夏
12月24日、常楽物語51話を改稿しました。
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僕たちの夏が終わってからの日々は、とても早かった。それまでと同じ時が流れているとは思えない程に、早く感じた。試合の翌日には、クラスメイトや先生から労いや称賛の言葉をもらい、週末には計画どおり、焼肉パーティー。そして夏休みが間もなくやってくる。
「と、友哉……。まだお腹が重いんやけど……」
夏休みまで残り一週間と少しとなった週の月曜日。葵の家の前で待っていた僕を迎えたのは、苦しそうにお腹を押さえる葵の姿だった。
「あんだけ食うからやん……。僕よりよーけ食べたんちゃう?」
「だって……。自分の提案したやつが実際に行われとると思うと、無性に嬉しくって。メインは私やないのに、興奮してしもてなー」
「あー、うん。わかったわかった」
このまま話させると、延々と釈明が続きそうなので、適当に区切らせる。
「とりあえず、時間もあるし、ゆっくり駅行こ。しばらくしたら治まるって」
やや前かがみの葵が頷く姿を見て、僕は歩き出す。今日も、「夏」を絵に描いたような景色が広がっている。時折吹く風は僕らに僅かばかりの清涼を齎し、流れる水面には、一層光度を増した太陽と、どこまでも伸びるような入道雲が反射している。
野村先輩は、パーティーの間じゅう、ずっと二校の選手に囲まれていた。常楽の選手にとっては、野村先輩と面と向かって話せる最後の機会だった。僕も、野球のことだけでなく、趣味などについても話すことができた。開田監督はもちろん、穏やかな表情を見せているときも威厳がある熊川監督も、この時ばかりは心の底からリラックスしているようだった。熊川監督が何杯も何杯も開田監督にビールを勧め、開田監督が赤い顔で僕たちに助けを求めてきたことが、深く印象に残っている。挙句の果てには僕たちにまでお酒を勧めてきて、拒むのに苦労した。さすがに法律違反をする者はいなかった。
「友哉、何ニヤニヤしとん」
「いや、別に何も。パーティーの事、思いだしとっただけやって」
「そか。どうでもええことやけど、友哉って考えとることが顔に出やすいから気ぃつけた方がええで。キモがられるから」
「……肝に銘じとくよ」
ダジャレ? さむー、と可笑しそうに笑う葵を置いて、僕はすたすたと歩く。しかめっ面をした葵がすぐに追いついてきた。
「だから……っ、あんま走らせんといてーや……。胃液……逆流してくる……」
相変わらずお腹をおさえつけながら、葵は脂汗を浮かべて懇願してくる。それを心配すると同時に、少し微笑ましく思って、再び僕は少しだけ速度を遅めて歩き出す。
「でも、もう野村先輩とは野球でけへんのか……」
「うん……。就職に向けて忙しくなる、って言ってたからね」
先輩は進学はせず、地元での就職を目指しているのだそうだ。後から聞いた話だが、先輩は斜陽の選手に、「これから卒業まで野球は満足にでけんけど、たまに部室には遊びに行く。そん時はぜひとも付き合ってくれ」と伝えたらしい。心優しい先輩らしい、と僕たちは思った。
「せやせや、瑠璃が私らーが付き合っとるんやないか、ってめっちゃ聞いてきて……」
それからしばらくは、過ぎた彼の日を思い出した話を僕らは続けた。何かが話題に上がる度、その時の一部一部の情景が目に浮かんできた。空を見上げれば光っていた星々や、それを邪魔するように浮かぶ灰色の雲、どこかの家が打ち上げた、少し気の早い花火の色に到るまで。
「友哉は夏休み、何か用事あるん?」
家から持ってきたと思しき、凍ったペットボトルのお茶を飲みながら葵は訊ねる。まだ氷の部分が目立っているが、きっとそのお茶も、駅に着くころにはかなり飲みやすくなっているだろう。
「いや、特に何も。甲子園をテレビで見ながら、適当に宿題やるぐらいやな。もちろん、野球の練習もやるけど」
試合は終わったが、盆の時期を除いて、夏休みももちろん練習はある。とはいっても、熱中症対策のため、長時間にわたるハードな練習は行われない。手を抜くというわけではないが、少しだけ加減されたメニューをこなすのみだ。
「私も似たようなもんやわ。一時は家族で旅行にでも行こかー、って話が上がったりもしたんやけど、結局予定が合わんかったりして、みんなモチベーション下がっちゃってね。結局おじゃんになってもた」
けらけらと笑いながら葵は歩く。農家の庭に生えている背の高い向日葵が、僕らを見下ろしていた。一瞬だけ、二つの眩さがかぶって見える。
「となると、夏休みは花火大会ぐらいかな」
僕の言葉に葵はあぁー、と声を漏らして頷く。
石生には、毎年八月十六日に行われる、大規模な花火大会がある。いつもは静かな田舎の町に、その日ばかりは、町の人口を越えているのではないかと思われるほどの人が集まり、夜空に浮かぶ大輪の花に想いを馳せる。北近畿では最大規模の花火大会ではなかっただろうか。
僕たちは、五、六年前までは良太と貴浩の家の人たちと一緒に会場まで行って、意味も良く知らずに「たまや~」とか「かぎや~」とか叫んでいたものだ。だが、中学に進学すると、徐々にその行為自体が子どもっぽく思えてきたり、また、みんなの予定が合わなかったりして、足が遠のいていた。特に去年は、受験を控えていたこともあり、クラス内でその話題が持ち上がることすらなく、当日に破裂音を聞いて「そういえば」、と思いだしたくらいだ。
駅が近づく。改札口へと続く扉の脇には、風鈴が二つばかり備えられ、微風に細やかな涼を流している。
僕の横をゆっくりと歩く葵は、両手で鞄を持ったまま、視線をあちこちに巡らせている。そんな葵を、何気なくぼけっと呆けた顔で見ていると、その乱れた視線と僕の視線が偶然ぶつかる。乙女のように、彼女は瞬時に視線を逸らした。
「な、なぁ友哉? ちょっと話があんねけど……」
ポリポリと、顎のあたりを指でいじりながら、葵が躊躇いがちに口を開く。
「なに?」
「花火大会、もしよかったら行かへん? ほら、ここ数年行ってへんかったしさ、久しぶりにええんやないかなーって思って」
なるほど、葵が気まずそうにしていたのは、これを提案するかしないか迷っていたからか。僕としては、当然断る理由もない。今年は特に用事もなく、忙しくなることもないだろうから、葵の提案は願ったりかなったりだ。
「うん、ええよ」
僕が了承すると、葵はほっと胸をなでおろした。扉をくぐって、福知山方面へ向かう列車が入線するホームへと向かう。その先には既に良太と貴浩が汗をぬぐいながら待っていた。
「おはよう、お前ら」
「おはよ」
それぞれの挨拶に簡単に返しながら、僕も列に並ぶ。同じホームにいるほかの学校の生徒たちも、首からタオルをかけていたり、自動販売機で買ったのであろうジュースを額に当てたりしている。毎年恒例の、安定した風景だった。
「ほんで、お前ら、さっき何話しとったん? 友哉が頷いて葵がほっとしとるあたりから見えとったんやけど」
「あぁ、それはね……」
良太と貴浩にも、葵の提案について説明する。二人、特に貴浩は、花火の話が出てきたあたりからテンションが上がり始めたのか、聞き終わる頃には首にかけていたタオルを外して振り回していた。
「ええやん、それ! 正直、俺としてはずっと行きたかってん! なのに、良太も友哉も、加えて葵も受験や、っちゅうから誘うに誘えんくて……。わかった! 今年は皆で行こか!」
山本家にも特に夏休みの用事などはなく、二人とも二つ返事で了承した。
「これで夏休み、ちょっとだけやけど、華やかになるね」
葵の横に立って、独り言に思われる程度に口に出すと、葵が小さく頷くのが見えた。
「うん、せやね」
そして葵も僕と同じくらいの声量でそう言った。その顔には笑顔が浮かんでいた。微笑と言える笑みだ。少し無理をした、哀思が浮かぶ笑みは、すぐに消された。