クレバスのような
*
新たに届いた、俊介のメッセージを見る。それを見て、僕が初めに抱いた感想は、「水臭いやつやなー」だった。折角みんなが、自分の犯したミスを、水に流そうとしてくれているのだ。このままでは、文字通り、臭い水が流れる結果になってしまう。
僕は――きっと僕だけではないはずだが――、誰か一人で監督の元へ行かせようなんて、考えもしていなかった。これは俊介だけの、はたまた、まだコメントなどはしていないが、野村先輩だけの責任ではない。監督が話していた通り、このような事態を回避できなかった、チームの責任だ。俊介の気持ちは分からなくもないが、一人で行くと言ったところで、誰一人として許すはずがない。そんな後味の悪い結末を、誰が望んでいるだろうか。謝罪をした後は、府大会の開会式なのだ。少しでも、チームの中に生じた軋轢を回復させておきたい。
僕は、その意思を伝えるためのメッセージを送る。俊介からの反応はなかったが、代わりに葵や亮輔が、僕の意見に便乗するようなコメントを送信してきた。三十分ほど経過したときには、また多くのメンバーによる、俊介の意見に対して優しい反発を告げるメッセージが、画面上に並んでいた。
十件近いそんなコメントが並んでも、俊介からの返信はない。ただ単にこのメッセージたちを見ていないのなら別にいいのだが、なんとなく、それはないだろうと僕は思う。きっと俊介は今、画面の前で必死に次に送信するメッセージの内容を考えているはずだ。また余計なことを呟いてみんなを不安に、もしくは怒らせるか、それとも、素直にみんなの厚意を認めるか。多少ならぬ葛藤が、彼の中に渦巻いていることだろう。
僕は一旦野球部のグループを画面から消し、俊介との個人のやりとりの画面を開く。これまで、個人的に話すことは、野球のこと以外特になかったので、一週間ほど前からメッセージは更新されていない。久々に開くと、まだ騒ぎながらも楽しそうに野球をしていたころの俊介の言葉の羅列が目に入った。それを見ていると、本当に短い間なのに、色々なことがあったなぁ、と再確認させられる。人生や青春というものはどこに落とし穴が潜んでいるかわからない。雪山に隠れているクレバスと同じだ。何もない平坦な道かと思いきや、踏みしめた瞬間に奈落の底へと叩き落される。しかし、今回の事件とクレバスとは根本的に異なる部分がひとつある。
タップして文字を打ち込んでいく。俊介の、固く凍った氷のような心を溶かすために。
『野球部のDM見た?』
『みんなああ言っとるんやから、そうしなよ』
あまり高圧的にならないように、慎重に言葉を選びながら送信していく。やはり、応答はない。
『誰も俊介のこと、怒っとらん。むしろ、助けたいって思っとるんや』
『もし責任を負いたい、って思っとるんやったら、みんなで謝りに行かせて』
『それが僕ら―にとっての、最高の責任の取り方やから』
見直してみると、同い年の何も知らぬひよっこが何を言っているんだ、と言われるような文章だ。緊張させないように、と考えて打ったはずなのに、説教みたいな文章になっている。やっちまったかな、と僕は苦笑した。だが、DMに打たれた言葉は消すことができない。俊介は確実にこの文章を読む。もしかしたら、今、既に読んでいるかもしれない。
「…………」
僕は微動だにせず、スマホの画面を凝視していた。いつか必ず来ると信じている、そのメッセージを待って。すると、野球部のグループの方が先に反応した。もしかしたら、と一割ほどの期待を感じつつ開く。
『わかった。ごめん、ちょっとわがままになりすぎとった』
見慣れたアイコンと共に、彼の出した答えが並ぶ。
すぐに、その時浮上していた数人が、感謝を表す言葉を投稿する。僕も、色んな意味を込めて感謝の言葉を綴る。僕の送ったメッセージは確認してくれたかわからないが、もし仮にそうだとしたら、僕としてはとても嬉しい。
明日の事が少し話せたことによって、僅かだが、気分が楽になったような気がした。同時に、DMの中の雰囲気も軽くなったように思う。雑談ができるほどではないが、一触触発の事態は避けられたように思えた。
「少しは、引き上げることができたんかな……」
ふと漏れた、そんな言葉。
今、俊介は溝の中から脱出しようと、必死にもがいている最中だ。もしその溝がクレバスなら、きっと彼は助からない。クレバスに落ちた時の生存率はほぼ0パーセントと言われている。あがけばあがくほど足場は崩れ、奈落の底へと叩きつけられる。
しかし、ここは雪山ではない。一見、無意味に思えるあがきでも、きっと意味を為してくる。足場が無くなったとしても、僕らが支えることができるはずだ。手を握ることだってできる。彼を助けることができると信じている。
「けどな……」
一つ気がかりなのは、唯一、野村先輩だけが、一切浮上していないことだ。謝ってはいたが、コメントはしづらいのかもしれない。
(早く、元のチームに戻れたらいいんやけどな……)
窓の隙間から見える漆黒の夜空では、ほの白い月の光だけが、この世界を照らしていた。
*
みんなに甘える旨のメッセージを送り、俺は一つ、ため息を吐く。これで少しは部内のムードもましになるだろうか。自分のせいだからか、結果的にそう落ち着くことが、少し嬉しく思えた。
しかし、メッセージを送る直前に俺との個別のDMに送られてきた友哉の言葉を思い出す。あれはなかなかにクサかった。小説で、男の主人公が、想いを寄せるヒロインに言う言葉のような雰囲気を感じた。彼としては、俺のことを精一杯思っての説得だったのだろう。事実、あの言葉に動かされた部分もある。けれど、それと同じぐらいに、俺の気分を楽にさせてくれた。あまりにも真面目な語調で、真面目なことを語りかけてくるので、不謹慎だが笑みがこぼれてしまっていたのだ。だから、続くメッセージもある程度すんなりと打つことができた。明日、すべてが解決したら、雑談がてら、このことを友哉との会話の話題にしてもいいかな。その時を想像して、俺は微笑を浮かべる。
再びスマホを見ると、メッセージが更新されていた。
『それで、監督には何て言うん?』
しかし、それに対して返信をする前に、電話がかかってきてしまった。ちなみに、俺は電話機能は滅多に使わない。今日みたいに、両親への連絡に使うぐらいで、友人と通話したことはほとんどない。誰だろう、と訝しがりながら画面を見ると、意外な人物の名前があった。
「もしもし、支倉です」
少し緊張しながら応答する。要件に大体の予想はついていたが、鼓動は早まっていく。
『支倉、夜分遅くにすまん。今、大丈夫か?』
巨躯を思わせる野太い声。それだけで、威風堂々な雰囲気を受け取る。我らが主将、そして今回の事件のもう一人の原因である人物、野村先輩だった。
俺はえぇ、と頷く。
『改めて、今日はホンマにすまんかった。烏滸がましいかもしれんけど、明日、一緒に謝ってくれ』
本当に律儀な人だな、と思う。俺としては、もう怒っていないので、あまりにもたくさん謝られると、却って背中がむず痒くなる。
「いえ、俺の方こそ、すみませんでした。自分のせいでみんなを巻き込むことになってしまって……。後悔しています」
『あぁ、俺もや。大人げなかったな、って思とる。説教やなくて、指導していかなアカン立場やのに。で、支倉、明日のことなんやけどな……』
それから二十分ほど、俺たち二人の会話は続いた。最初は愚痴とかも言っていたのだが、後半は至って真面目な話だった。
通話を終えて、三度DMを開くと、だいぶ話が展開されていた。監督に謝罪する内容について、みんな真剣に議論している。
(ごめん、みんな。んで、ありがとう……)
卒業式の時のような言葉を胸の中に思い浮かべる。そして俺は、俺たちの中で出した結論を、その渦中に綴っていった。