大事な先輩
8
苦しそうにエンジンの音をふかす学校のバスが、朝陽の中を走っている。僕たち野球部員は、その振動に身を任せ、各々の時間を過ごしていた。常楽斜陽チームにとっては、通算でもまだこれが二試合目だ。しかも、二校とも経験豊富なわけではない。そこいらの高校とは境遇が大きく異なっているのが、僕たちの弱点であり、ステータスだ。
しんと静まり返るバスの中、僕もまた一人で物思いにふける。目的地までは一時間もかからないはずだ。そのわずかな時間の中で考えられることは限られているが、今は、出発前に言われたことについて、少しばかり悩みたい気分だった。
*
何とか監督を納得させることができた僕たちは、急いで開会式の行われるわかさスタジアム京都へと向かった。甲子園には劣るが、地元の球場とは比べ物にならない程に大きなスタジアムの中で盛大な式を終えた僕らは、また大急ぎで戻り、翌日の試合に向け、練習に励んだ。初戦の相手である、開門高校の特徴や、投手の武器について教わったり、練習試合とは違うムードに包まれるであろう、初の公式戦に対して思いを馳せたりするのは、以前とはまた異なった空気を部内に漂わせた。かくいう僕も、緊張こそしていたが、球児としての血が騒いでいるのだろうか、楽しみと言う気持ちの方が大きかった。
しかし、そんな中で、ややテンションの低い人がいた。前回の近松高校との練習試合で先発し、見事に試合を作った野村先輩だった。いつものように、みんなを指導したり、時には笑顔も見せている先輩だったが、時折、雲が広がる空を何の意味も無さげに見つめているのが、少し気になった。
「先輩、どうしたんですか?」
どうしても気になったので、時間が空いたときに、僕は先輩に訊ねていた。もしかしたら、考えもなく立ちいってはいけないようなことを先輩に言わせることになるのではないか、と直後に気づいたが、SNSのように、出した言葉を消すことはできない。だが、先輩は困ったような笑みを浮かべて、僕を見ただけだった。溶けるように薄い光が、先輩の頬にあたる。光芒と呼ばれる光の筋が、道の如くグラウンドに、そして先輩に、差し込んでいた。
「俺、この大会終わったら引退なんやんな」
そしてぽとりと落とされた事実。同時に僕の脳裏に再生される、練習試合の前の、谷村先輩の言葉。
『今年で引退になる野村先輩が先発すべきやろ』
この場にいたのは、僕のような、心を躍らせているような奴ばかりではなかったのだ。もうすぐ、野球に費やした貴重な青春を終える人も、いるのだ。今まで考えようとしなかった……いや、正直に言えば、忘れていた二文字だが、いよいよその重みを実感する季節となっていた。
「そういえば……そうでしたね。すみません、辛くなるようなこと訊いて」
項垂れる僕に、先輩は、気にかけてくれてありがとう、と苦笑交じりに言ってくれる。だが、瞳の奥ににじんでいる本音は、その偽りの姿に隠されてはいなかった。
「きっと……あいつらも今は、俺の引退のことは忘れとるよ。そのことについてちょっと悲しくはあるけど、それはそれでいいかな、って思う。だって、変に、構ってちゃんみたいなこと言って、気を遣わせるのは気が引けるし。それだけならまだしも、練習に集中できんくなって、初戦コールド負け……みたいなことになったら、どう謝ってええかわからんようなる。だったら、全部終わった後に改めて告げるのも悪くないかも……しれんね」
バッティング練習、ピッチング練習、みんなのサポート。それぞれの役目を果たそうと励んでいる選手たちを眺めながら、先輩の低い声は漏れ続ける。恐らく、監督は覚えているだろうが、ほかの人たちは、そうもいかない。
既に当たり前になりつつある光景を、生まれた我が子を見つめる父親のような眼差しで見やり、先輩は僕に向き直る。
「ほら、楠木も。とっとと練習再開せんと。俺が気持ちよく引退でけへんようなるで?」
笑顔を浮かべて、僕の背中を叩いてくれる。その勢いに押される形で、再びグラウンドの日常へと戻される。
もちろん、先輩には、結果がどうであれ、清々しい気分でユニフォームを脱いでほしい。それには、誰一人欠けることのない、先輩を送り出す「気持ち」が必要だと思う。仮に初戦敗退という苦々しい未来が待っていたとしても、さっぱりした気持ちで野球を終えることは可能なはずだ。そんな結末を迎えるために、考えを巡らせることも、きっと自由なはずだ――。
*
「なーに悩んでんの、友哉?」
あやべ球場のある綾部市にバスが差しかかったころ、突如、葵が僕の席の隣にやってきた。大きな瞳をくるりと動かして、悩む僕の姿をまじまじと見つめていた。
「ん、あぁ、ちょっとね。つか、瑠璃は?」
葵は瑠璃と一緒に座っていたはずだ。訊いてからその席を見ると、いつものツインテールを萎びさせて、眠っていた。あぁ、と得心する。
葵の質問については、隠すようなことではないのだが、正直に言っていいものかと思い、少しどもる。だが、一人で考えていても堂々巡りしそうな気がしていた。
「ちょっとって何やん? んなこと言われたら気になるやんか」
笑いながら僕に詰め寄る葵。ここまでされると、僕は葵の好奇心を止めることはできないので、観念してため息を吐く。
そして、今の僕の悩みの種を、本人に気づかれないよう、小声で話した。
二分ほどで話し終わった。いつかDMで会話したときのように、葵は口をはさむことなく、静かに聞いてくれた。全て聞き終わった後、葵は少し笑って答えた。
「すっかり忘れとったわ。そういや、そうなんやんな。野村先輩、これが終わったら引退なんやんな……」
先輩の想像通り、葵は完全に忘れていたようだ。
「そうなんよ。まぁ、僕も本人に言われるまでは忘れてたんやけどね」
でもだからこそ、思いだした今としては、気が気でないのだ。何か行動を起こさなければならないのではないか、とやきもきした気分になっている。
「私らーは出会ってちょっとしか経ってへんけど」
バスの騒音に掻き消されかねない声で、葵が喋り出す。
「斜陽の人たちにとっては、大事な大事な先輩やもんね。あ、もちろん私たちにとっても大事やけど」
うん、と僕は頷く。その意見に関して、僕も深く同意する。時は短かったが、たくさんの事を教えてもらえた。僕たちの、誇れるキャプテンだ。
「きっと、そこについてはみんな同意見やと思う。もしかしたら、少しは苦手だな、って思ってる人はいるかもしれんけど、感謝してへん人はおらんと、僕は思うよ」
「んー……」
僕の意見を聞いて、唸りこむ葵。何か、感謝を伝えられるような機会を、そうでなくても、先輩に楽しんでもらえるような機会を作りたい。
「あ、そういえば……」
そう考えている中で不意に思いだしたのは、練習試合の日の朝、葵が放った一声。確かあの時、葵は試合が終わったら、焼肉でもやろうよ! みたいなことを言っていた記憶がある。結局、葵が忘れてしまったのか、実行はされなかったが、今にずらして行っても問題ないのではないだろうか。時期的にも、夏が近づいているという意味で、良い頃合いだ。
「どしたん、友哉?」
「なぁ、葵。パーティー、開かへん? 焼き肉パーティー」
僕の提案に、一瞬ぽかんとする葵。しばらくして、自分の発言だったことを思い出したのか、思案の顔が、笑顔に変わる。
そうして、野村先輩には内緒、ということで、僕と葵が進める企画が始まった。もし今日の試合に負けてしまった場合は、また後日に集まって行う。勝ち進んだ場合は……言わずともわかるだろう。
「よっしゃ、なんか私燃えてきたわ。パーティー、成功させるで!」
いや、それよりも……と、僕は控えめにツッコむ。わずかに席からお尻を浮かせていた葵は、たはは、と笑いながら元に戻る。
そう、今は一戦必勝なのだ。そして願わくは、その焼肉パーティーを行う日が、少しでも先になりますように。それを成し遂げるには、まずは、今日の対開門高校戦。この試合を落とすわけにはいかない。