罪と義務
家に帰り、鞄と共にベッドに身を投げ出す。夕飯は、福知山駅のコンビニで買ったおにぎりとサンドイッチで済ませた。とてもじゃないが、今の自分のテンションで、家族と共に食卓を囲むと言ったことはできそうになかった。僕が醸し出しているオーラを伝播させてしまっては、両親も僕への対応に困ることだろう。そう考えた末での質素な夕食だった。
ずり落ちた鞄の音を虚しく聞きながら、天井を見上げる。眩しく光る蛍光灯が、僕の目を熱くする。白銀の攻撃に耐えきれなくなった僕は、ゆっくりと目を閉じ、暗闇を迎え入れる。精神を落ち着けると、嫌でも今日の光景が浮かんでくる。明日は夏の甲子園への切符をつかむための戦の開会式。普通なら緊張、もしくは期待で目が冴えるはずだが、今日は違う意味で眠れそうにない。
階下からは、両親が忙しなく動いている音が微かに聞こえてくる。何だか申し訳ない気持ちになりながらスマホを取り出し、いつものようにツイッターを確認する。
(あ、メッセージ来てる)
開くと、それは野球部のグループでの通知だった。野球部の全員が加入している中で、既に何人かが会話を繰り広げているが、僕はそれらは一切確認することなく、遡っていく。吹き出しの横に表示されている日付が今日になったところでスクロールを止めた。
支倉俊介の名で、メッセージが送信されていた。
端的に言うと、それは至って簡素な謝罪の言葉だった。三文字が、何の飾りもなく、ただ並んでいるだけの言葉。しかし、そこには相当な覚悟があったように感じた。レクリエーションや、練習試合を行ったとはいえ、まだであって数か月の人たちを相手に発言するのだ。そこに恐怖や不安を感じるなと言う方が酷と言えよう。
「そんな不安に思う必要も、ないけどね」
アニメや漫画に描かれる涙のような色をした吹き出しに、僕は語りかける。それに応えるように、新着メッセージの通知が表示された。俊介のメッセージから少しずつ戻していくと、そこには彼を責めようとするメッセージは全く見受けられなかった。加入している十一人のうち、僕を除いて六人ほど反応しているが、そこに棘や刃物はない。気にするな、とみんなが優しく慰めていた。
まだ俊介に何も言っていない人の中には、彼のことを許そうと思っていない人もいるかもしれない。致し方ないことだろうと、僕は思っている。部内の風紀を乱すようなことをしたのだ。それでも、半ば即席でできたようなチームの中で、半数以上の人が理解しているのだ。その事実に、不思議と気分が軽くなるのを僕は感じていた。まだ斜陽と出会っていないころ、メンバー集めを強いられて、僕が途方に暮れていた時に葵がかけてくれた言葉の一つ。本当にそうなるのではないか。根拠のない自信が、僕の中に広がりつつあった。
*
夕陽が眩しかった。山の向こうに沈んでいく燃ゆる恒星から顔を背けつつ、俺を乗せた車は、山に囲まれた道を走っていた。主将なのに、一年の俺に頭を下げてまでした野村先輩を突き放すように言って逃げてしまったことを、今更ながらに後悔していた。きっと今、野球部のみんなは、自己中心的な俺の悪口を言っているか、もしくは沈みきったムードをどうするか悩んでいる最中だろう。前者なら、俺だけのことを考えれば、特に問題は無い。だが、後者だった場合。その情景を脳内に思い描くと、今すぐにでも戻って再び頭を下げたい衝動に駆られる。以前、亮輔と共に部活をさぼったことがばれ、木ノ下とギクシャクした関係になった時のように、また部に迷惑をかけるのは避けたかった。と言うか、あの時に決心したはずだった。
「何やってんだか、俺は……」
流れていく、腐ったような色をしている木々をぼんやりと眺めながら、俺はため息を吐く。視線を前に向けても、鬱陶しそうな顔をしている父親を見るだけだ。だったら、山のにぎわいになっている枯れ木を見ていた方が、よっぽど心の癒しになる。
「また、みんなに迷惑かけたんか」
しかし、俺の心の平静を乱す声が、無慈悲にもかけられる。しかめっ面を隠すこともなく、俺は答える。
「あぁ」
俺の反抗する態度が気に入らなかったのか、父は少し語気を強めて言う。
「前も注意したやろ。そん時にお前、二度とチームに迷惑かけへんって誓ったやないか」
事実なので、何も言い返せない。だが、そもそもの原因は、目の前にいるこの父親、そして今頃家で呑気に過ごしているだろう母親なのだ。
俺が悪いんやない、こいつらが悪いんや、と前方からの攻撃に耐えながら、必死に自分に言い聞かせる。
「野球部辞めるんか」
もう何度目かわからないような脅し文句を、俺は再び耳にする。その言葉を聞くたびに、奴への鬱陶しさが増していく。俺がどう答えるかわかっているくせに、試すように、嘲るように、何度も繰り返し問うてくる。太もものあたりがうずうずして、ストレスの波のようなものが猛スピードで這いずりあがってくるのを感じる。言葉にできぬ不快感を体中で感じつつ、俺は背中を預けていたシートから、少しだけ体を離した。
自分の機嫌が悪いせいでみんなに悪影響を与えたり、心配させたりしているのはずっとわかっていた。俺としては、せめて学校にいる間はそのことを忘れようと努力はした。だが、野球を目の前にすると、どうしても心がモヤモヤしてきてしまうのだ。
――成績悪いんやから……。
――野球ばっかやっとるから……。
――野球部辞めるんか……。
今回のテストで、成績が下がってしまったことを、両親は野球のせいにした。毎日、顔を合わせるたびに、しつこく言われた。そのことが俺のストレスとなり、不機嫌の要因となった。
揚げ足を取るように次々と俺の弱みを口にする両親とは、もう極力関わらないようにすることを決めた。だがしかし……。
「俊介、ちょっと降りて来い」
父親の声が、俺の部屋に向かって投げかけられる。ドアで跳ね返らなかった音が、俺の鼓膜まで届く。関わりたくはなかったが、無視すると余計に面倒なことになりかねないので、のっそりと体を起こす。深いしわが入ったシャツを軽く伸ばし、暗い階段を転ばぬようゆっくりと降りる。
リビングに足を踏み入れると、母が洗い物をしているのか、水の音が絶え間なく聞こえる。それを受けて、どっかりと腰を下ろしている父親の目が光る。
「これからどうするつもりなんや」
また、辞めろとか言うんか……。うんざりしながら、俺は心の中でため息を吐く。だが、野球はこのままずっと続けたい。三年生になって、引退という二文字を意識しなければならない時になるまで、続けたい。だから、声と表情、そして気持ちは真剣に答える。
「まだまだ野球をやりたい。それは変わらん」
気持ちを伝えるべく、俺は低く、率直に言う。
父親は少しの間、目を閉じた。強く腕組みした姿勢は変わらない。ジャーという水音だけが、俺たち二人のBGMとなっている。
「せやったら、やることちゃんとせぇ」
静かに、重みのある声で、呟いた。
「わかっとる。勉強きちんとやりゃええんやろ。そんなん――」
「ちゃう」
俺の言葉を遮り、怒鳴るような父親の声が響く。どういうことだ、と、俺は一瞬次の言葉に詰まる。この親の事だから、勉強せんでええ、なんてことを言うつもりはないだろう。第一、勉強に関してずっとうるさく言い続けてきた人なのだ。でも、だったら今の言葉は……。
「どういうこと?」
俺の問いに、露骨にため息を漏らし、
「勉強も大事やけどな。お前、今日、練習途中で抜け出してきたんやろ? 前の、マネージャーとのいざこざの時に決めたやろ、もう迷惑かけへん、って。今回はもう迷惑かけてしもた。せやったら、勉強以上にせなアカンことがあるんとちゃうんこ?」
途中から、なんとなく父親が言わんとしていることが分かったような気がした。それでも、俺は口をはさむことなく、最後までその言葉を聞いた。最後まで聞いたうえで、俺は短く答えた。
「……あぁ、もちろん」
問いに対して、変な返答になったが、それでもきっと通じただろう。普段から冗談や迂遠な言い回しは受け付けない父親だが、今回ばかりは察したか、何も言ってこなかった。幾分か落ち着いた俺は、再び階段を上って自分の部屋へ行く。リビングを後にするときに、母親が小さく笑顔を見せていたのが、少し印象的だった。
部屋に戻った俺は、とりあえず文章で謝ろうと決めた。だが、正直言ってかなり怖かった。自分はみんなの恨みを買うのに十分な事件を起こしたのだ。罵り、蔑みの言葉を掛けられるのは、目に見えていた。それでも、受け止める「義務」が俺にはあった。世界は、ライトノベルのように甘くはない。寧ろ、辛口ばかりなのだ。簡単な道ばかりを選ぶことはできない。
俺は意を決して、野球部のDMにメッセージを打ち込む。一文字打つごとに緊張の糸が強く引っ張られる。蜘蛛の糸のように切れぬ糸は、永遠に伸び続ける。送信ボタンを押すときには、目を瞑っていた。
数十分ほど経って、恐怖心を抑えつけながら再びメッセージを見ると、想像以上に温かな光景が広がっていた。少しほっとした。けれど、俺の役目はまだ残っている。監督が言っていた、今後の事を話していない。俺は、それに単独で行くつもりだった。俺が帰ってしまったせいで、話し合いができなかったはずだ。一人で逃げ出したのならば、一人で戦地へ戻る。俺はまだ、これまでに見た光景を失いたくない。俺が犯した罪を償うために、一人で砦に向かいたい。細やかな俺の願いを文字にして、再び送信する。並ならぬ覚悟を携え、俺は俺の運命を待った。