叶えられる夢
授業が始まる、一時間前に僕たちは学校に到着する。まだ人気が疎らな校舎内に、四人の歩む音が呼吸に交って響く。進むたびに一つずつ消えてゆく天への段差が、確実に僕らを目的地へと導いているのだと実感させてくれる。
少し気を抜けば僕の左手と葵の右手が触れ合ってしまいそうなほどの距離を保ったまま、一段一段を昇ってゆく。ちらりとその横顔を盗み見ると、いつもの茶目っぷりが嘘なのではないかと思ってしまうほどの静かな表情をしていた。普段の葵を知らない人が見れば、ちょっと品の高いところに通っている少女に映ることだろう。でも、そこにはいまだに僕が見たことのない感情が見え隠れしているように見えた。先ほどの、電車内での会話。葵が口をはさむことはなかったが、今一つパッとしない朧げな顔をしていた。踊り場に取り付けられている窓から差し込む陽光が一瞬だけ葵を照らす。眩しさに目を細めた葵と、その姿を眺め続けていた僕の目が合う。
「……ん? どしたん?」
小首を傾げて問う葵。機械的に笑顔を作ろうとしているが、その足取りは心許なく、覚束ない。階段を進む足取りを緩めて、僕は問う。
「葵……。何か、悩んどるやろ」
僕に合わせて速度を落とした葵が、その足を止める。不安げに揺れる瞳には、何か重い感情が深く轟いていた。後ろを歩いてきた貴浩と良太が、僕らにぶつかる寸前で止まる。戸惑った表情を浮かべながら不満を言おうとした貴浩だったが葵の後姿を見てか、口を噤んだ。静寂が、再び僕らを包み込む。
長い時間が経った。どこからか吹き付ける風が掲示板に取り付けられているカレンダーを揺らし、ガサガサと音を鳴らしている。目に掛かった自分の前髪をゆっくりとずらし、葵は口を開いた。
「……さっき、貴浩の話を聞いてね」
生徒も先生もまだいない校舎に小さく消えてゆく声。貴浩が、「俺?」と口を動かしながら自分を指さした。それに葵が小さくうん、と頷く。
「私、何やっとんやろな、て思ったんだ」
葵の瞳が貴浩から、静かに僕に移る。いつもは黒く艶やかなその双眸は、濃いような薄いような、表現し難い黒に侵食されていた。
「私には、どんな重大な物事でも軽視してしまう癖がある。それは私自身も、みんなもよーわかってくれとると思う。もしかしたら、それが私の取り柄かもしれへんしね」
葵が自嘲した笑みを浮かべる。僕への視線は固定したまま葵は口を動かす。
「でも、今回はあかんかった。野球部が存亡の窮地に立たされとるというのに、私はあんな軽い提案をしてしもた。何とかなるやろう、て思ってた。……貴浩の話を聞いてわかったわ。世の中、何とかなるやろ、だけじゃ何ともならへんのやってね」
下から微かに話し声が聞こえる。そろそろほかの生徒たちも到着し始める時間。上級生だろうか。騒々しく階段を駆け上る音が聞こえてくる。数人の男子の叫ぶ声、女子のグループの花が咲いたような笑い声。貴浩が顔を顰める。そのすべてを僕は遮断する。目の前の少女の話し声だけに耳を澄ませる。
「私は、友哉の夢を叶えたい。昨日の提案の一つは、それに起因しとる。選手としては無理やけど、裏方に回ってサポートしたい。ほんで私が連れて行き、友哉たちが連れて行ってほしい。……でも、一部の提案は、その夢どころか希望すらも失いかねへんもんやった。そう思うと、どうしたらええんかわからへんようなって……」
葵は今にも泣きだしてしまいそうな表情で下を向いた。微かに痙攣する右手が前髪を弱々しく弄ぶ。階下から聞こえてくる声の一つ一つが、今の僕らには重すぎる。
悲痛な面持ちで俯く葵にかけるべき言葉が浮かんでこない。脳内で語句が霧のように漂うのだが、それが何かの形を為すことはない。そしてすぐに散ってゆく。
そんな僕を押しのけて、貴浩が前に出た。僕より一回り大きな背中が僕の視界を覆い、葵を隠す。
「葵、お前が言いたいことは判る。確かにお前の判断は軽率やったかもしれん。でもな、お前自身さっき言ったやろ? どんな重いことでも軽く考えてしまう、って。俺には自虐しているようにも見えたが、それは紛れもなくお前の長所や。今回は疎ましく思っとるかもしれんが、勘違いだけはするな。自分の長所を勝手に短所にすんな。それに、友哉の夢がかなえられないって決まったわけやないやろ? こんなとこで油売っとる暇があったら、さっさと行こうぜ。もうだいぶ騒がしいしな」
生徒が集い始めたこの棟は既に喧騒に包まれている。横をすり抜けていく人たちが鬱陶しそうな表情をする。朝休みの大半を使ってしまったようだ。
「あの……ちょっとええかな?」
良太が僕の肩をこんこん、と叩きながら言う。時々聞き取りづらく感じる声だが、今日はしっかりと聞き取れた。葵も何事かとひょこっと顔の角度を変えてこっちを見る。
「その……わしも野球部、入部してええかな?」
良太の独特の一人称を含んで発せられた声は周囲のどの喧騒にも負けず、僕たちの耳に届いた。葵が目をぱちくりとさせている。
「……ほらな? まだまだ、夢は終わらへんやろ?」
貴浩が、勝負に勝った幼子のような視線を葵に送る。少し悔しそうな表情をした葵だったが、すぐに顔を綻ばせ、肩の力を抜いた。漆黒の宇宙のような瞳は、けれどそこに存在する星々や銀河系、星雲のような輝きを持っていた。そして静かに右手を良太の元へと差し出した。
「野球部、よろしく。んで…………ありがと」
葵の最後の一声は、消え入りそうなほどに小さかった。そんな葵を見て、良太が仄かに微笑む。もう、周りの人間の視線や話し声など気にならない。左手で目を拭う葵と、良太はしっかりと握手した。
「なんか、ごめんね。私の所為なのに……」
まだ少し目の端を光らせている葵の言葉を、皆が認めることはなかった。只々、誰も話さない時間が流れる。三人とも、葵に静かな視線を送り続けている。きっと、皆が想っていることは一緒だ。葵はようやくそのことを察したのか、ぐるりと僕らを見回してから言った。
「……ありがとっ」
やっぱり、哀しんでいる表情は似合わない。咲き乱れる立葵のような可憐で、美しい笑顔でいてほしい。僕たちはそれを心から望んでいる。いつだって、このグループの中に花を咲かせるのは彼女なのだ。これからも失われることはないと、僕は心の奥で確信している。
「んじゃ、さっさと教室行こか! もうええ時間やで!」
貴浩が大きな声を上げてみんなを促す。そう、僕らには急いでやらなければならないことがある。葵と良太は、ダッシュで教室に向かって行った。
「その夢を、叶えてみようぜ」
僕もあわてて廊下を走りだそうとしたとき、貴浩がそうつぶやいたのを聞き逃すことはなかった。
残りの短い時間を使って、僕と葵、良太はクラスメイトと話すことも兼ねて簡単な勧誘を行った。初めて話す人ばかりなので、やはり話しづらい。そして、クラスの静けさがその気分を増長する。ほかのクラスメイトも、何か話そうとしているのだが、入学した昨日の今日ではそれはとても高い壁だろう。コミュニケーション能力によほど長けた人物でなければ、安易に乗り越えられるものではない。緊張し続ける自分の心臓をぎゅっと抑えつけながら、僕らはひたすらに話しかけ続けた。鬱陶しそうにあしらう人もいたが、自ら名乗ってくれるフレンドリーな人もいた。
十数分で男子全員に話しかけることができた。三人とも、緊張から解放されたおかげか、今にも崩れ落ちそうな笑みを浮かべている。早く慣れるとええな、と葵が苦笑交じりに呟き、それに僕らは同調した。結果をまとめてみたところ、男子十九人のうち脈ありという人が五人。これはつまり、この五人が全員入部すれば、ぎりぎり試合をすることができる。逆に一人でも欠ければ、また考え直さなければならなくなる。五人とも、親の意見も聞いてみないと何とも言えないとのことだったので、僕たちは緊張に耐えながら、藁にもすがる想いで朝休みを過ごした。
朝のSHR。中島先生は入ってくるなり、入部届を配りだした。この学校では、担任が紙を配り、親の承認をもらったあと、各々《おのおの》その部活の顧問に渡しに行くスタイルらしい。中学校では、まず部活の顧問に入部届をもらいにいかなければならなかったので、とても緊張したのをよく覚えている。
クラスを見回してみると、入部届の紙とにらめっこしている人、何も書かずにさっさと鞄に仕舞い込んでいる人、先ほどの僕たち同様に周囲のクラスメイトに「一緒にやらへん?」と誘っている人、黙々と書き込んでいる人。三者三様だった。静かだった教室に、少しずつ会話が生まれている。笑みを浮かべている人もいる。少しずつ、クラスからピリピリした雰囲気も払拭されつつある。その光景を見つめながら僕は考える。いつか新たな友人と、騒ぎながら多種多様な階段を共に昇る日が来るのだろうか。葵、良太、貴浩ではない誰かと笑いあう日が来るのだろうか。僕は願いながら、入部届に『野球部』と書いた。HBのシャープペンシルの小さなその三文字は、僕の拙い字で。そして薄くて。でもきっとそこには確固たる決意が宿っている。力を加えればすぐに破れてしまうそのざら半紙を、僕は大切にファイルの中にしまった。