対開門高校戦
程なくして、バスはあやべ球場に到着した。天気は快晴。雲が程よいぐらいに広がり、時々太陽を隠してくれる。湿気を含んでいるせいで、気温は高く感じるが、水分補給をきちんとしていれば、熱中症になることもないだろう。なかなかの野球日和になった。
今回の舞台となるあやべ球場は、京都府綾部市にある小さな地方球場だ。両翼は一〇一メートル。客席はバックネット裏と内野に存在する。福知山球場と異なるのは、外野にもきちんとスペースがあることだ。全体で六〇〇〇人弱の人数が収容可能である。周囲は完全に木々に囲まれており、風に揺れる葉の姿、擦れる音が五感で感じ取ることができる。
平日ということで、スタジアムには対戦校の関係者以外の姿はほとんどない。ダッグアウトから足を一歩踏み出すと、応援の準備をしている吹奏楽部員の持つ楽器が太陽の光を反射して、思わず目をふさいでしまうぐらいに輝いている。
「ふぅ……。緊張するなぁ、友哉」
俊介が横に並んで、声をかけてくる。頬には、すでに汗がにじみ出ていた。
「俊介に言えたことやないんちゃう? 俊介こそ、結構緊張しとるやろ」
僕が簡単なストレッチがてら、少し体を捻りながら聞くと、俊介は図星を突かれたと言わんばかりの表情をして苦笑する。開門高校の選手たちは、早くもキャッチボールを始めていた。
「でも……緊張もしてまうやろ。だって、これから甲子園に行く為の試合が始まるんやで。敵から感じるオーラ……というか、漂ってる雰囲気が違うというか」
俊介がグラウンドじゅうに視線を羽ばたかせる。恐らく、中学時代に試合や観戦で何度か訪れたことがある球場だろうが、当時と今では、ここに立つ意味は大きく違ってくる。圧力やムードといった、目に見えない形で僕たちを襲うものの数が圧倒的に多い。すなわち、それらに打ち勝つことができる者だけが、聖地への侵入を許されるのであろう。
「よっしゃ、全員そろっとんな! じゃあウォーミングアップ、始めるで!!」
返事をして、キャプテンの元に集まる。動いている時間を止めるように、僕らの戦いが始まろうとしていた。
キャッチボールやノックを終え、僕らは試合前のひと時をベンチの中で過ごしていた。常楽斜陽は先攻なので、今は高校の開門高校のノックの時間となっている。
開門高校のレベルは、事前に聞いていた通り、決して高いものではなさそうだ。時々ボールを零したりしているし、動きも素早くはない。だが、僕たちもこれに似たような形で、練習試合を終えてきたのだ。今は、あの時の近松高校の目線でいる気分だ。本番になれば、相手がどう動いてくるか、などはどんなベテランであってもわかり得るものではない。
やがて、ノックの時間の終了を告げるサイレンが鳴り響き、選手たちがベンチへと下がっていく。同時に僕たちは立ち上がり、ベンチ前で円陣を組む。上で楽器を持っている吹奏楽部員と思しき女子が「頑張れ―!」と声援を送ってくれたのが聞こえた。
「俺たちにとって初めての公式戦。府大会の初戦がデビュー戦って言うんは、なかなか思い出に残ることになるだろうと思う」
野村先輩が低く、重みのある声で一言目を発す。先輩が言うと、妙に納得してしまう。
「その思い出を、負けて慰めあう……。それはそれでええもんかも知れんけど、俺はそうしたくない。だから……」
一段階、ギアをあげた様子で、先輩が叫ぶ。
「勝つぞ!」
「オー!!!!!!!!!!!!!」
野村先輩、そして主将のため、チームのため、二校の栄誉のために、僕たちはダグアウト前に整列する。腰を低くかがめ、いつでも走り出せるようにする。この試合に、先輩の球児としての時間というものが、かかっているのだ。そう思うと、肩に少し力が入る。
「……楽しもうぜ、友哉」
え、と僕が思う暇もなく掛け声がかかり、反射的に走り出す。
僕に声をかけたその姿は、誰にも負けることなく、僕のはるか先を疾走していた。
一回の表、常楽斜陽高校の攻撃が始まる。今日の試合のスターティングメンバーは次のように発表された。
1. 中 柴田
2. 二 支倉
3. 三 谷村
4. 一 山本貴
5. 遊 石崎
6. 右 前田
7. 捕 山本良
8. 左 桧山
9. 投 楠木
一番の亮輔が打席に入る。時を同じくして、吹奏楽部からの音楽の応援が始まる。
開門高校の先発投手は、サイドスローの左腕投手で、速度は大してないのだが、確実にコースを狙える制球力と、流れるように大きく変化するスライダーの持ち主だった。
「これは苦戦しそうやね……」
裏の登板に向け、軽く肩を慣らしていた僕は、隣に立つ良太に向けてぼそりと呟く。良太も同じようなことを考えていたのか、首肯して同意した。
「ウチにはあんな横投げのピッチャー、おらへんからな……。今日は投手戦になるかもしれんな」
ちょうど一球目が投じられたところだった。左のバッターボックスに立つ亮輔は、微動だにせずに初球を見送っていた。正面の電光掲示板にある黄色いランプが光っている。
「ま、投手戦にするには、僕もゼロに抑えなアカンのやけどね」
ボールを握り締めて、投げ返す。
「当たり前や。期待しとるで」
亮輔は三振に終わってしまったようだ。スライダーに対応できず、ボール球に手を出したらしい。
結局、常楽斜陽の一回の表の攻撃は、三者凡退で終わった。
一回の裏を迎え、僕は高校野球初の試合のマウンドに立つ。ほぼ誰もいないバックネット裏の客席と、その前に立つ審判と良太、そして少し離れたところで素振りをしているバッターの姿が目に入る。場所は違えど、あの人が見ていた景色はこんなだったのだろうか。僕の記憶に残っているのは甲子園の土の上に立つ彼の姿だけだが、きっとこのあたりの球場のマウンドでも白球を投げ続けていたのだろう。
そんな考えを途中で遮断し、僕は数球投じる。ストレート、スライダー、フォークといった基本的な球種から、僕の決め球であるカーブ。少し緊張してストレートが上擦ってしまったが、変化球には問題はなさそうだ。打線は、超高校級の打者がいるとかいう情報はもらっていないので、よほど真ん中に吸い寄せられたりしない限り、長打を浴びることはないだろう。
「プレイ!」
審判の声とほぼ同時に良太からのサインに頷く。振りかぶって、第一球を投じる。打者の足元を狙った直球は、綺麗に決まった。一つストライクが取れて気分的に楽になったのか、初回は僕も三人で封じることができた。良太とタッチを交わし、ベンチへと下がる。
「友哉、ナイスピッチング」
ジャグの横でメガホン片手に声援を送っていた葵からも労いの言葉を受ける。軽く礼を言い、さっさと水分を摂る。
今日は僕らのピッチングが試合を大きく左右することになるかもしれない。憶測にすぎなかった考えが、少しずつ確信に変わりつつあった。
試合は、六回までゼロ行進が続いた。両チーム、ランナーが出ることはあるのだが、得点圏まで進めることはできず、決定的な一打を欠いていた。
七回の表の直前、僕たちは再び士気を入れ直すため、円陣を組んだ。まだ数本しか安打が出ておらず、少し苛立ちが起こっていた。急ぎすぎては、確実に球を捕えることはできない。心を落ち着かせるという意味も込めて、団結を誓った。
名前をコールされ、打席に向かう。僕が何らかの形で出塁すれば、流れはこちらに傾く可能性が高い。長打よりも、確実に当てることを意識して、バットを短く握って打席に入る。相手ピッチャーは軽く汗をぬぐっているが、疲労の色は見えない。このままのペースで行けば、最後まで投げられてしまうだろう。だが、僕はファーストストライクを狙っていた。追い込まれてしまうと、初回の亮輔みたく、スライダーの餌食になってしまう。多少のリスクは伴うが、若いカウントから打った方が、効果的ではないかと思ったのだ。
初球はボール、二球目もボール。二球とも際どいところだったが、審判の右手は上がらなかった。
(次はストライクを取りに来る可能性が高いな……)
相手バッテリーも、ボールスリーにはしたくないだろう。この場面で一番怖いのは四球だ。ヒットよりも、流れが相手に傾いてしまう。
カウント2-0からの三球目、予想通り、ほぼど真ん中のストレートだった。身体が勝手に反応するような形でバットが出る。引っ張った打球は外野のラインぎりぎりのところにポテンと落ちた。僕は悠々と二塁ベースに到達できた。
ベンチからの歓声と、吹奏楽のファンファーレを心地良い気分で聞きつつ、バッターボックスに立つ亮輔を見据える。気を緩めてはいけないが、少なくとも、僕がホームに帰ることができれば、試合は有利に進められる。亮輔が、バント、犠牲フライ、一二塁間に球を転がしてくれるなど、そんな最低限の仕事をしてくれることを祈る。
一つ、咆哮に似たような声をあげ、亮輔は打席に立つ。何というか、初めてみんなの前で自己紹介したときと比べると、本当に変わったなぁ、としみじみと思う。それだけ、彼も本気になっているということだろう。
亮輔自身も、ちゃんとわかっていたのだろうが、初球を引っ張ってくれた。ファーストゴロで亮輔はアウトになったが、僕は三塁に進むことができた。
ベンチからの歓声と、吹奏楽部の応援がワンオクターブ上がったような気がする。これで、外野フライでも一点を入れることが可能だ。相手バッテリーは一旦タイムをとり、マウンドに集まる。その間に、三塁のコーチャーズボックスにいた西野から、僕も「リラックスせーよ」と言葉をもらう。
続くバッターは二番の俊介。今日の試合、俊介は二つの三振と、タイミングが合ってなかった。内野は前進守備を敷いているので、普通のゴロでも間を抜ける可能性は高いが、当てられなければ意味がない。
俊介がバッターボックスに向かう最中、ベンチから出るサインを見る。
(……スクイズ……?)
僕も俊介も、一度も練習していないはずだ。テレビの野球中継でたまに見るくらいのプレー。下手すれば、塁上のランナーが消えてしまう、危険な賭け。しかし、バントの上手い俊介に賭けるということだろう。そうなれば、僕もその想いに答えるべく、審判の腕を開かさなければならない。
「俊介ー! 落ち着けー!!」
ベンチからの声に深く頷き、バットを構える。相手にスクイズをするということを悟られぬように、注意しなければならない。僕は、牽制に対応できるよう、あまりベースから離れることはできない。さらに俊介は左バッターなので、僕が走り出す姿がキャッチャーから目視されやすい。それらを考慮して、走り出すタイミングを見計らい、後は俊介を信じるのみだ。
ピッチャーは何度か、僕を目で牽制してくる。しかし、結果的に投げてくることはなかった。セットポジションから初球を投じるモーションに入る。そして、ボールがその手を離れると同時に、僕は走り出した。
周りは何も見えない。息を呑んだように、吹奏楽の応援が途切れたように聞こえた気がした。僕の視線の先にいる俊介は、さっとバントの構えに変わる。ややボール気味の球だったようだが、バットの角度を調整して、三塁ライン際に転がしてくれた。焦って対応が遅れた相手バッテリーは、急いでそのボールを掴むが、その頃には僕はホームベースの目前にまで迫っていた。
最終的に、そのボールがホームに返されることはなかった。
何とか一点を取ることに成功した常楽斜陽は、九回までそれを守った。僕のピッチングも尻上がりに調子を上げていき、七回、八回は無安打に抑えることができた。
そして迎えた九回の裏。あと三つのアウトを取れれば、一回戦突破だ。汗をぬぐい、水分を摂って、最後のマウンドへと向かう。スタミナに余裕があるわけではないが、完封できれば大きな自信になるし、何より、打たれれば、野村先輩が登板できぬままに野球人生を終えてしまう、という一種のプレッシャーが僕を動かしていた。野村先輩は、後の試合に先発で登板してもらいたい。だから、ここで僕が打たれるわけにはいかなかった。
「楠木、頑張れよ」
「友哉ファイト!」
西野、葵からそれぞれエールをもらって、九回目のマウンドへと向かう。
裏の開門高校は下位打線からだったので、代打攻勢だった。しかし、ストレートとスライダーでカウントを整え、カーブでひっかけてアウトをとるという、僕の理想の形で打ち取ることができ、簡単にツーアウトまで持ってこれた。後がない開門高校は、代打の切り札と言わんばかりの大柄な選手を出してきた。歓声が一層大きくなる。きっと、過去にも大一番で切り札として使われてきたのだろう。その体躯とそれを証明する周りの声援が、嫌でも僕に認識させてくれた。
良太は一旦タイムをとり、僕の元へやってくる。ミットで口元を隠し、伝えてきた。
「あの人はめっちゃ打ってくる。甘いところに行ったら、間違いなく長打にされる。最悪柵越えかもしれんな。気ぃつけて投げろや」
つまり、ゲームで言うところのクッパだろうか。今まで対戦してきたのはカロンやクリボーにすぎないということか。しかし、その方が燃えるというものだ。最後のボスを倒してこそ、勝利の価値が上がるのである。
あぁ、と僕も同様にして頷く。去る良太に向かって、僕は一つ声をかける。
「信じるからな、良太のサインを」
僕の言葉を聞くと、良太は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻り、「こちらこそ」と微笑んだ。
再び気を引き締め、バッターと対峙する。初球の足元に沈むフォークには無反応。続くストレートにも無反応。カウントは1-1。バッターはもう一球待つだろうか。2-1のバッティングカウントにしてから打ってくるだろうか。ストレートには無反応だったので、変化球狙いか。前のバッターはカーブで封じ込まれていたので、それを狙ってくるだろうか。もしくは裏をかいてストレートに絞ってくるだろうか。そんな終わりのない堂々巡りの思考が始まる。
吹奏楽部員が演奏する『さくらんぼ』のメロディーが大きく響く。そういえば、僕はこの曲が好きだなー、と何気なく思う。甲子園の中継を見るとき、各校オリジナルの応援もそうなのだが、この曲が流れると、少しテンションが上がるのだ。流れるようなリズムや、最後の「もう一回!」が、終わりのない戦いを示唆するようで、応援する方もされる方も気持ちよくなれるのだろう。僕は、そう感じている。
その音楽を背に、僕は息を吐き出す。今、この闘いに揺らいでいる、僕の弱い心、臆病な心吐き出すように、けれど、大切な想いまでは出さぬように。一瞬だけ胸に手を置き、呼吸を整える。
良太の出すサインは、ストレート。直球勝負ということか。良太がそれを望んでいるのならば、僕にそれを妨げる気はない。力と力の勝負。非常に燃える展開だ。きっと相手バッターは打ってくる。なぜか、確信があった。
力を溜めるべく、大きく振りかぶり、バトルゲームで魔力を注ぎこむように、白球を握り締める。そうして投じた第三球は、変化することもなく、緩やかな孤を描くこともなく、まっすぐに良太のミットへ走り出していた。バッターは変化球を待っていたらしいが、すぐに対応してきた。なぜなら、僕のストレートはほぼ真ん中だったから。これを打たないことはないだろう。良くも悪くも高校生だ。プロではない。
レフトへ飛んだ打球はどんどん伸びる。音から察するにかなり危険だと思った。角度も完璧、タイミングにも、何の問題もなかった。桧山がゆっくりと後退する。その身体はフェンスへと吸い込まれるように近づいている。両ベンチからの歓声、スタンドからの吹奏楽部員の悲鳴にも似たような叫び、入れ、という叫びと、入るな、という心の叫びが具現化されたように交わる。桧山の足がフェンス前のアンツーカーにかかった。頼む、お願いだ。勝ってくれ。勢いに負けるな、何とか、希望をつなげてくれ。そう、祈ることしかできない七秒間が、経過した。
桧山が構える。捕球体制に入る。彼にしか見えない世界が、そこにある。
やがて、音がした。桧山がこっちへ駆け寄ってくる。右手には、みんなの思いが詰まった一球が、しっかりと握りしめられていた。