永遠の舞台
歓声が木霊した。僕は一塁ベースと二塁ベースの間でそれを聞く。僕の足は既に歩みを止めていた。走る必要などない。相手校のレフトの選手が、前回の試合の桧山の如く、マウンドへと駆けてきているところだった。グローブの隙間から垣間見えた白球は、眩しい太陽の光を反射して、僕の目蓋を焼き付けるようだった。
僕の放った大飛球は、最後の最後で失速した。外野スタンドの柵の前まで、外野手の足は走った。それでも、天は僕に……そして野村先輩に味方をすることはなかった。
全員で一列に並んで、相手校の校歌を聞きつつ、校旗が下げられていくのを見る。陽の光によってその姿は白く滲み、僕が視認できたのは、風によってわずかに揺れながら、役目を終えてどこか落ち着いているように萎んだ旗の姿だった。
「……終わったな」
僕の横に立つ貴浩が、感慨深げに言う。僕はうなずくことはせずに、吹奏楽部員の前へと走る。称賛と、そして少しだけ混じる後悔の拍手の音を胸に刻み込み、僕たちは球場を後にした。
「みなさん、お疲れ様でした。それでは、熊川監督からのお話です」
開田監督からマイクを渡され、緩慢とした動作で熊川監督が立ち上がる。
「今日は残念だった。最後は惜しいところだったんだがな。だが、過ぎてしまったことを悔いても仕方はない。今後は、ここまでの経験を活かして、特訓していくのみだ。……残念ながら、それに参加できないメンバーも、この中にはいるわけやけどな」
誰もが覚悟はしていた。この試合が終わった時点でそれはみんなわかっていた。だが、本当にその瞬間がやってきてしまったかと思うと、やはり受け入れることに対して抵抗を感じずにはいられない。
不思議である。人とはこんなにも短い間で、その人との別れを悲しむことができるようになるのだろうか。僕が特殊なだけかもしれない。もしくは、先輩自身が他人にそう感じさせる能力のようなものを有しているからかもしれない。何にせよ、僕の気持ちは複雑だった。毎年、この時期になると小学生の子どもがいる家庭では、ほぼ百パーセントあるであろう、朝顔の蔓。支柱に絡まりつくあの姿のように、僕の中で得体の知れない蔦が纏わりついている。それでも僕はゆっくりと前を向いた。
「野村には、学校に着いた後、改めて挨拶をしてもらう。野村、内容を考えておくようにな」
はい、と監督の呼び声に、先輩が反応する。今は先輩の一挙手一投足が、とても貴重なものに感じられた。
「お前らも疲れているだろうし、長くは話さん。さっきも言った通り、今後はもっと効率的に成績が伸びるように、これまでの試合を参考にしたメニューを考案していく。そのつもりだから、覚悟しとけよ」
みんなに呼びかけるが、疎らな返事があるだけである。それは監督も予想済みだったのか、はきはきとした返事を求めることはなかった。
「これで話は終わりだが……。開田先生、何かありますか?」
開田監督が首を振るのを確認して、熊川監督は「じゃああとはゆっくりしとけ」と言い、自身も席に座った。マイクの電源が切られ、ぶちっという音と共に、車内に聞こえる音声はエンジン音だけになる。静寂を通り越して、気味悪く感じるほどだった。
「……なぁなぁ友哉」
後ろから葵の声が聞こえ、僕は振り向く。
「焼肉パーティー、いつするん? 計画は立てとるけど、準備とか出来てへんで」
その通りだ。僕も、負けた瞬間から考えてはいたのだ。両監督にはすでに話はしてある。開田監督は二つ返事で、熊川監督は少し渋ったものの、最終的には許可してくれた。部員には、野村先輩には話さぬように、と釘を刺したうえで、個人的にメッセージを送っていた。そして、監督たちの善意で、道具や材料は、全て提供してもらえることになった。
「あとは食べるもんさえそろえば、ほんで、ええ天気になってくれたら、いつでもできるんやけどなぁ……」
いま、この状況で監督に訊ねるのは、とても僕にはできそうにない。
「どないしよ?」
首を可能な限り捻じ曲げ、頭上で同じく悩み顔の葵に問う。
「んー……とりあえず、日時は今週末の休みでええんちゃう? ホンマやったら試合終わったその日のうちにパーッとやってしまいたいところやったけど……。さすがにそうもいかんしな」
現在の時刻は午後三時。福知山に着いたらもう五時近くなっているだろうし、それから材料を買い、道具を準備していたのでは、帰りがとんでもない時間になる。翌日は普通に学校があるので、のんびり出来るはずがない。
「わかった。今んとこ、天気はどう?」
「ちょっと待って……。あ、晴れやって」
スマホをさっさと操作し、葵がすぐに教えてくれる。
「じゃあ、その日で決定やな。野村先輩には僕がばれんように予定がないか確認しとく。それを踏まえたうえで、みんなには改めて連絡しよ」
僕の言葉に葵が笑顔で頷く。少し伸びた彼女の髪が、ふわりと僕に被さるように揺れた。僅かばかりの汗のにおいと、葵の家の香りがやんわりと届く。慌てて自席に深く腰掛けた。
(まだ、終わってない)
貴浩の言葉を打ち消す。学校としての戦いは終わったかもしれないが、僕たち個人の戦いはまだ続いている。
最後。それは、野村先輩が笑顔で卒業する日――。この場面で使う『最後』とは、そういう意味であると、僕は信じている。
常楽高校に到着した。赤みがかったグラウンドに、僕たちは待機している。その間に、僕と葵は、最後の確認をする。
「じゃあ、やるんは今週末でええんやな」
「うん。先輩がこれへんのなら、また考え直さなあかんけど……」
「まぁ、そん時はそん時で考えよ」
僕がそう言った時、ようやく監督たちがやってきた。ちなみに、監督や野村先輩以外の選手には、今週末にパーティーをするかもしれない、ということを、既に伝えてある。監督も、みんなも問題は無い、ということだった。
「では、最後に、主将である野村から一言もらおう。野村、」
熊川監督が呼びかけると、野村先輩はすぐに立ちあがり、みんなの前に立った。その姿は、僕が初めて石崎先輩と出会った時のような威厳が感じ取れた。朱く、紅く燃える閃光が、スポットライトのように照らしている。
「……えーと。バスん中でずっと何言おうか、何言おうか、って考えとったんやけど、結局ええ事、何もうかばんくて……。正直、今結構困っとります」
先輩が苦笑しながら言うと、それが伝播したように、部員の間からも同様の笑みがこぼれる。幾分か雰囲気が柔らかくなったところで、先輩は少しだけ佇まいを正し、ゆっくりと開けた口から言葉を流し出した。
「まず、斜陽のみんな。長い人は二年間、短い人は一年間だけやったけど、一緒に野球してくれてありがとう。試合どころか練習もロクにできんような場所やったけど、こうして最後まで一緒にいてくれたことに、俺はめっちゃ感謝しとる。まぁ、頼りない先輩やったと思うけど、今、話を聞いてくれとる、そう思うだけで、結構泣きそうになってるんよ」
そう言って、先輩は笑みを浮かべる。今度は苦笑などではない。柔らかい、みんなを安心させるような笑みだ。
「次に常楽のみなさん。斜陽と連合チームを組んでくれてありがとう。確か、楠木がその提案をしてくれたって聞いた。思いついて、みんなも受け入れてくれて、ほんで相手校に斜陽を選んでくれてありがとうな。おかげでとても楽しかった。斜陽にはおらん、マネージャーっていう存在にも助けられた。一緒に野球できたんは半年だけやったけど、俺にとっては半年なんてモンやなかった。とても長く感じた。でも、とても短かった。俺たちをここまで導いてくれて、ありがとう」
言い終わり、全体を見回す。帽子を持つ右手が、腕が、太ももが、そして顔が小刻みに揺れていた。それを隠すように、先輩は声のトーンを上げる。
「もしかしたら、来年にはどっちかの部に人がよーけ入って、連合チームとして活動ができんくなるかもしれん。でも、俺はずっと二校とものファンであり続ける。ここに宣言する。だから、」
だから――。
先輩の喉仏が大きくうねる。一度開いた口から言葉は漏れることなく、また先輩は口を閉ざす。どこかから声が聞こえた。それを騒音に感じることはなかった。
「だから――いつか、『あの場所』に行ってください……! ……いや、前言撤回。『甲子園に行け』。最初で最後の主将命令や」
先輩は白い歯をわずかに見せ、高らかに言った。そこには、先輩の想いの全てが凝縮されているように思えた。一瞬の静寂の後、僕たちはその期待に答える。
笑顔の先輩が、そこには立っていた。先輩には、きっと後悔もあるだろう。勝利へと導くことのできなかった、自分の不甲斐なさを感じているかもしれない。もし本当にそう思っているのだとしたら、僕たちはそれを緩和させる。消し去ることはしない。先輩が苦しく思わない程度に、癒す。それが、僕たちの役目だ。だから、僕は先輩に負けない程の声を張り上げ、提案する。先輩は一瞬驚いた顔をしたが、拒否することなく、「俺も大丈夫やで」と答えてくれた。僕たちは歓喜の声を上げる。この雰囲気を体感しながら、僕は祈る。
常楽と斜陽の歴史に、今日までの出来事が永遠に刻み込まれますように、と。
今は太陽の光に隠れている、願い星に向けて。