深い溝
誰もが口を開けずにいた。紅い夕陽が差し込むグラウンドで、僕たちはお互いの顔を直視することもできず、茫然と立ち尽くしていた。なぜこうなったんだ、大事な日を直前にして何をしているんだ。そう誰かに詰問したいような感情には不思議とならない。誰にすればよいのか、自分の中で答えが出せないのだ。今回の件、あいつが悪い、と一概に名指しすることができない。みんな、空気と言う感染症を患っただけなのだ。今も周囲を素知らぬ顔で漂っている空気が、みんなを変えた。無意識に吸い込んだ病原菌が心を蝕み、崩壊させた。その影響が、今こうして良くない形で出されてしまった。
「と、とりあえず、監督が仰ったとおりに、話し合ったらどう……でしょうか?」
瑠璃がおずおずと手をあげ、提案する。
瑠璃の言うとおり、先ほどみたく固まっていては何も進展しない。今の状況を何とかして打破し、明日の開会式にきちんと全員で出場しなければならない。
「でも、話し合う、って言っても……。何を……?」
どこからか発せられた弱気な言葉に、貴浩が吼えるように答える。
「だから、これからどうすっかだよ! お前さっきの話聞いとったんか!?」
貴浩の叫びに、亮輔が肩をぴくっと震わす。
「監督も言っとっちゃったけど、このままやったら明日からの大会、気持ちよく出場できひん。野村先輩にとっちゃ、最後の夏や。俺たち二年とか一年にはまだ来年、再来年があるけど、野村先輩はこれが最後やねん。俺はこんな曖昧な状態で出場したくない。せやから――」
貴浩の言葉を、誰かが遮る。声のした方向を振り向くと、俊介が握り拳を固め、立っていた。
「それは……綺麗事ですか……。ホンマに、心からそう思って口にしてますか」
貴浩は迷うことなく、そうや、と首肯する。
光のせいで俊介の目は見えない。口だけが動いている。背後から刺す夕陽が、一層彼の雰囲気を寂しくさせていた。
「疑る、というか、先輩に対して言うような言葉やないのは、重々承知です。ですが……。俺には、先輩のその言葉がどうしても本音やとは思えないんです。今、俺の心が不安定なのは自分が一番よーわかってます。だからでしょうが……今はちょっと一人で考えたい気分なんです」
早口でそう捲し立て、俊介は一歩後ずさる。そのまま振り返って、走り出してしまいそうな気配を感じた。
「俺……今日は帰ります。親にお迎え、頼みますんで。自分が爆弾ばらまいといて、勝手にすいません」
抑揚のない声で告げ、今度こそ背中を向ける。止めなあかん、とわかっているのだが、やはり体が動かない。止めた後で、どう説得すればええんや、と臆病者の戯言が脳内で繰り返される。
「俊介」
不意に野太い声が響く。歩を進めていた俊介の足が、誰かに掴まれたようにぴたっと止まった。一歩、また一歩、野村先輩が俊介に近づく。その距離が一メートルを切ったあたりで、先輩は止まった。俊介は振り返ることはない。ただ猫背で、地面を見ているのだろう。そこには無い自分の影を、探しているのだろうか。影は今、野村先輩の足元にある。先輩の大きな影と融合して、僕らの元まで伸びている。
「さっきは、ホンマに申し訳なかった。俺が一人で勝手にピリピリして、お前を責めてしもた。まだまだ俺も修行不足や。せやから、頼む。こんなふがいない俺を、お前に頼ってもらえるような先輩にさせるために、一緒にもうちょっと話してくれへんか。お前が嫌なら、俺は止めん。そんな権利ないと思とる。俺がいま、めっちゃがめついこと言っとるのもわかっとる。俊介、頼めへんか」
主将である野村先輩が腰を低くして、俊介に頼み込んでいる。これ以上ないほどに異質な光景だ。普通の野球部ではまずありえないだろう。だが、ここは"普通"ではない。ほかの世界とは別の、異次元のような場所と言っても、過言でないかもしれない。俊介は首から下を全く動かすことなく、低く告げた。
「……先輩の気持ちはわかりました。俺ももう、さっきの先輩がしたことについては、あまり怒っていません。これはホンマです。でも、先ほど言った通り、今は一人で考えたいんです。先輩の気持ちは大変ありがたいんですが、今はここにはおれません。ですから、すみません」
今日何度目かもわからない謝罪の言葉を述べ、俊介は歩き出す。今度は誰も引き止めなかった。俊介の相手となった野村先輩でさえ止めることはできなかったのだ。ならば、今、ほかの誰かが声をかけても、効果的な結果は得られない。きっと全員が、自分に対してふがいなさ、やるせなさを感じているだろう。刻一刻と時が過ぎていくにつれ、背中は遠ざかっていく。陽もどんどん山の中に消えていく。そして闇の世界が訪れることとなる。
一人欠けた僕らに、これ以上の話し合いは無理だった。歯車の凹凸が一個無くなったのと同じ。途中で穴が開いた歯車に、運命を委ねることなどできやしない。監督はいつになっても良い、と言っていた。それは今日のなかで、の事だろうが、それは不可能だった。結局、監督に全員で頭を下げ、明日の朝に必ず結果を伝える、ということで妥協してもらった。
「じゃ、また……明日な」
別れる二校の選手の表情は夜の闇の中のせいだけではないだろう、とても暗い。明日なんて訪れなければいいのに、と思っているようにさえ感じられた。
斜陽の選手はそれぞれの家路へ、常楽の選手はバスに乗り込む。喧騒の世界から切り離されたバスは、これまた静かに山道を走り出す。
僕は席で一人、去っていく俊介の背中を思い出す。監督は言っていた。今のままやったら、大会には出させん、と。
あのすべてを諦めきったような、みんなとの関係を無理やりにでも断ち切ろうとしているような姿からは、その言葉を現実化させんとする雰囲気を漂わせているように、僕には思えた。




