいだろう。少し高い場所から河川敷を見ていると、黒い塊の中に、提灯や裸電球の光が辛うじて漏れているような印象を受ける。大音量で流れる盆踊りの音楽と、人の話し声がせめぎ合う。「押さずに歩いてくださいー」という、大会関係者の声が、それらに掻き消されていく。
「うわー、ホンマに混んどんなー。ちょっと来るん遅すぎたかなー」
そんな光景を目の当たりにして、貴浩が驚きを越えた感嘆の声を漏らす。
「どうする? ないとは思うけど、一応座って見られそうなところ探してみる? それとも何か買う?」
河川敷の花火を見られる場所は、既に朝から場所とりをしていた人たちによって占められている。場所があるとすれば、橋の上だけだった。ただ、そこも、レジャーシートを広げたカップルや家族連れで埋め尽くされている。
「とりあえず橋の上を一通り見てみて、無かったら諦めよ。ほんでその後、買いに行ったら? わしはこれでええと思うんやけど」
みんなは一度顔を見合わせたが、特に異論は無いようだった。そのまま歩を進めて、橋へと足を踏み入れる。
普段はたくさんの車が走るこの橋は、今夜だけは車両の通行が禁止されている。そのため、僕らと同じ趣旨の人たちを含む多くの人間が、橋の上を行き交っている。何度も何度も、すれ違う人と肩をぶつけながら、僕たちは橋の端から端までざっと見て回った。
「あ、あそこ!」
後ろから葵が指さした先には、僅かではあるがスペースがあった。先を行く人たちは、自分の場所へ帰るだけなのか、誰もそこを取ろうとしない。よっしゃ! と意気込んだ貴浩が、人の波の間をすり抜け、その場所へ颯爽と辿り着く。
「ふぅ、何とか場所は確保できたな」
そこは花火からは角度がついていて若干見づらいのだが、座って見るのと立って見るのとでは後の疲労の度合いが全く違う。座って見られるだけ、よかったと思うべきだ。
「よしっ、これで準備はオッケーやし、何か買いに行こか! 俺が留守番しとくから、お前ら一年生同士で行ってこいよ」
「え、ええのん?」
貴浩の意外な提案に、僕は目を丸くする。てっきり、僕か良太に留守を押し付けて、自分はさっさと行ってしまうものだと思っていた。「誰が場所取ったと思っとんや?」とか威圧感のある笑顔を押し付けられることを覚悟していたほどだ。
「ええよええよ。俺が居ったら誰も近寄ってこんやろ。ま、その分俺が行くときはちょっと不安ではあるがな」
そう言って高らかに笑う。
「わかった。ありがとう。僕らが留守番するときは、責任もって荷物を守るよ」
良太と葵もお礼を述べて、僕らは人ごみの中をまた戻る。
「どこから行こか?」
「うーん、とりあえずフランクフルト……」
良太と僕がそんな話をしていると、後ろからまた葵の悲痛な声が聞こえてきた。
「ちょっ、ちょっとっ! 二人とも速いって!!」
葵は一メートル半ほど後ろで喚いていた。喧騒の中、何とかそれが聞こえた僕は歩を止め、手を伸ばしている葵に向けて手を差し出す。何度か失敗したが、しっかりとつなぐことができた。
「はぁ……助かったー。もう私、これから一生浴衣着んし」
頬を膨らませて言う葵に僕は苦笑いする。
「足はやっぱりまだ痛い?」
「うーん、もう結構慣れてきたわ。でもまぁ、帰ったらまっかっかになっとるかもしれんな」
「無理すんなよ」
互いの声が聞き取れるよう、距離を少し縮めての会話。物理的にもそうだが、精神的にも、葵が近くに感じられた。
数分程、歩きながらそんなことをしていると、不意に僕はあることに気が付いた。慌てて辺りを見回してみるも、その姿は確認できない。
「?? 友哉、どないしたん?」
突然、変な動きを始めた僕を、葵が訝しむ目で見てくる。けれども、そんな視線を向けられても致し方ないと思えるほど、この時の僕は焦っていたことだろう。
「まさか……はぐれた、とか言わんやんな?」
葵を救出することに夢中で、良太が先に行ってしまっていたことに気が付かなかった。僕は自分の非を認め、後ろで引っ張られている葵を見る。
「うん、はぐれた」
あまりの口調の軽さに、葵は開いた口が塞がらないようだった。
「…………そっか」
やがて絞り出された声は、そんな小さな一言だった。
葵が僕の手を握る力が、少しだけ強くなった気がした。